03
ファンタジーさんの心肺蘇生なら鋭意続行中であります。
「お前ら何してる!?」
施設の職員の声だと気づいたが、それは相手も同じことだった。最後とばかりに包丁を振りかぶる。
泣きながら、助けてください、とどうにか言った。狂ったような子供たちの笑い声。職員は動揺したのか、なかなか来ない。期待などした俺がばかだったのだ、と頭の片隅に思う。
――ああ、あいつらなんか全員消えてしまえ。
そこから時間は酷くゆっくり動いた。目に向けてやってくる包丁の、血塗れの色彩、刃こぼれの一つ一つまで明瞭に知覚する。目は見開いたまま閉じられない。睫毛の先に先端が触れる。
逃げ出したい。逃げ出せない。ここから消えて、どこへ行くあてもないが、消えたい。そうだ消えてしまえばいいんだ。
この世界、どこへ行ってもこういう気違いがいる。耳を切られて、こんな目に会って、生きている意味などどこにもない。必要もない。だったらもう、この世界から消えてしまおう。
彼はほとんど発狂していた。
消えてしまいたい。消えてしまえ。消えたい。消えろ。消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろきえ消えろ消えろ消えて消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消え消ろ消え消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消消消消消消消消消消消消消消消消消消消消消消消消消消消消消消消消消
『消』
想像していた痛みは、いつまでたってもやってこなかった。
しかもいつの間にか、自分は目を閉じている。がくがく震えながら目を開けると、同室の子供たちが驚いたような顔をして静止していた。包丁はどこへ行ったのだろう。
拘束が緩んでいて、思わず職員のいる方へ這いずって逃げた。期待を否定しながら、それを捨てきれない自分に憤り、卑屈に加害者を見つめ続ける。
「な、何があったんだ?お前、耳、切られて……顔も」
相手の動揺を誘わないように、努めて平静を装っているのが伝わる時点で何かを間違えている。間違えているが、お互い様だ。今更気を遣われても動揺から抜けられない。
「あ、あのっ、夜中に、起こされて、包丁、持ってきて。それ、で、押さえつけられて、逃げられなくて、耳、とか、顔、その」
一方、いじめっ子には取り返しのつかない変化が起きていた。
四人は頭の先からぼろぼろと崩れて風に溶けてゆく。形象崩壊は進み、首から上がなくなった。頭を失った身体が重々しい音を立てて崩れ落ち、それも消えてゆく。
「そうか、あいつらが……あれ?あいつ、名前、何だっけ」
何も言えずに赤鬼は首を左右に振った。何だか変にとぼけた声の職員が気持ち悪かった。
顔と耳の傷から痛みが引く。口の中に押し込まれた耳はいつどこにやったのかわからない。わかりたくない。恐る恐る触れたら、傷は跡形もなく消えていた。
包丁や子供たちと同じように、消えていた。増えていたのは一つになっていた耳だけである。
「は、あ、あは」
正気に戻りはしたものの、頬に触れたままだったから、自分が笑ったのが分かった。
それから、赤鬼と職員はよろよろと這うようにして施設に戻り、職員は彼に入浴と着替えをさせた。シャワーの熱いくらいの湯が何だか寒く感じられて、冷たいリノリウムに背中を貼りつかせ、長く長く肺の中の空気を押し出す。
嘔吐感はない。吐けでもすれば……何かが変わるわけではないだろうけど、それでも彼は彼をこれ以上軽蔑しなくて済むような気がした。
何が悪かったのだろう。何をしたからこうなったのだろう。何が起きたのか、彼は詳細につかめてはいなかったけれど、おそらく自分がしたのは殺人というものなのだと自覚した。
だって消えたもの。目の前からざあっと消えていなくなってしまったもの。これは殺人に相違ない。あの職員はろくに名前も覚えていないけど、今頃胃を痛めているだろう。実際犯人である自分はともかく明日あの男があちこちに説明して回らないといけないことは少々気の毒だった。
静かになった部屋で一人寝床に入りながら、明日目が醒めなければいいのになと思った。目の下の荒れた皮膚に、ドアの隙間から流れる風が沁みた。
願望をよそに目は醒めた。これっぽっちの期待も許されないのか、などと嘆く自分を笑う。
――赤鬼よ、人を殺しておいてその態度か?
もとより彼は外からの期待に応えられるような人間ではなかった。そのような者がどうして他人に期待などしているのか。まるでブラウン管の中で行われる低俗なコントじゃないか。起承転結、揃っている。
それでもなお期待して人間を信じろ?本気で言える奴は頭がおかしいとしか思えない。裏切るとか裏切られるとかの話ではないのだ――もっと直接的に卑近に、自らの生命に関わることだ。別に死んだっていいじゃないかとも思うけれど、それは積極的な「死にたい」ではない。だったら生きていくしかない。
もう誰にも期待なんてしない。誰にも頼ることなく、自分の力で、自分自身を助けて生きていくのだ。頼れる相手など元からいないけれど、これからそんな存在が現れたとしても、絶対に頼らない。頼れることを期待しない。
人間の善意など信じない。それは同じ人間に含まれる悪意を降すに能わない。所詮人間など獣の一種に過ぎないのだ。獣に期待などという概念があるか?否。ゆえに赤鬼は期待しない。誰にもどんな内容も期待しない。してたまるものか。