ユメカウツツカ
本編です。文字数があれだったので前編と後編に分けてしまい短いですが、内容はそれなりに濃いといいなって。
当日、イルマが目覚めるとまず最初に香ばしい匂いがした。目を開けるより先に感じる。鼻は閉じるなんてできないから当然だ。
トーストとコーヒーかな。懐かしい。起きて来るより前に朝食の準備が整っているなんていつぶりだろう。あの頃はよかった。
師が家事などをまとめてやっていたから指にあかぎれができたとかで治癒魔法を使わなくてもよかった。こんな朝早く起きる必要もなかったから、起こされるまでぐーすか眠れたものだ。
ああ、ずっと寝ていたら怒られてしまう。起きなきゃ。パジャマのままひたひたと廊下に出る。スリッパを履け、着替えて来いと叱られそうだ。困ったように眉をひそめた顔が出てきて、小さく声を立てて笑う。少し具合が悪そうに咳をしていた。
雨の音に似た、これは目玉焼きの音。師は卵黄を半熟に仕上げるのがうまかったっけ。イルマは半熟だけに半々の確率で火が通りすぎてしまう。目分量には違いないはずだが何でああも差があるのか。
ふふん、と得意げに微笑む人影は階段の前の玉すだれからは見えない踊り場で消えた。何、かくれんぼ?
かくれんぼじゃなくて雲隠れだよ。お隠れになってるんだよ現実見ろバーカ。自分の中にいる子供の顔面に言葉の鉄パイプをフルスイングして、下へ降りる。
階段から右側、いい匂いのするキッチンを振り向く。最近掃除していないからか、換気扇の音がちょっと気になる。
築23年にしてはきれいな水回りとは言っても、やはり建築当時のままだからカウンターキッチンなんて洒落たものではない。リフォームの一つでもしていたら別だったろうが、結局五徳を洗ってタイルの目地のカビを駆逐するくらいが関の山だ。
だからその前に立つ人物は窓際に向かって、ダイニングには背を向けてしまう。親子の対話もくそもあったもんじゃないよなあと思いつつ、目を上げた。
そこに師がいた。
「え……っ!?」
全体にコーヒーの香りに包まれている。自分が大きくなったからか、記憶より一回り小さく見えた。
フライパンを前に、少し腰を捻って立つ柔らかい姿勢。東向きの窓だから日光がさんさんと降り注いで、こちらに向けた背と横顔は陰になる。記憶にあるより色あせた足元のマットからフローリングにはみ出して長々と落ちる影。
背は高いとは言えないが、裾が長くくるぶしまである上着と、男にしては狭めの肩幅が実際よりも身長を高く見せていた。白魚のような手指は痩せて筋が浮いている。
胸元あたりまで落ちかかる髪は乳色の日光を反射して、ほとんど広がらないで、俯けたうなじに絡みつく。鼻の高くない横顔には長い睫毛や弧を描く眉。切れ長の目と吊り上がった唇が薄暗くなった顔の中でぬらぬらと妖艶に浮かび上がる。
記憶に違わず、どう見たって壮年なのにどこか少年らしさを残す風貌だ。
「し、ししょー……?何でッ」
つい言葉が飛び出して、思った。何で、何だろう?何を言っているんだろう。この先があるなら私は何と言うつもりだったんだろう。何で起きているの?何でそこにいるの?何で――生きているの?
雑念を断ち切るように、かち、とコンロの火が消される。目玉焼きができたらしい。
魔導師はキッチンの前から一歩下がると、両手を広げてくるりと一回転して見せた。広がった袖と右側にだけ大きくスリットの入った裾が風をはらんで吹き上がり、慣性で少し大げさに回って足に絡む。
ヒント・ししょーはこの世におりません