殺意の幻影
旅団ではなく本編です。長めですが気長にどうぞ。
最近忙しくってパソコンに触る時間がありません。受験生舐めてたぜ。
目は見開いている。暗い部屋が網膜に映っている。他でもない自分が眠るために暗くしたのだ。朝になれば日の光が差し込んで明るく、日中などは電灯も必要ない、そういう部屋である。
だが、目覚めた今、暗い。
そうだ俺は夜中にふっと目が醒めたのだ――しばらくして了解した。真夜中に目が醒めるのは初めてではない。何の拍子にどうして醒めるのかわからないけど、何度かこうなった。
それにしてもこんなに目が冴えるのは嫌だ。他に誰も起きていない時間だろうから寂しいし、何より暇。いつかの眠れない夜のように、本でも読もうか。
電気をつけようとベッドの宮のリモコンに、手が伸びない。
手だけではない。上へ手を伸ばそうとしたらまず上がるはずの肩が動かない。よじれる腹が微動だにしない。口は開くが、声が出ない。
――金縛りだ。
こういう時は大体、あいつが来る。
「なぜ貴様は生きている?」
――ほら見ろ!
いやに落ち着き払った声が言う。何を落ち着いているのだろう、心の底では恨みと総称されるようなものが渦巻いているくせに。
真っ暗な部屋に浮かび上がった声の主の姿はところどころぼんやり透けて、線香の煙のようだ。相手はもう一度、先の質問を繰り返した。知るか。知ったことか。眠いんだ。目を閉じる。
ぞっとするほど冷たい手が瞼に、額に触れた。持ち主同様幻なのだとわかっていても恐ろしい。幻でも現実でも、感覚が発生するのは頭だから同じことなのだ。かさかさと、どこか虚ろに乾いた感触は死体の肌に似て、なのに吐き気がするほど生命力を感じる。嫌な手だ。
養母に話した端から、しかも今日は今までで一番はっきりとそこにいる。
いや、言葉にしたからイメージが固まったのか?
「では、誰のために、何のために生きている?」
誰のためでも構わないじゃないか!黙ってくれ、と飲み込んだ小さな悲鳴が痛みを伴って気だるい頭蓋の中を駆け回る。叫ぶな。叫んではいけない。夜中だから。近所迷惑だから。
ぐっと耳を両手で塞ぐ。聞きたくない。ごうんごうんと腕の中に血が流れる音がした。音がかえって不安を煽る。冷たい手が頬に触れて情けなくも裏返った悲鳴が漏れる。
その拍子に目も開けてしまって、相手の顔をわずか数センチのところで見てしまった。幻の唇が怒りにわななく。
「死ねばいいのに」
耳を塞いだって何の意味もなかった。そりゃあそうだ、相手は自分の頭の中にいるんだから……恐ろしい鬼火を孕んだ双眸に泣きそうになりながら目を閉じる。これ以上見ていたら睨み殺される。そうでなくとも気が狂う。見ちゃだめだ。見ちゃだめだ。
冷たい手は今、首の後ろの延髄のところを触っていた。ここはアイスピックか何かで突けば殺せるところだ。嫌だ。死にたくない。
「死んでしまえ」
次は頸動脈。頭へ流れる血の温度が落ちる。刃物か何かで切り裂けば殺せる――殺される。落ち着け。何をうろたえている。相手には実体がないんだ、血管を開いて失血死なんてさせられるわけがないだろう?
ないはずなんだ。
「死ね、死ね、死ね」
首に細い手指が絡みついている。そのまま絞めれば扼殺体の一丁上がりだ。だが、首は絞まらない。幻の指は血と肉と骨をすり抜けていく。だんだん荒れ果てた心に落ち着きが帰ってきた。肉体を持っているのはこっちの方だ。
とっくに死んだ亡霊などに負けるはずがない。
ゆっくりゆっくり息を吐いて、もう一度吸い込む。閉じた瞼を押し上げて、初めて相手の姿をちゃんと見た。
肉の薄い青白い頬を、高い頬骨の上の切れ長の瞳を、色の抜けた金の髪が両肩に広がっているのを、……自分とそっくり同じ顔を。
「ニーチェ?」
別の声で我に返った。暗い中に、トイレにでも行こうとしたらしいジールが立っているのが見える。ひたひたと近づいてきた。ニーチェの名を呼んでいるが視線はどう見ても首を絞めているほうにある。
どうしてイマジナリーフレンドがジールにも見えているのかはともかく、よく似ているから勘違いしているのだ。声を出そうと口を開いた時だった。
「……そう呼んでいるのか、これを」
幻はニーチェより低い、そこだけ年を取ったような声で呟いた。決して大きな声ではないのに、侮るような色がよく響く。逆光になっていてジールの表情は見えないが、いつものアホ面で驚いていることだけはわかった。
「も、亡者さん!?どうして」
「どうせ貴様にはわかるまいッ」
幻がほんの少しだけ語気を荒げた。怒りよりも苦痛と悲嘆が籠っていた。地獄で毎日絶叫を聞いているはずの鬼がすくみあがる。
「いいか、悪いことは言わん。……今すぐこいつを殺せ」
自分が殺されるべきである、と彼に言われる理由をニーチェは確かに知っていた。反論の余地もない。
間違いなく、死ぬべきだというか、生きていてはいけないというか、ともかく彼の言うことは正鵠を射ている。
ジールは彼に従ってニーチェを殺すだろう。それが正しいから。もちろん死にたくはないのだけど、手を下すのが彼女なら、母ならまだましだ。
死の瞬間を夢見てゆっくり目を閉じた。
「ふざけないでください!この子を殺すなんてできないに決まってるでしょ!」
閉じた瞼の向こう側で繰り広げられていることが、どうしても理解できない。なぜ否定するんだろう。何をどう考えても正しいのは幻の方だ。
「ふざけてなどいない。最善の策だ。こいつは誰かを愛すれば愛するほどその誰かを害する。社会に巣くう癌細胞とはこいつのことだ」
まったくその通りだ。自分でもわかっている。純粋でもなければ無垢でもない。むしろ逆だ。そう言う幻だって純粋無垢とは程遠い、なんて言えない。五十歩百歩なんてものではない隔たりがある。
それにしても、ほとんど接点がなかったはずの幻はどうしてジールを諭しているのだろう。こんなに優しく。脅すとかすかすとか、いくらでも方法はあるだろうに。
「が、癌細胞!?何を言い出すんですかあなたはっ!う、あ、言論の自由ですよッ!?」
それを言うなら誹謗中傷である。
「それを言うなら誹謗中傷だな」
どっちも漢字が四つ入ってるじゃありませんか!わけのわからない理屈を振りかざして頭を抱える養母に、幻はちょっと気の毒そうな目を向けた。多分ニーチェも同じような顔をしている。
「そんなこと言われてもわかりませんよッ……!」
「理解する必要はない。殺さなければ、貴様が死ぬだけだ」
幻がかすんで消えてゆく。もう限界だ。宿主のニーチェが完全に目を覚ましてしまったから、虚ろな幻は消えるほかない。消える刹那、淡い色の両目が刺すようにこちらを睨んだ。
「また、来よう」
来なくていい。蚊の鳴くような声で生意気に言い返したのが限界で、気を失うように眠りに落ちた。あれを出しているのは自身の体にも負担になるらしい、と後から思う。
はやく受かるか落ちるかしたいなあ……。