実存さんお仕事です
回想編終わりです。次からは本編を垂れ流します。
引き攣る笑みを浮かべた乾いた唇がゆっくりと開く。声の出し方を忘れた人のようにしばらくぱくぱくと開閉していたが、やがて言葉が声になる。
「葛南エメト。葛南が名前だが、読みにくいからエメトと呼ばれることの方が多い。珍しい名字持ちだ」
「えと」
かつなん。かつなん。聞いたこともない。どんな字を書くの?それも聞きたかったが、聞くべきことは――答えることは、他にある。
「貴族さん?」
「その通り。1000年前の魔界からの防衛戦争で軍を率いて戦果を挙げた。……どのみちコルヌタは魔界に占領されたのだから無駄骨だな。ともかくその時貴族号を手に入れた名門だ」
弟子の回答を聞いて満足そうに目を細め、肩を撫でる手でめちゃくちゃテンポの速いメトロノームになって現実に戻ってくる。どれだけ嫌なんだ。
師は殺そうと思えばいつでも殺せる相手のはずだが手を出していない。必死で我慢しているか、ある程度相手を信用しているのか。どっちだかわからない。
またひとつ疑問が生まれたからイーブンだが、ひとつイルマの中で納得が生まれた。貴族なら行事などでテレビに露出することもある。見たことがあっても不思議ではない。
「……なおかつ我が国の現職内閣官房長官だ」
「ふへっ」
思わず変な声が出た。よくは知らないけど総理大臣に次ぐ立場の人じゃないか。ここまでのあれこれで、そうだったとしても不思議はないような気がしているが、実際にそれを聞かされると別の衝撃がある。
「世も末だろう……むぐ」
魔導師の頬にエメト官房長の人差し指が第一関節まで刺さった。口を閉じられなくなった魔導師があがあがと変な声を漏らす。ぐりぐりとそれを弄んでから、手を離した。
蒼白な頬に一点、赤い跡が残っている。
「お前はもっとましな紹介をできないの?」
微笑んでいるからただの問いかけに聞こえるが、脅迫と同義だった。
「……俺はこの人に戸籍を借りている。つまり、戸籍上では俺とエメトはほぼ同一人物だ。二重に計上することで管理している」
「えっと、それで色々なサービスを受けてるってこと?」
「そゆこと」
さっきからいたぶられている魔導師はほとんど涙目だった。まるで抵抗をしない。弱みを、というより戸籍を握られているのだ。愛想をつかされたら存在がなくなってしまう。
ともあれ悪い人ではなさそうだ。改めて、本人に話しかける。
「初めまして、ししょーの弟子のイルマと申します」
「こちらこそ。葛南エメトです。エメトって呼んで、みんなそういうから」
慇懃に差し出された名刺には、うろこのない字体で彼の名前と各種肩書が書かれている。漢字とカタカナとひらがな。この国の文字だ。裏返してみた。本当はもらった名刺をその場で裏返してはいけないのだが、年端もゆかぬ少女が知っていようはずもない。
裏には、やたらと大きな文字で「emeth」と五文字のアルファベットが並んでいた。変なデザイン。それだけを思って名刺をポケットに入れた。お尻のポケットである。またしても、失礼極まりない。
「セジャって何?」
「外国語で王太子のことらしいけど、僕は深く考えず『王子様』のイメージで使ってるよ。最初は王子とかプリンスって呼んでたけど彼が嫌がるもんだから、仕方なく国内でマイナーめな奴にしたの」
本当かな?ちらっと師を見ると、虚ろな目でただただ笑っている。じゃあ本当だろう。本当ということにしておこう。
「ししょーをししょーって呼ぶようなもんなんだね」
「うん。……えっ?なにそれ、漫才師みたいなんだけど」
漫才師呼ばわりのししょーは背中を撫でさすられてぐったりしている。やっぱり眠いんだろう。察しつつも、察した内容が間違っているけれど、容赦はしない。
「ししょーししょー、私渾身のネーミングが漫才師呼ばわりだよー」
男は緩慢に顔を上げ、疲れ切った笑みを浮かべた。
「魔導師と漫才師は似ている……なぜなら、まで始まりしで終わるからだ……」
「ほんとだ!……どゆこと?」
「ふははははもうどうにでもなーれ。あっはっはっはっはっは」
何を言っているのかわからないと思うが、もはや本人にも自分が何を言っているのかわかっていない。温かい目で見守ることを推奨する。
このあとも二言三言、イルマはエメトと話したが、相手はほとんど会話にも心を傾けずひたすら魔導師を愛でていた。髪を弄られたり耳もとで何事か囁かれたりしている魔導師は完全に脱力してほとんど人形である。遠くに行ってしまっている。
そんな状態の事務所の主がどうにかこうにか帰ってきた時には、もう日は傾いていた。
「何の用だ」
鋭い眼光がラベンダーの瞳に突き刺さる。エメトは少し驚いたように笑みを消して、それからさっきまでよりも目を細めた。
「いい目だね……。見られるとぞくぞくする」
「そんなことは聞いていない」完全に威厳を取り戻した彼は一切の感情を見せない。先ほどまでの怯えようが嘘みたいだ。「何の用がある、と聞いている」
聞いているのかいないのか、うっとりとため息をついて、魔導師の頬をなぞる。あれほど嫌がっていたくせに触れられても反応を見せない。まるで彫像である。
「頼みたいことがあるんだ」
不思議な声だった。瞳も唇も頬も仕草も、エメトは笑っているのに、声には感情が混じっていない。それを聞いて、師はイルマに場を外させた。特に理由もつけなかった。
数日後の夕暮れに彼が一人で出かけて行った。夜遅くなって帰ってきて、彼女には十分背景を察することができた。
官房長は、暗殺の依頼を持ってきたのである。
次……書き溜めがなくなったら、何の救いもない過去編を何話にもわたって続けるんだ……。