逃避・頭皮・当否
引き続き地獄です。子供の時にだけあなたに訪れるときもあります。
「えっ?どういうことだってばよ」
驚きのあまりジールの口調がおかしくなったが、ニーチェはいつものこととばかり意に介さず本の表紙を示した。
厚さは背表紙の幅にジールの指が三本入るくらいだ。活字に慣れていない身には中身を想像するだけで胸やけがする。
どうやら精神病についての本だ。表紙にもタイトルにも特に変わったことはないが、ところどころに付箋が貼ってあるのが奇妙と言えば奇妙だ。どこかから借りたのだろうか。
精神病とニーチェ、一つ思い当たる節がある。
「そ……そんなに気にしてたんですか、自殺発作はあなたのせいじゃないでしょう」
「発作のことではない」
ニーチェはもう訂正しなかった。訂正するのはもう諦めた。諦めたから試合終了だ。もう何でもいいんですよだ。
「あれは薬を飲んだら収まっただろうが。別件だ」
別件?うーんちょっと思いつかない。ジールのぱさぱさの脳みそは「うつ病とか甘えだと思うの」という一文をなんとか絞り出した。
「あ、そう」
いっそ不安を覚えるほどの異様に淡白な返事をしてから、ニーチェはしばらく何かを考えていたが、不意に言葉をつづけた。
「じゃあ明日から必ず残業して帰ってこい。日付が変わるまで家に入れないからそのつもりでな」
「ひどい!私が鬱になってもいいって言うんですか!?」
「甘えなんだろ?」
言われてみればぐうの音も出ない。もちろん本当にうつ病の患者は甘えでも何でもないのだが、養母の馬鹿さ加減をこれ以上露見させたくないニーチェは一気に畳みかけて終わらせた。
これを逃避、という。
「幻覚が見えるのだ。話しかけてくる」
「えっ」
病院にまた行くことを考えた。日曜はやってないんだっけ。火曜日は……上官に呼ばれてるから駄目だろう。月曜日も辛い。でも早めに対処しないとまた死にかけてしまう。
心配している彼女をよそにニーチェは付箋の一つを引っ張って、あるページを開けた。調べたのは彼自身らしい。
「調べてみたら子供がたまに見るらしい。イマジナリーフレンドという」
「知ってる!それって想像力の高い子が見るやつでしょ!」ジールが知っていたことにちょっとほろっと来た。「それで!誰が何人見えるんですか!?」
想像力が高い、ということは……つまりどういうことだかよくわからないが、とにかく頭がいいってことだろう。それに越したことはない。
で、ゆくゆくは出世アンド出世、このピンクの髪が白くなってからは……そもそも鬼は老けないのだが、とにかく安泰な隠居生活を提供してくれることだろう。パーフェクトプランだぜ。
「数は一人だ」
「ほう。誰なんですか?」
明らかに目が泳ぐ。笑うなよ、と一つ置いた。妖精さんとかかな?だとしたらただただ愛らしいではないか。いかつい見た目を克服できるぞ。さあ言ってごらん。お母さん笑わないよー。
「……禿げたおっさん」
「へっ?」
慣れ親しんだ単語が二つ並んだだけなのに、意味を量りかねる。どういうことですか?と聞き返す。
あちらはむっとした顔で、笑うなと言ったではないか、と睨んでくるが、まず言葉の意味が分からないから笑おうにも笑えない。頭はそんなに良くないのだ、もっと噛み砕いて説明してほしい。
「だから、禿げたおっさんなんだ。イマジナリーフレンドが」
はげはげ、と子供らしい仕草で頭を指さす。そこにはふさふさと癖のある金髪が目元を少し隠して伸びている。後ろは項を覆っているだろう。
奇麗な髪だが、こうして見ると大分長く感じる。邪魔だろうし、男の子だし、そろそろ切った方がいいだろうか。
「……小人さん、的な?」
どうにか良く解釈してみたが、ニーチェは首を振る。当然横だ。やっぱり髪が長すぎる。今度美容室に連れて行ってやろう、と思った。自分が切るような技量はジールにはない。
「身長が180センチくらいあるただの中年男性だ。ときどき焼酎とツマミを要求してくるが黙殺している」
「ぅえええええ……」ひねりもない、てらいもない、本当にただのおっさんだった。「何て夢のない……」
「ほっとけ」
ニーチェらしいといえばらしいのだが、嘆かわしい事実である。……以上、新鬼育成中の鬼・ジールの報告書より抜粋――。
どうでもいいけど、相変わらずニーチェ君はどう見ても20代の青年なんだよなあ。
イマジナリーフレンド
想像力の高い子が見ることがある。いわゆる、他の人には見えないお友達。別の人格だとか、宇宙からの電波だとか、色々言われているけど、よくわかっていない。
異様な姿をしていたり、パッと見てそれとわからなかったりすることが多い。子供自身の脳内で生まれるイメージのはずなのに、本体の持たない知識を保有していることがある。
他にもアドバイスとか色々くれるらしい。
ちなみにありんこは見たことがない。