甦れ昨日
回想で始まって現在にやってくる謎ですね。
部屋に入るとイルマが悲鳴を上げて鼻と口を押えた。
「うっわ埃っぽい!ししょーちゃんと掃除してるの?」
「しているものか。一年半前から開かずの間だぞ、ここは」
「きたなーい!一遍掃除しよ!掃除!」
あー、聞こえんな。ピアノのカバーを剥ぎ取ると、さらに埃がもうもうと立ち込めた。ピアノ本体は無事だ。ギャーッとイルマが悲鳴を上げて窓を開ける。
風が吹き抜けて、室内の気温がわずかに下がった。冬の朝は空気が冷たい。眉を顰める。
「おい、近所迷惑だ。ピアノを弾くときはちゃんと窓を閉めて、カーテンも引いておけよ」
「近所迷惑以前にこんなとこに換気もなしでいたら病気になるよ!」
病気になるよ。何を考えているはずもない言葉が黒々と響いた。病気になる。病気に、病気。自分が震えたのがはっきりとわかってしまった。顔から血の気が引いたのは寒さのせいではないだろう。
「……ししょー?」
弟子の声で我に返った。なに、前から分かっていたことだ。何をいまさら動揺することがあるのか。それもこんなあどけない少女の前で?
無理にでも口角を上げて、震えを押し殺す。
「おかしいな……イルマがまともなことを言っている。キャラ崩壊だ……」
「ちょっと待ってよその理屈はおかしいよ。あと掃除しよう、やっぱり。くしゃみが出そうだよー」
結局音楽室のみ、前倒しで大掃除が行われた。手遅れの自分はいいとして、さすがにイルマまで具合を悪くしたら良くないだろう。
掃除は得意でも苦手でもない。嫌いでも好きでもない。ちょっと億劫なだけだ。
「それ嫌いって言わない?」
「そうかもしれんな」じゃあそういうことにしておこう。自分は掃除が嫌いなのだ。「さあ、窓を閉めろ」
カーテンは閉まらなかった。分厚いガラスの窓から曇天がのしかかってくるから目をそらす。空を見るのは好きではない。はっきり言って嫌いだ。ただでさえ希薄な自分の存在感が、そのまま上空へ吸い取られて消えていく。どうして人は途方に暮れると斜め上を振り仰いでしまうのだろう。
ああ、洗濯するために外して風呂場に放り込んだっけな。あとで踏み洗いしよう――譜面を開いて、鍵盤に手を添わせた。
「そういえば、どんな曲がいいんだ?」
「何だっていいよ。ししょーの好きな曲なら何でも」
どうなったって知らんぞ、と憎まれ口を叩いてページをめくる手が震える。自分の好きな曲が思い浮かばない。指は震えた拍子にページを少し破って、鍵盤の上に戻ってくる。
「どうしたの?」
弟子の声が遠い。好きな曲が五年以上前のことと同様にわからない。厳密にいうとどんな技能を得たか、どういう知識を得たかはわかるし使えるのだが、なぜそれを覚えたのか、プライベートで何をしていたか、覚えていないのだ。
結局、男は当たり障りのないピアノの練習曲を弾いたという。それでも少女は喜んだ。
「すごい!そうやって弾くんだ!ねー私もやりたいー。今度教えてよー」
きらきら光る淡い緑のつぶらな瞳が、栗色の髪が、白い歯がなぜか遠ざかってゆく。遠ざかるはずはない、だって……どうして?答えに行き着く前に、口が記憶通りの言葉を発する。
「ああ、教えてやろうとも。だがその前に、昼飯だな」
……。……。
「……っか」
急に息が詰まった。何で?何が起きた?首を絞められていることに気付いたころには酸欠と焦燥で頭がボーッとしている。気づいたのは首を絞められたことがあるからか。
読んでいた文庫本を床に落として首に絡みつく指を引き剥がそうとする。何て握力だ、まるで歯が立たない。右手の爪が刺さる皮膚が痛い。右手?
ああ、右手だけで剥がそうとしているんだ。そりゃあ無理だろう。もう一つ手が必要だ。左手。左手はどこに行ったかな。
どこに行ったかって、左手は今、自分の首を絞めているじゃないか。
「ま、またですか!?ちょっ、落ち着いてください!」
ばかげた話だがこれで死にかけたことがある。ヒステリックに叫ぶ女が視界の端ににじむ。これ以上心配をかけると大変なことになりそうだ。肩は動かせるようだ――力任せに左手首を掴んで引きむしり、そのまま机の角に力いっぱい振り下ろす。
衝撃の後にぐしゃ、と音がした。原因は何にせよ、手の骨が砕けたから、しばらくは大丈夫だろう。そんなことより安心させなくちゃ……ニーチェは母の方へ向き直った。
「問題ない」
いやあるでしょうよう。呆れた顔をさらに縦に伸ばし、青くなったり赤くなったりしながらジールが声を震わせる。視線の先は、早くも青紫色に腫れあがる手のひら。割れた机ではなく。
自分にとっての問題と、他人にとっての問題は一致しない。
「問題ない、と言っている」
「病院!病院です!病院送りですよ!その傷は!あと精神病院!二度目はまずいですよっ!根本的に解決しなければ!でしょ!?」
きゅう。金切り声に首をすくめたら関節が鳴いた。左手を引き剥がそうとして自分の爪でひっかいたのだが、首の傷に皮脂が沁みる。完全にコントロールを失っていた左手が、骨の砕けた左手が今更痛い。
でも、仕方あるまい、と心の中で言い訳をしてみる。こんなくだらないことで死にたくなかったのだ。根本的な解決を図るにしても、とりあえず封じておかないとうっかり死にかねない。
思うだけだ。口答えはしない。耐えるしかないじゃないか。
行った先の医者は、ほとんどヒステリーのような状態で養子を連れてきたジールを落ち着けるので精いっぱいだったらしい。ニーチェの手を診るころには紙のような顔色になっていた。利き手ではないから治らないにしてもさほど不便はない、と言い放つ彼に呆れながらも処置を施す。
あとこの薬を飲めば、自殺まがいの発作は抑えられるから、と用量用法が明記された白い紙袋を手渡して、ほとんど追い払うようにして奇妙な親子を帰らせた。朝と晩に、細長いのと短いのとを食後一粒ずつ。
「だから、その手が動かないんだから薬があったってどうにもならんだろうに」
ホッとするジールは、隣でどこか他人事のように文句を垂れる息子を無気力に見つめていた。
もしかしてこいつはバカなんじゃないだろうか。頭はいいけど、その頭の良さの配分を間違えているというかなんというか。
「お薬は要りますよ。だってあなたは以前、両手で首を絞めたことがあるじゃないですか」
「そうだっけ。でも両手を砕くと不便だものな」案外素直に頷いて、ニーチェはガーゼを貼ってある首筋を撫でた。「世話をかけるな、ジール」
呼び捨てだった。だいぶ打ち解けたとはいえ、お母さん呼びは遠い。
「……いいんですよ、私も何かと迷惑はかけてますから」
いや、ジールのことが信用できていなかったりするわけではない。きっと360度をはるかに超えてねじ曲がった性格のニーチェのことだ。お母さんと呼びかけるタイミングを逸してしまって今に至るのだろう。
自信たっぷりな言動は自信のなさの裏返し、誰彼構わず刺して回る棘は恐怖から来ている。見た目が青年なせいで気づきにくいけれど、本来は繊細な子供なのだ。
「いろいろな相手にな」
「そうそう……はっ!?認めたくない!」
「もう気づいたのか、つまらん」
そして無駄に頭がいいせいで、一つ一つ気づきすぎる。繊細さに拍車がかかるわけだ。何とも生きにくい性格をしている。