8.教皇(2)
今日は朝から狭霧のような細かな雨が聖都全体に降り続いていた。
謎の女の襲撃から三日が経っている。
本日もアーネルエンベから芳しくない報告を聞いて、堪らず執務机に顔を伏せて呻く。
「では、全て実在しないのだな……女の発言は全て虚実か……」
「はっ。ただ、全く真実がないというのが逆に不自然かと」
「嘘の中に若干の真実を混ぜる、という話か。では女の供述は全て真実に基づいたものであると思うか?」
「是とは言えません。全てが妄想、もしくは洗脳の類であるという可能性も否定できませんので」
「そうか。それならばあの女、もしくは女に洗脳を施した何某はとんだ気狂いだな。空想家と言えば聞こえはいいが、重度の不穏分子であることに相違あるまい」
「如何致しますか、猊下」
「ふむ……魔封壁の件もある、泳がせるのも危険だが殺してしまうのも不安が残るな」
魔封壁は元々、魔素を封じる働きではなく吸い取る働きを持っている。その際に蒼く発光するのだが、例の女が壁に触れたときに強い光を放ったという報告が頭を悩ませていた。
よほどの量の魔素がなければそのような現象は起こりえないのだ。
通常人が持てる程度の魔素であれば死んだ後ゆっくりと周囲に拡散していくのだが、例の女が持つ魔素の量によってはその拡散する魔素も膨大になる。
その場合に起こりえる影響が予測できないために迂闊な行動を取れないのだった。
「……クリムロイドは相変わらず、か?」
「そのようです」
「泣く子も黙る異端審問官のクリムロイドを手玉に取る輩だ。よもや職務を全うしないなどということは起こりえないとは願うが……まさに伝え聞く魔女のようだな」
「……猊下、それは余りにも不謹慎な発言かと存じますが」
「失言だった。しかし、このまま手を拱いていても事態は好転せぬだろう。……アーネルエンベならば如何にする?」
正直、自分の頭では良い案は浮かばないのでアーネルエンベに話を振ってみる。
アーネルエンベは「そうですね」と一呼吸置いて、語り始める。
「見たところ、直接戦闘には長けているわけではないと判断しました。現状完全に魔素を封じることが不可能であることを鑑みて、詠唱魔法を封じるために舌を落とすのは有効だと思われます。次に洗脳者、もしくは糸を引いている人間がいる場合を想定して、手足の骨を折るのも有効でしょう。腱を切ってしまえば行動不能に陥るためそこまでしてしまうと切られてしまう恐れがあります。そうなれば相手も回収を断念するでしょうし、泳がせる餌としての効力をも失ってしまいます。そのため、脅威を低減させる意味と情報漏洩を防ぐ意味で舌を落とし、行動力を削ぐ意味で手足を折った上で開放し、動向を伺うのが一つ目。または、現状クリムロイドと相性がよさそうですから、クリムロイドに篭絡するよう命じ、情報を得て大本を絶つ、というのが二つ目。三つ目は二つ目に似て、クリムロイドの寝返りを避ける為に接触を絶たせ、薬物を使って情報を吐かせる方法です。四つ目は――」
「……もういい」
真面目くさった顔で淡々と悲惨な方法を上げていくアーネルエンベに、ようやく自分の間違いに気づいた。
この男の意見を聞いたのが間違いだったのだ。
頭を抱えた教皇を見下ろしながら、アーネルエンベはただ黙って次の発言に傾聴を向ける。
暫ししてようやく顔を上げた教皇は疲れきった顔で命令を下した。
「方法については一度直接会ってみて決める。近日中に手筈を整えてくれ」
「はっ」
アーネルエンベが何を考えて先ほどの案を出したのか、おぼろげながら理解できた。
恐らくアーベルエンベから見た自分は、滑稽なほどに頼りないのだろう。
教団のトップに立つ人間が不甲斐ないのではいざという時に混乱の元となる。
静かに執務室を出て行く無表情の男が何を考えているかなど、自分には皆目検討もつかない。けれどその根底にあるのは確かに『教団の為』を想っての行動だと信じている。
周囲の期待に応えられない自分が卑屈に思える。いっそ、自分の代わりに誰かが教皇の座につけばいいのに。
気鬱な溜息を吐き出して、机に積まれた書類を手に取る。
神の声も聞けぬ自分が何故教皇に選ばれなければならなかったのか。
まだその答えは出ていないが、神の声は聞けなくとも決済書類に判を押すことはできる。
それから半刻ほど無心になって次々と書類に判を押していると、『明日の午後に予定を入れた』とアーネルエンベからの言付けを聞かされた。
けれどその対面が実現することは、ついになかったのだった。