5.教皇(1)
聖都クラニオンは今日も押し込められた熱気に溢れていた。
盲目の神シストを主神と崇める教団本部があるため、彼女の尊ぶ『思考と沈黙』に准えて、この街では静寂が好まれる傾向にある。喧騒の少ない街はけれど、活気がないわけではないのだった。
* * *
早朝、街を歩く人々はまばらだ。
けれど、窓から見える誰もが活力に溢れ、笑顔で行き交っている。
そんな街の様子に自然と緩む頬を引き締めると、朝の礼拝に向かう。
白く清潔に磨かれた廊下を、時折すれ違う神官の会釈に応じつつ進むと、やがて四人の神兵によって守られた大きな扉が見えてきた。
「本日の礼拝に参った。開門せよ」
四人の神兵たちはそれぞれこちらに向き直ると、胸元で指を引き絞るような動作で敬礼する。
「おはようございます、聖猊下」
「お勤めご苦労様でございます」
「開門致しますので、もし何かあれば“笛”をお使いください」
笛というのは、特殊な音のない音を出す道具のことで、この音を聞き取れる『プツィラ』という名の小さな犬を呼ぶ際に使用される。存外に強靭な四足獣であるプツィラは鎧を着込んだ神兵を乗せても十分すぎるほどの膂力を発揮するため、このような狭い場所では馬より重宝される。唯一の難は、特殊な食料を筆頭に維持費が馬よりも高いことだ。
「わかった。いつもどおり、半刻の予定だ」
「承知いたしました聖猊下。いってらっしゃいませ」
「いってらっしゃいませ」
神兵たちの見送りを受けて門を一歩出れば、一面継ぎ目のない石廊に変わる。基本的にここへ入れるのは自分ひとりのみで、そのため掃除がなされることもないのだが、埃ひとつ見当たらない。
閉ざされた空間であるにもかかわらず、廊下の両端に生えた背の高い木々がさらさらと揺れている。
百メルトルほどの石廊を進むと、少し開けた広間に出る。その中央には玲瓏清冽な水が湛えられており、その上を覆うようにして高床式の社が鎮座している。
不本意ながら教皇を拝命して以降、毎朝見慣れた光景を前にして、厳かに片膝をつく。
ここへ訪れるようになった当初は、いつか社の戸の先にいる何かが飛び出してくるのでは、とビクビクしたものだが、そんなハプニングは今まで一度も起きることはなかった。
けれど、社を前にしたときの筆舌し難い、心に過ぎる本能的な恐怖、畏怖、切望、それらに似た、例えようもなく胸の竦む感覚は未だ慣れきったとは言えない。
人為らざる存在を前にした動悸を戒めるように目を伏せ、礼拝を行うために祝詞の言葉を上げ始める。
その違和感に気づいたのは、礼拝を始めて四半刻ほども過ぎた頃だった。
祝詞を中断して顔を上げてみれば、社に何か違和感があった。例えるなら、社全体に目には見えぬ何かが寄り集まっているような、そんな違和感だった。
このようなこと、今まで一度もなかった。
何が起ころうとしているのかまるでわからず、動悸が跳ねる。動揺して笛を鳴らそうと懐に手を突っ込んだところで、ふと思いとどまる。
――ここは神の社だ。
『思考と沈黙』を尊ぶ主神シストの社で何かが起こるというのならば、それは彼女の降臨こそが最も可能性が高いことである。
そんなことは起こりえない、などと教皇の身において口にできるはずもない。
もし主神シストが降臨されるのであれば、突然の出来事に恐慌をきたして神兵を呼ぶ、などという忌むべき行動は避けるべきだ。
教皇である自分がそのざまでは、シストも呆れ返るに違いない。
何かが起こってから判断しても、遅くはないだろう。
(落ち着け、思考しろ……)
念のため何が起きてもすぐに立ち回れるように裾飾りを後ろに払って動きやすさを確保しておく。
そうして油断なく神の社を注視していると、突然目の前に女が現れた。
瞬きの合間ですらなかった。
中空に現れた女は、何故か身体をくの字に折った状態で落下し始める。その真下にあるのは、先ほどまで礼拝を行っていた神の社だ。
絶句して、総毛立った。
咄嗟に行動できる体勢であっても、それを活用できる思考状態ではなかった。
目の前で女は社に接触し、そして轟音と共にその屋根をぶち抜いたのだ。
もしも目の前に現れた女が主神シストでないのなら、不遜や無礼などでは済まされない所業である。
女は落下の衝撃に頭を震わせると、周囲を確認した後でこちらを見た。
視線が、合った。
「あの~」
唐突に女が声をかけてきた。
言葉を交わせることに驚愕し、同時に思い知る。
これは、この女は、主神などではない。
「ごめん、よくわかんないけど嵌っちゃって抜けないの。助けてくれない?」
続けて放たれる言葉を無視して立ち上がると、笛を取り出す。
聖都クラニオンの最奥とも言えるこの場所の、しかもよりにもよって神の社の真上に現れるなど、尋常ではない。
『思ったよりも間抜けそう』とは思ったが、演技かもしれない。万が一のために剣術について一通り学んではいるが付け焼刃もいいところだ。それでもないよりはマシかもしれない。
笛に息を吹き込んで神兵へ異常を知らせると、同時に抜刀しつつ後退する。
女はそれを見て一瞬だけ目を丸くした後、唐突に脚をばたつかせ始めた。
「ね、ね! それ本物? マジモンなの?! ちょ、ちょっと見せてよ! って抜けないっつーの!!」
ふんぬー! と声を出して社から脱しようとしている姿は女にあるまじき仕草で、困惑を誘う光景ではあるが、まさか空間転移できる相手がその程度を抜け出せないのは腑に落ちない。
つまり、これは罠だ。
無力を装って近づかせ、武器を奪う。
何と恐ろしいのだ。戦慄が背筋に垂れ、さらに後退せざるを得ない。
「あれ? なんで遠ざかってるの? 抜けないんだってば、ねぇってば!」
同時に、こうも考えられないだろうか?
女が臀部を埋もれさせているのは主神シストのための社である。つまり、元々即座に動ける――この場合は自分の暗殺だろうか――はずであるのに、シストの働きによって行動を阻害されているのではなかろうか。そして拘束されて動けないがために、弱者を装い油断を誘うという手段に切り替えたのだ。
空間転移できる実力と、状況に応じて作戦を即座に切り替える判断力。この分では戦闘能力も高そうだ。
まさにシストによる助力が得られなければ、今この瞬間も立っていることは出来なかったことだろう。
警戒しつつ、心の中でシストへ感謝の祈りを捧げていると、後方から爆音が急速に迫ってくる。
「聖猊下!!」
騎乗の人となった四人の神兵たちは状況を見てすぐさま敵を識別したのか、抜刀しつつ隣を通り過ぎると一人が俺を庇える位置に、残りが敵を半月状に包囲する布陣に整えた。
「我らにはシスト神の加護がある! 可能なら生け捕りにせよ!」
かけられた号令に、神兵たちの殺気が濃度を増す。
にじり寄る神兵たちを前に、女は目を丸くして両手を上げた。
「ちょ、ま! 降参、降参ー!」
転移能力を保有している可能性が高いため、女が無抵抗で完全に無力化されるまで見届けた後、護衛の神兵に連れられながら騒然とし始めた廊下を通って居室まで戻る。
居室に入るとすぐ、ノックの音がした。
「聖猊下、アーネルエンベ枢機卿様とファルツ大司教様が取り次ぎ願いたいといらっしゃいました」
「入ってもらえ」
「はっ」
答えると、すぐに男二人が部屋へ入ってくる。
「猊下、ご無事でしたか。襲撃があったとのことですが」
「それも神の間の最奥と聞きましたが、真か!」
「相変わらず情報が早いな」
「笑っている場合ではございませんぞ!」
無表情に問うてくる枢機卿と、ふくよかな顔と乏しい頭に湧き出る大量の汗をハンカチで拭いながら問うてくる大司教の温度差が笑いを誘うのだ、仕方ない。
「確かに襲撃を受けた。相手は女一人、戦闘はなかったがシスト神の社が破損した。修理が必要になるな」
「転移持ちですか」
「おそらくな」
「転移持ち! それなのにこの警備の薄さはどういうことですかな? まさか御身の重要性を理解されていないなどということは……」
「それには及ばないぞ、ファルツ。“扉付き”が無力化するのも確認した。今頃は第二牢行きの筈だ」
「それだけで済む問題ではありませぬ!」
「ファルツ大司教、ご心配なさらずとも私のほうで手を回しておきましたので警備についてはよろしいかと」
「む、む、む……むぅ……」
アーネルエンベの無表情を受けて、俄かにファルツの汗を拭う手が加速する。
「社については早急に修理が必要ですな。必要なものはこちらで用意しますので、猊下には神の間への入場許可を計らっていただきたい。こちらは後ほど書類をご用意いたします」
「頼む。許可については――」
言いかけてアーネルエンベのほうを見ると、彼は一つ頷いて、
「既に指示を出しておりますので、半刻ほどあれば作業は完了すると思います。ただ、慎重を期して警護をつけさせていただきます」
「任せる」
「はっ」
頭を垂れる。
「聞いたとおりだ、それでいいか?」
「もちろんでございます」
同じように、ファルツも頭を垂れる。
「侵入者への尋問は」
「クリムロイドが向かいました」
クリムロイドか……ちょっと心配だ。いろんな意味で。
「侵入者は詐術が得意かもしれない。複数で当たったほうが良いと思う」
それを聞いて二人は顔を見合わせた。
ファルツのほうは若干頬が引きつっている。
「猊下、わたくしはその、書類と工事の手配がありますので……」
挙動不審気味なファルツの発言には苦いものが混ざっていた。理由は明白だ。
「アーネルエンベはどうだ」
「構いませんが」
「では頼む。暴走しそうになったら止めてやってくれ」
「はっ」
「以上だ。他になければ退室を許可する」
二人は礼をとって部屋を出て行った。それを見届けて、大きく息を吐く。
とりあえず、切り抜けた。
優秀なる枢機卿団と大司教たちに細事は任せてあるが、それでも教皇の許可が必要な案件もある。
政のイロハも知らぬ小童なだけに、教団の運営を任せるわけにいかないことはわかっているのだが……。
「なんだかな……」
回転の足りない頭の上を思考が滑っていく。
その後アーネルエンベの寄越した警護の人員が居室へ到着するまで、ままならない現状を鑑みていたのだった。