4.私(1)
絶句とはまさにこのことを言うのだと、橘立花は高校二年の夏に気づきました。
それはそこそこ仲が良く、少しばかり気になっているクラスメイトが入院したという話を聞きつけて、みんなに内緒で、こっそりと病院へお見舞いに行った日のことでした。
悩んだ挙句駅前にある洋菓子店で購入した苺のタルトと濃厚プリンを片手に、薄ピンクした内装の階段を昇っていた私の前に、一人の女性が立ち塞がったのだ。
同じ学校の制服ということにはすぐ気づき、次いで一学年上の色である藍色のスカーフを巻いていることに驚愕する。
その先輩は仁王立ちに傲然と胸を逸らし、私を冷笑混じりに見下ろしながら言った。
「あなた、二年の橘さん? なんだ、全然大したことないじゃない」
「……ゲバ」
「なんですって!?」
聞こえないように小さく呟いたのに、耳聡く聞きつけたらしい。
確かに自分は平々凡々とした顔立ちだし、目の前の女子は自分よりは綺麗そうだが、如何せんそれよりも化粧の濃さが目に付いてしまったのだ。
それに、たかがお見舞いくらいで何故そんなことを言われなくてはいけないのか。彼が優しい人だから付け上がっているのだろう。腹立たしい。
「やだなぁ、ゲバいって言ったんですよ、先輩。聞こえなかったんですか?」
「ッ! 何よ、彼の気、引く気満々で差し入れなんて持ってきちゃって!!」
洋菓子の入った紙袋を奪おうと手を伸ばす先輩。それを避けるべく横に逃げた立花を追った彼女腕が、肩にぶつかる。
「彼、甘いもの嫌いなの! そんなことも知らなかったの? バカな子!!」
「そんなのあなたが嫌われてるからやんわり避けられただけでしょ? お生憎様!」
「ふざけんな、このブス!」
先輩はそのまま、突き飛ばすようにして肩を押した。
身体が仰向けに傾ぐ。
(……あ)
と思ったのもつかの間――今更ここが階段だったことに気が付いた。
ふわりと傾いでいく私を、先輩は驚愕に恐慌混じりの目で見ていた。突き出されたままの掌が徐々に遠ざかっていく。
自分の仕出かしたことにびびるくらいなら、もっと早く止めて欲しかった。
――ここの階段、どのくらいあったっけ?
そんな思考が頭を過ぎった次の瞬間、私は尻餅をついた衝撃に呻き声を上げた。
骨まで伝わる振動に瞼の裏に星がチラつく。
痛みが瞬時に怒りへ取って変わり、私は文句を言ってやろうとすぐに立ち上がる。――否、立ち上がろうとした。
けれど、お尻の部分がまるで何かに挟まったように、立ち上がることが出来なかった。
慌てて下に視線を向けると、そこには砕けた赤茶色の岩が散乱していた。
しかし、よく見てみると砕けているのはお尻の周囲だけで、それ以外は同じ大きさ、同じ形状をしていることがわかる。ところどころ罅が入っていたりもするが、統一されたそれらはまるで――
(何これ、瓦?)
――赤茶けた屋根瓦のようだったのだ。
困惑して周囲を見渡してみると、下方に青年がいるのがわかった。
青年は銀色の装飾が施された軍服のようなカッチリとした服装をしていて、片膝を付いた姿勢で、短めのアッシュグレイな頭髪の下に唖然とした表情を貼り付けている。
そのアンバランス具合に思わず笑いの衝動が込み上げるが、笑っている場合ではない。
何がどうなっているのかわからないが、どうやら自分は屋根瓦の上に尻から突っ込んだようで、そこから抜け出せない状況なのだ。
「あの~」
立花がそう声をかけると、青年は一層目を見開き、ビクリと身を振るわせた。
それもそうだ、目の前で屋根瓦にお尻から突っ込むような女に声をかけられたのだ。驚いて当然だと思う一方で、何かがおかしいと頭の隅に引っかかった。
けれどとりあえずはこの情けない格好から開放されるのが先決だと結論付ける。
「ごめん、よくわかんないけど嵌っちゃって抜けないの。助けてくれない?」
言葉を聞いた青年は素早く立ち上がった。
私が安堵の溜息を吐いていると、青年は何故か後ずさりした。
懐から小さな物体を取り出し、口元に宛がう。
そして青年がその物体に勢い良く息を吹き入れると、辺り一体に無音の波紋が広がったのだった。