3.狗(1)
そこはまさにクッションの谷だった。
古い漆喰が嵌められた室内を、色彩豊かで大小様々なクッションが埋め尽くしている。それらはただ丸や四角なだけでなく、奇怪な造形をしているものも多々あるのでした。
元々あったはずの書机や、囲炉裏や、寝具などは埋め尽くされて、最早目にすることさえできなくなっているほど。
その中で最も大きな、直径ニメルトルはあろうかという藍色の丸いクッションの上で、一人の少女が身体を抱えるようにして眠っていた。
少女に眉はなく、本来の位置で切り揃えられた前髪から覗くあどけない貌立ちは十二、三ほどの齢に見える。
臙脂色の生地に銀糸で花柄が縫いとめられた衣装を身に纏い、扇状に膨らんだ袖はクッションを覆うように広がっている。しかし裾は短く、それは太ももの半ばまでしか隠していない。ほっそりした脚は白いニーハイタイツを纏っていた。
そして彼女は、その全身にうっすらと埃を被っているのでした。
基本的に人間とは、寝ている間も体勢を変えたり、寝返りを打ったりする生き物である。
けれどこの少女は埃を被るほどの期間、まるで時が止まっているかのように身動き一つしていなかった。
人であるならば、それは異常なことだと言える。けれど彼女は人ではなかった。
そして数年振りに寝返りを打った少女は、小さく鼻を鳴らすとくしゃみをした。それで眠気が薄れてしまったのか、少女はまだ開かない瞼で周囲を見回して鼻をこすった。
「ぬしさま……?」
問いかけに答えるものは、しかしこの場にはいなかった。
少女は背中を反らせて大きく伸びると、大きな欠伸を飲み込んで目頭をこする。
ずるり、と音を立てて立ち上がると、艶かしく着崩れた襟元を直そうともせずに歩き始めた。その手には先ほどまでなかった赤い目をしたウサギのぬいぐるみの耳が握り締められていて、その身体を引き摺りながら戸口へ向かう。
本来なら脚が埋もれるほどに敷き詰められたクッションたちは、少女に踏まれることを恐れるかのように独りでに動き、巧みに少女の進行方向から避難していく。その様を気にも留めず、少女は両手で戸口を勢いよく横滑りに開いた。
途端、外界の冷気が猛然と部屋の中へ流れ込んでくる。
轟、と唸りを上げる風があっという間に部屋の中を満たしてしまうが、風の勢いとは裏腹に室内の全ては翻弄されることなく、微動だにしなかった。
「ぬしさまぁ……うぅ、ぬしさまぁぁ…………」
少女は呻くように呟きながら眠たそうに歩みを進め、目の前の段差にも気づかぬまま階段を転がり落ちて、そうしてうつ伏せの格好で雪の上に倒れこんだ。
少女はそのまま、動かなくなった。
動きを止めた少女の上から、はらはらと雪が舞い降りてくる。捕まれたままのウサギのぬいぐるみは、しかし動かなくなった少女の手から逃れようと必死で抵抗する。
けれど悲しいかな、耳の付け根部分から異音が発せられるのに気が付いて、ウサギは抵抗を諦めた。
ガックシと丸い両手膝を突いて項垂れた後、口の利けないウサギは数時間もの間少女の肩を揺らし続けたのだった。
そうして再び目を覚ました少女が雪の中から頭を引っ張り出したとき、そこには二つの突起が生まれていた。それは三角をしており、黄色い毛で覆われた、狐の耳だった。
「眠い、眠いよぬしさま……」
目を覚ました少女は、まだ眠気覚めやらぬ様子で歩き始める。
冷たい雪の上を引き摺られるウサギは、抵抗すれば最悪の場合、耳が引き千切れてしまうことがわかっていたので、せめて少しでも冷たい雪から逃れようと少女のお尻から生えた二本の尻尾にしがみつくのだった。