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アリエルシャレイドは生きている  作者: 水地あいる
一章, 転がる者と柔らかな牙
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2.鏡(1)

 ピトリ、ピトリと雫の音色が、夜闇に閉ざされた室内へ攻め立ててきます。

 矮躯に紗幕を纏うわたくしの心は光の差さぬ暗がりに溶けて一体となっているように感じられ、それらが何処までも深く、深くに沈殿していき、呼吸さえ見苦しい規則的な一音に研ぎ澄まされていくのを待っているのでした。

 鈍く、ぼんやりと定まらない思考が、同じように規則正しく明滅を繰り返します。

 宙に溶けて漂っているわたくしは、自分が今、瞼を開けているのか閉ざしているのか、立っているのか座っているのかすらも識別できません。

 ここに在って、けれど無いわたくしを唯一肯定する一音が、今は緩急無く戸を叩くのです。

 そしてわたくしを同一にして唯一たらしめていたその一音は、急に発せられた小さな捩くれの悲鳴によって逃げ惑い、身を震わせたのでした。

 一音を失ったわたくしはまるで深海に産まれた泡のように急浮上し、それによってまさに自分が今、瞼を開いていたことに思い至ったのです。

 歪な三角形をした朧な明かりが暗闇を駆逐していく様子が見えます。

 わたくしはニ・三、瞬きをし、そこでようやく自分の姿を捕らえたのでした。

 豪奢な椅子の上で膝を抱えていたわたくしは、柔らかな橙に瞼を細めながら、膝に乗った自身の顔を擡げさせました。

 そこでは臈たけた婦人が手燭を掲げて、まるで、猫を警戒する鼠のように恐々とこちらの様子を窺っています。

 恐怖を堪えるように唇を引き結んだ婦人は、戸を押し開くと、心の堰が崩壊したような有様で耳障りな高い音を立てながらわたくしに詰め寄ってきました。

 そしてわたくしには理解できぬ言語で以って、わたくしを罵倒し、嘲弄し、のち平手で頬を打ち据え、まるで汚らわしいものを触るかのような手付きで紗幕の上から折れそうに細い手首を掴むと、恐ろしい力で以ってわたくしを安寧から引き摺り出したのです。

 手首を掴んだままいずこかへ向かおうとする婦人の後を、わたくしはまるで生まれて間もない子羊のような覚束おぼつかない足取りで追いました。

 煌びやかな廊下には赤や黄や橙の色を放つ燭台が掲げられ、それらはまるで、これが現実味のない夢であるかのように、爛々とその身を揺らしています。

 わたくしは閉ざされた貝のように口を噤み、毛足の長いカーペットに素足が捕られる度に浴びせられる罵声を飲み下し、促されるままに進むしかありませんでした。

 視線の先が柔らかなカーペットから色彩豊かな光が落ちる廊下に、そしてそれが暗がりに濡れた石廊へと変貌し、そこに砂利が混ざるようになってしばらくして、ようやく婦人は足を止めました。

 恐る恐る顔を上げてみれば、周囲は鬱蒼とした雑木林に囲まれており、一面玉砂利の敷き詰められた小径が足元から広がっていて、その中央には白く四角い形をした石が半歩ほどの間隔で、何処までも、何処までも伸びているのでした。

 雲を貫いた月明かりが照らす情景は寒々しく、陰鬱としており、荒廃した雰囲気を放ちながら、時折雫混じりの風に煽られた柳が、

 ――ブルブル。

 ――コリコリザワザワ。

 と歓喜に身を震わせています。

 辺りに暗闇が満ちる中、唯一の明かりである手燭を持った婦人が、先ほどまでと打って変わった冷淡な声音で何事か口にしながら小径の先を指差すのです。

 ――この先に進め。

 そう言われているのだと悟ったところで、婦人は踵を返して去っていきました。

 そうして婦人の持つ明かりを失うと、夜は待っていたとばかりに周囲をあっという間に覆ってしまい、わたくしから命の灯火を奪っていくのでした。

 先ほどとは気配異なる夜闇と雨音に怖気が走りました。

 見えない無数の獣が舌なめずりをしているような不安に駆られ、わたくしは逃げるようにして小径の奥へ、奥へと走ります。

 わたくしの前から、横から、後ろから。上から下から、ありとあらゆる部分を闇が覆い、その闇に紛れた獣は研ぎ澄ました爪を濡らしながら、今か今かとすぐ傍で、わたくしに爪を突き立てる瞬間を見定めているのです。

 雨音に混じって、木々が漏らす軽侮と嘲弄がわたくしの身を切り裂きます。

 そして、わたくしのすぐ傍の耳の奥で、獣たちの荒い息が響くのです。

 わたくしは声にならぬ叫び声を上げながら、両手で獣を追い払い、砂利が素足を突き刺そうと牙を立てるのも無視をして、ただただ奥へと向かいます。

 ひ弱な矮躯がすぐさま悲鳴を上げはじめ呼吸もままならず、瞼の裏で星が瞬くような錯覚に陥り、はらが痛み、肋骨が軋み、脚が溶け崩れるような疲労で塗りたくられ、仕舞いに自分の足で自分の足を引っ掛けて転がってしまいました。

 何処で手放したのか紗幕は見当たらず、何時から泣いていたのか、嗚咽が号泣に取って代わるのにさほど時間はかかりませんでした。

 冷たい雨は未だ衰える気配もなく、心まで貫くような一音を奏でながら身体を打ち据え、涙を覆い隠してくれます。


 ――――寒い。

 寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。

 痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。


 そのうちに泣き叫ぶ体力すらも無くなり、痛みしか訴えぬ身体に鞭打って仰向けになると、雨は不思議と顔を避けて落ちてくるようでした。

 視界の四方八方へ向けて落下を繰り返す雫の背景で、身をさざめかせる雑木林が欠けているのがわかりました。

 首を伸ばすように視点を動かすと、そこには古びた黒い、夜闇とは色温度異なる何かが映るのです。

 それは社のようでした。

 わたくしは最早、浅い呼吸を繰り返すだけの羽虫にも劣る畜生で、疲労と苦痛に苛まれた身体は意志を通す様子も無い。

 社を捕らえて離さぬ視線と意思を置き去りにして、瞼を開けているはずなのに深淵が勝手に降りてきます。


 ――嗚呼、死ぬのだ、と。


 呼吸をすることすら億劫になり、錆び付いた歯車が軋みながら動きを止めるように、わたくしの身体はひたすら鈍く、鈍くなり、そうして動きを止めようと深淵が這い寄って来ます。

 この社に辿り着くことに何の意味があったのかわかりませんでした。

 または、ここは到着点などではなく、ただの通過点に過ぎないのかもしれません。

 わたくしにはもう、何もわかりません。

 わたくしにはもう、何もありません。

 ないのです。もう、ここには。

 あとはただ、解き放たれるのを待つばかりなのでした。

 次第に雨の音は遠くなり、しめやかに終わりを告げる舞台のような余韻を残します。


 その中にあって鮮やかなほどの色彩と音色を引き連れ、()()はわたくしの目前で社へと落下を果たしたのでした。



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