008
夜になると呼吸が苦しくなる壮太をみまもるため、エン・ヤッシャーは壮太の部屋で寝るようになった。床に藁と布で寝床をつくる。壮太は恐縮したし、村長の娘は看護の代わりを申し出たがエン・ヤッシャーは断った。
薬草を潰し小麦粉と蜜ろうで練ってつくった軟膏を布にぬり、胸元に貼りつけてやる。
それでも胸から嫌な音がする場合、壮太の左手を胸のうえに置き、その上に男の大きな手を重ね、残った片手で胸元に垂らしているペンダントをそっと握った。
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炎のアリーシャは、赤髪もあでやかな女魔術師であった。
魔術師たちの祖であるタズィーンからその教えをじきじきに学んだ六人を、人は六大弟子と呼び、アリーシャは三番目にしてはじめての女性弟子だった。
その魔術師アリーシャの第一の弟子が、エン・ヤッシャーの師である。
二ヶ月ほどまえ、海沿いの街にある定宿に泊まっていたエン・ヤッシャーは、師であるメリア・ルルからの伝書をうけた。
宿の者が腰を低くして部屋を訪れ、布にしたためられた小さな手紙をエン・ヤッシャーに渡した。
日の降り注ぐ窓際の椅子に腰かけて、手紙を開く。
その筆跡をみたとたん、エン・ヤッシャーの脳裏に師の姿が浮かんだ。
メリアは小柄な老女で、波打った黒髪もすでに白く小さく編んで後でひとつにまとめ、外出するときは日差しよけのつばひろの帽子をかぶっていた。
柔和な微笑みをおもいだすと、胸があたたかくなる。
手紙には、尊師の指示により琥珀の指輪をある人物に渡すように、と書いてあった。他にはその人物のいる地名。内容はそれだけだ。
師たちの頂点に立つタズィーンのことを、弟子たちは師父、尊師などと呼んでいる。
この指輪は尊師の家に初めて滞在したときに、魔術師の証とは別にエン・ヤッシャーに下されたものだ。
エン・ヤッシャーの指には小さいその石の指輪を、かれは綺麗な紐を通して腰にぶらさげ、いつも持ち歩いていた。
「思い出に」
といって、タズィーンは指輪を差し出した。
てっきり滞在の思い出だとおもっていたが、どうやらそうではなかったようだ。
手紙による指示には指輪を渡すことだけしかなかった。
だから壮太を尊師に会わせたい、というのはエン・ヤッシャーひとりの決断だ。
弟子でもない部外者を至高なる魔術師の祖に会わせてもいいのかという疑問は残るが、けっして疎かにしていいものではない指輪を、そもそも渡せといってくる時点で、壮太は部外者ともいえないだろう。
結果的に自身が叱責を受けてもよかった。
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快晴の朝。
村人が村長の家のまえまでひいてきた二頭の馬をみたとき、壮太は目と口をまるくした。
人間の背丈をこえるがっしりとした四本足の動物。びっしりと睫毛におおわれた瞳は黒々とし、体躯は艶のある茶色の毛で、首筋の黒いたてがみがじつに長い。
(そういや、ここの人たちって男も女も髪が長いなあっておもってたけど、馬もなんだ……)
しかもこの馬、壮太からみるとかぎりなく馬に似た、馬の親戚という印象をうける。
(ロバとシマウマをかけて、馬の大きさにひっぱったっていうか……いや、でも馬じゃなかったらなんていうかというと……馬としかいえないんだよなあ)
馬具がそろい、あとは乗り手が騎乗するのみとなっている。
「ソウタは馬に乗れるか」
問いかけに首をふると、男は予想していたようにうなずいた。
壮太はエン・ヤッシャーといっしょに一頭にまたがり、のこり一頭に荷物をまとめて乗せた。
馬上の人となった魔術師は、みおくりに集まった村人たちに声をかけた。
「ではマグイ村の人々よ世話になった。この村に末永く恵みがあるように」
「エンさまもお達者で! ソーのことよろしくお願いします。ソーさようなら!」
「エンさま、ありがとうございました」
「ソー、元気でね。温かくして過ごしてね」
エン・ヤッシャーに背中をあずけ、目線の高さにどぎまぎしていた壮太は、うごきだした馬の背から落ちそうないきおいで身を乗り出した。
「あ、ありがとう! いろいろ、ほんとに……っ、ありがとうございました……!」
村長一家がみえる。
夫人は腰に巻いた布で目元をぬぐい、手をふっている。息子は両手をふり、娘は父親の腕に抱きついていた。
名前もわからない人間をずっと面倒をみてくれていた一家。
男に体を支えてもらいながら、壮太は腕をふった。
ずっと家とその庭だけで、マグイの村を一度もみてまわったことことがない。そのことを壮太は痛切に後悔した。
太股から馬の躍動がつたわってくる。壮太はそっと鬣をつかんだ。頭を垂れていると、そこに大きな手がぽんと置かれる。
魔術師はなにもいわなかった。
その男の腕のあいだにすわった壮太もなにもいわず、二頭の馬はゆっくりと人の行き来でできた道にそって村をはなれた。