001
高台にある高校への通学路では海を眺めることができる。
十月の潮風を頬にうけながら、荒井壮太はゆっくりと坂をあがっていた。いそぐと息が切れる。だからいつも家を早目にでることにしている。
壮太はよく母にいわれた。
「おまえは死んで生まれてきた。生きるはずのない子供。本来なら死んでいて、ここにはいない子供だ。だからいつかおまえがとつぜん消えたとしても、わたしは悲しまないよ」
最初にいわれたことを記憶しているのはたしか八つのとき。
ものすごく残酷なことをいわれた気がして半べそをかいた。
しかしその夜も母に添い寝をしてもらいながら寝床へついて、すぐそばの体温と体臭を感じているうちに心は温かくなっていた。
畳みに敷かれたのは煎餅布団というやつで、ひとり親家庭でそだった壮太の家は薄壁の狭いアパートの一室で、バイク店で整備士として働く体格のいい母は、いつだって壮太より先に眠ってしまう。台所と居間の電気はつけっぱなしで、襖の間から明かりがもれている。
それがいつものことだった。
(ぼくはここにいるはずのないこども)
不思議な気持ちが胸を満たすままに眠った。
*
しずかな朝には遠い潮騒がきこえる。坂をのぼっていくと、民家やマンションの屋根をみおろし、眺望する海のきらめきがまぶしい。
六つボタンの黒の学生服姿の壮太は、右肩にかけたカバンの取っ手をかつぎなおした。母が用意したおかずを自分でつめたお弁当。箸が箸入れにあたってカタカタ鳴っている。
校舎までの左曲がりの横幅のある坂は、この高校へ通うだれもがのぼらねばならぬ試練だった。あがりきってしまえば景色は最高でいうことがないのだが、たまに坂の途中のガードレールに腰をかけて休憩をとりたくなる。
大きな曲がりを越えると、坂のうえに四トントラックが止まっていた。
教師や職員の自家用車でもなく、部活で使用する大型バスでもない。みかけないトラックだ。
だがべつだんとりたたて違和感のある情景でもなかった。
坂道に疲労した足を叱咤しながら、壮太はふうふうと息をついていた。
(家からいちばん近いっていっても、この坂だからなあ)
偏差値と経済力を考えると、坂のうえの公立校が最善だとおもわれた。
それに、いつまでも気管支の弱い子供でもあるまいし。
仮死の状態で生まれてきた壮太は、母が退院してもなかなか保育器からでられず、貧弱で、とくに気管支の弱い子供だった。
毎月のごとく咽頭炎や扁桃腺炎や気管支炎にかかり、肺炎をおこしたことも数しれず。喘息は慢性化し、十七才となったいまだって用心のための吸入器はカバンのなかに必需品だ。
山と海のそばで生まれ育ったというのに、浮き輪がないと沖まで出られないまま十七才になった。じつのところ、プールにつかったときに喘息がおこり、それがあまりに苦しかったので、それいらい尾っぽを巻いて逃げているのだ。
パリパリとなにかを踏み潰す音に、壮太は顔をあげた。
黒いタイヤが、アスファルトのうえをゆっくりと回る。
トラックはランプの点灯も警告音もなく、朝の静寂を破るのをおそれるように、静かに坂をくだってくる。
鳥肌が立った。壮太はあわててよこに避けた。
まるでそんな壮太を追うように、トラックは後向きのまま加速して滑りおりてくる。
「わ……ええ!?」
左手はコンクリートで固められた壁、右手はガードレール。その先は道路が切れて落ちるしかない。
右に左にうろうろと動いたあげく、壮太は背をむけて坂をくだった。
トラックの進路から外れるであろう曲がりの内側へ突進したが、バリバリと迫る音が急接近してきて、壮太は背中を硬いもので押され、足がよろめく。背後にむかって伸ばした手は、トラックの両開きのドアに触れた。指が痛いくらいに打ちつけられた。
「ああ……!」
人影のない登校路に、壮太の声が響く。
トラックに背を押され逃れられないまま壮太はガードレールを越えた。
肩からカバンが飛び、前方に畑と端をはしる灰色の用水路がみえた。そこへむかって落ちていく。
「おまえは死んで生まれてきた。生きるはずのない子供。本来なら死んでいて、ここにはいない子供だ。だからいつかおまえがとつぜん消えたとしても、わたしは悲しまないよ」
母は悲しまない。
子供は本来の場所へ戻っていく。
暗闇がきて、手の平ほどの光がみえた――。