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死人の名前を書く仕事を馬鹿にされたので、王国の歴史を取り戻します

作者: ふたーなる
掲載日:2026/11/03

王都には、死者の名前を書く女がいる。


それが私だった。


王立葬儀院、記録課。


王城の裏手にある、石造りの小さな建物だ。


窓は少なく、壁は厚い。昼間でも薄暗く、廊下にはいつも冷たい空気が流れている。


そこで私は、毎日死者の名前を書いていた。


名前。

生年月日。

死亡年月日。

死亡した場所。

そして、死因。


それらを一人ずつ、間違いなく記録する。


戦場で名を馳せた騎士も、王都の市場で野菜を売っていた老婆も、記録の上では同じ一人の人間だった。


「エルネスタ。今日の分だ」


上司のグレゴール課長が、机に書類の束を置いた。


「はい」


私は受け取る。


書類は、戦場から届いたものだった。


紙の端には泥がついている。封蝋は割れ、ところどころ文字が滲んでいた。


戦争が終わって三か月。


それでも、死者の記録は毎日のように届いていた。


「今日は何人ですか?」


「四十二人だ。例の北部戦線からだな」


私は書類を開いた。


四十二人。


名前を一つずつ確認していく。


その中に、見覚えのある名前があった。


『アルベルト・ミュラー』


二十歳。


死亡場所、北部戦線。


死因、戦闘による負傷。


私は手を止めた。


アルベルトは、私の弟だった。


「……課長」


「なんだ?」


「この記録ですが」


私は書類を差し出した。


「アルベルト・ミュラーの死亡日時が、間違っています」


グレゴール課長は、面倒そうに書類を見た。


「そうか。修正しておけ」


「死亡したのは、三日前ではありません。二日前です」


「一日くらい、どうでもいいだろう」


「どうでもよくありません」


私の声は、自分でも驚くほど静かだった。


「彼が亡くなった日を、正しく記録してください」


課長は眉をひそめた。


「お前の弟だからといって、特別扱いはできん」


「特別扱いではありません。事実を記録しているだけです」


「……まったく。死人の名前を書くだけの仕事に、そこまでこだわる必要があるのか?」


私は答えなかった。


課長は書類を机に置き、部屋を出ていった。


私は再び、アルベルトの記録を見た。


彼は二十歳だった。


子供の頃、よく私の後ろをついて歩いていた。


私が葬儀院に勤め始めたとき、彼は笑って言った。


「姉さんは、死人の名前を書くんだね」


「そうよ」


「じゃあ、俺が死んだときも書いてくれる?」


「そんなことを言わないで」


「でも、姉さんが書いてくれるなら、俺はちゃんとここに残れるんだろ?」


私は、何も言えなかった。


その弟が、死んだ。


私は記録に、正しい日付を書き込んだ。


それから、彼の名前の横に小さく印をつけた。


記録済み。


それが、私にできる唯一のことだった。


王国葬儀録は、王国の歴史そのものだった。


王が即位した日。

王子が生まれた日。

戦争が始まった日。

そして、戦争で亡くなった者たちの名前。


すべてが記録されている。


王国では、死者の名前を記録することを「終名の儀」と呼んでいた。


人は死ぬと、肉体を失う。


しかし、その名前が記録されることで、王国の歴史に残る。


そう教えられてきた。


私は、その儀式を行う書記官だった。


ただし、世間の人々はそんなことを知らない。


「死人の名前を書いているだけ」


それが、私に対する評価だった。


葬儀院の職員たちも、私を軽く見ていた。


ある日、昼休みに食堂へ行くと、同僚たちが話していた。


「聞いた? 今度、王太子殿下が葬儀院にいらっしゃるらしいわよ」


「戦勝記念式典の準備でしょう?」


「そうそう。英雄たちの記録を確認するんですって」


「エルネスタも呼ばれるのかしら」


「まさか。あの人は記録課の端っこで、名前を書いているだけじゃない」


笑い声が上がった。


私は食堂の入口で立ち止まった。


別に、気にしていない。


そう思っていた。


けれど、少しだけ胸が痛んだ。


王太子殿下が葬儀院にやってきたのは、翌週のことだった。


レオニス殿下。


金色の髪に、青い瞳。


戦争を終わらせた王国の英雄として、国民から絶大な人気を得ている。


彼の隣には、王国軍の総司令官であるヴァルド将軍がいた。


私は記録課の職員として、彼らの前に立った。


「こちらが、戦争に関する記録です」


私は書類を机に並べた。


レオニス殿下は、それらを一瞥した。


「ずいぶんと多いな」


「戦争に関する記録は、すべてこちらに保管しております」


「そうか」


殿下は、書類の一つを手に取った。


「これが、戦死者の記録か」


「はい」


「……四千七百二十六人」


殿下は、数字を読み上げた。


「多いな」


「はい」


「しかし、戦勝記念式典で発表するには、少々都合が悪い」


私は顔を上げた。


「……どういう意味でしょうか」


レオニス殿下は、当然のように言った。


「この数字を、二千人程度に減らしてほしい」


一瞬、意味がわからなかった。


「……何をおっしゃっているのですか?」


「戦死者の数を減らすのだ」


殿下は、書類を机に戻した。


「戦争は勝利した。国民は勝利を祝うべきだ。しかし、四千人以上の犠牲者が出たと聞けば、喜びに水を差す者もいるだろう」


「ですが、実際に亡くなった方々は……」


「記録の上で減らすだけだ」


「……」


「君は記録課の書記官だろう。記録を整えるのが仕事ではないのか?」


私は、目の前の王太子を見つめた。


彼は、何もおかしなことを言っていないと思っているようだった。


「殿下」


私は、ゆっくりと口を開いた。


「その命令は、お受けできません」


レオニス殿下の眉が動いた。


「何?」


「亡くなった方々の名前を、記録から消すことはできません」


「消すのではない。整理するのだ」


「同じことです」


「……君は、王太子の命令に逆らうのか?」


私は答えた。


「私は、死者の名前を記録する書記官です」


「それがどうした?」


「死者の名前を、偽ることはできません」


部屋が静まり返った。


ヴァルド将軍が、ゆっくりと口を開いた。


「エルネスタ君。殿下の命令は、王国のためのものだ」


「……」


「君の仕事は、王国に仕えることではないのか?」


私は、将軍を見た。


彼の胸には、数々の勲章が輝いていた。


戦争で勝利した将軍。


王国の英雄。


けれど、彼の目の前にある記録には、彼の命令で戦場へ向かった兵士たちの名前が並んでいた。


その中には、私の弟の名前もある。


「……王国のために亡くなった方々を、王国の記録から消すことが、王国のためなのでしょうか」


将軍は、何も言わなかった。


レオニス殿下は、顔を赤くした。


「もういい。君は本日をもって、記録課から外す」


私は、頭を下げた。


「承知しました」


「葬儀院からも出ていけ。君のような者は必要ない」


私は、もう一度頭を下げた。


「承知しました」


その日、私は職を失った。


そして、王国葬儀録の書記官ではなくなった。


荷物は、少なかった。


机の上に置いていた筆。

インク壺。

小さな手帳。


それだけだった。


私は葬儀院の玄関で、最後に建物を振り返った。


長い間、ここで働いてきた。


毎日、死者の名前を書いた。


誰かの父親。

誰かの母親。

誰かの兄弟。

誰かの子供。


その名前を、私は記録してきた。


もう、書くことはない。


私は歩き出した。


王都の空は、よく晴れていた。


通りでは、戦勝記念式典の準備が進められている。


広場には旗が掲げられ、職人たちが舞台を組み立てていた。


「王国万歳!」


「レオニス殿下万歳!」


人々の声が聞こえる。


私は、その声を聞きながら歩いた。


弟の名前を、誰が覚えているのだろう。


アルベルト・ミュラー。


二十歳。


北部戦線で死亡。


私は、もう彼の名前を書くことができない。


けれど。


私は手帳を開いた。


そこには、彼の名前が書かれていた。


私が、個人的に記録したものだ。


私はその名前を見つめた。


「……忘れないから」


そう呟いて、手帳を閉じた。


そのときだった。


王都の鐘が鳴った。


正午を告げる鐘。


いつもと同じ音だった。


けれど、その音のあと。


王城の方角から、何かが崩れるような音が聞こえた。


私は振り返った。


空に、黒い煙が上がっていた。


王城の尖塔。


その最上部にある、王国葬儀録の保管庫。


そこから、煙が立ち上っていた。


私は立ち止まった。


そして、手帳を握りしめた。


「……始まった」


私は、まだ知らなかった。


王国が、死者の名前を消そうとしていること。


そして、死者の名前を記録する書記官がいなくなったことで、王国そのものが崩れ始めていることを。






王城の尖塔から煙が上がっていた。


私は手帳を握ったまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。


周囲の人々も、異変に気づいたらしい。


「火事だ!」


誰かが叫んだ。


広場の職人たちが作業を止める。通りを歩いていた人々が、王城の方角を見上げた。


鐘が鳴り続けている。


それは正午を告げる鐘ではなかった。


火災を知らせる鐘だ。


「王城で火事だぞ!」


「葬儀録の保管庫じゃないか!」


「なんてことだ!」


人々が走り出す。


私はその場から動けなかった。


王国葬儀録。


あそこには、王国の歴史が記されている。


何百年もの間、死者の名前を記録してきた書物。


その保管庫が燃えている。


私は、手帳を開いた。


アルベルト・ミュラー。


私の弟の名前。


それだけではない。


葬儀院で記録してきた、すべての死者の名前が頭に浮かんだ。


「……どうして」


私は呟いた。


どうして、こんなことになったのだろう。


その答えを、私はまだ知らなかった。


けれど、一つだけ確かなことがあった。


王国は、死者の名前を消そうとしている。


そして、死者たちは、それを許さなかった。


翌朝、王都は騒然としていた。


王城の葬儀録保管庫で発生した火災は、夜明けまで続いた。


幸い、火は尖塔の上部だけで食い止められたらしい。


しかし、保管庫の中にあった王国葬儀録は、ほとんどが焼失した。


王城から発表された説明は、簡潔だった。


『老朽化した保管庫において、原因不明の火災が発生した。王国葬儀録の一部が失われたが、王国の歴史に重大な影響はない』


重大な影響はない。


その言葉を、私は何度も読み返した。


私の部屋の窓からは、王都の広場が見える。


そこでは、戦勝記念式典の準備が続いていた。


舞台は完成し、旗が並び、花が飾られている。


王国は、何事もなかったかのように式典を開催するつもりらしい。


私は、机に手帳を置いた。


個人的に記録した死者の名前。


その数は、まだ少ない。


けれど、私にはわかっていた。


王国葬儀録が失われたことで、何かが変わってしまった。


その変化は、まだ誰にも見えていない。


葬儀院を辞めてから三日目。


私は、王都の外れにある小さな宿屋で暮らしていた。


貯金はある。


しばらくは問題ない。


ただ、これから何をすればいいのかは、わからなかった。


私は窓辺に座り、手帳を開いていた。


アルベルトの名前。


その下に、彼が亡くなる前に送ってきた手紙の一文を書き加えた。


『姉さん、戦争が終わったら一緒に帰ろう』


私は、手帳を閉じた。


そのとき、宿屋の扉が叩かれた。


「エルネスタさん。お客様です」


宿屋の主人が顔を出した。


「私に?」


「はい。王城から来た方だそうです」


私は立ち上がった。


王城。


嫌な予感がした。


部屋に入ってきたのは、若い騎士だった。


白い制服に、王家の紋章。


胸元には、王城の使者であることを示す銀の徽章がついている。


「エルネスタ・ヴァルケン殿ですね」


「はい」


「王太子殿下からのご命令です。葬儀院へ戻り、王国葬儀録の復旧作業に従事していただきたい」


私は、少しだけ首を傾げた。


「復旧作業?」


「保管庫の火災によって、記録の多くが失われました。殿下は、過去の記録を復元する必要があるとお考えです」


「……」


「あなたは長年、記録課に勤務されていました。記録の内容を覚えている部分も多いでしょう」


私は、騎士を見た。


「私を解雇したのは、殿下です」


「それは……」


「死者の名前を偽ることはできないと言ったからです」


騎士は困ったように視線を落とした。


「殿下も、あのときは少々感情的になられたようです」


「そうですか」


「今回の件は、王国にとって重大な問題です。どうか、ご協力を」


私は窓の外を見た。


広場には、戦勝記念式典の旗が並んでいる。


「一つ、確認させてください」


「はい」


「復旧する記録は、実際に亡くなった方々の名前ですか?」


騎士は、すぐには答えなかった。


「……殿下のご意向としては、式典に必要な記録を優先するとのことです」


「つまり、戦死者の数を減らした記録を復元するということですね」


「それは……」


「お断りします」


騎士は、驚いた顔をした。


「ですが、王国の命令です」


「私は、もう王国の書記官ではありません」


「……」


「それに、記録を復元することと、記録を偽ることは違います」


私は扉を開けた。


「お帰りください」


騎士はしばらく立ち尽くしていたが、やがて頭を下げて部屋を出ていった。


私は扉を閉めた。


そして、手帳を見た。


アルベルトの名前。


私は、その名前を指でなぞった。


「……あなたの名前を、誰にも消させない」


その日の午後。


王都の墓地で、奇妙なことが起きた。


戦死者たちが眠る区画。


そこに並ぶ墓碑の一つから、名前が消えていた。


墓碑そのものは残っている。


だが、刻まれていたはずの文字が、跡形もなく消えている。


墓守が気づいたときには、周囲の墓碑も同じ状態になっていた。


名前が消えている。


一つ。


二つ。


三つ。


やがて、戦死者の墓碑のほとんどから、名前が消えた。


墓守は、王城へ報告した。


王城は、墓地の管理責任者を呼び出した。


管理責任者は、墓守を問い詰めた。


墓守は、何も答えられなかった。


ただ、墓碑の前で呆然と立ち尽くしていた。


その夜。


王都の各地で、同じことが起きた。


戦死者の名前が、記念碑から消えた。


教会に保管されていた弔慰金の記録からも、名前が消えた。


戦場で亡くなった兵士たちの家族が受け取るはずだった手紙からも、名前が消えた。


そして、王城の記録官たちは、気づき始めた。


王国葬儀録から消された名前が、王国のあらゆる記録から消え始めている。


まるで、最初から存在しなかったかのように。


私は、その知らせを宿屋の主人から聞いた。


「エルネスタさん。大変なことになっていますよ」


主人は、朝食を運びながら言った。


「墓地の名前が消えているそうです」


私は、顔を上げた。


「……名前が?」


「ええ。戦死者の墓碑から、名前が消えたとか」


私は、手帳を開いた。


アルベルトの名前。


そこには、まだ文字が残っていた。


「他にも、記念碑や教会の記録から名前が消えているらしいです」


主人は、困ったように頭を掻いた。


「王城では、原因を調べているそうですが……」


私は、手帳を閉じた。


原因は、わかっていた。


王国葬儀録。


死者の名前を記録する、あの書物。


それが焼失した。


その結果、王国が死者の名前を記録するために用いていた儀式が、崩れたのだ。


私は、葬儀院で教えられたことを思い出した。


終名の儀。


人は死ぬと、肉体を失う。


しかし、その名前が記録されることで、王国の歴史に残る。


その儀式は、単なる記録ではなかった。


死者の名前を、世界に刻むためのものだった。


王国葬儀録が失われたことで、その名前を支えるものがなくなった。


だから、死者の名前が消えている。


私は、窓の外を見た。


王都の空は、曇っていた。


「……行かなければ」


私は立ち上がった。


宿屋の主人が驚いた。


「どこへ?」


「墓地です」


王都の墓地は、静まり返っていた。


墓碑の前には、遺族たちが集まっていた。


名前が消えた墓碑を見つめる人々。


泣いている人。

怒っている人。

何も言えず、ただ立ち尽くしている人。


私は、その中を歩いた。


戦死者の区画。


アルベルトが眠る場所。


私は、彼の墓碑の前に立った。


そこには、何も刻まれていなかった。


名前も。

生年月日も。

死亡年月日も。


ただ、白い石があるだけだった。


私は、膝をついた。


「……アルベルト」


声が震えた。


私は、手帳を開いた。


彼の名前が、そこにある。


私は、筆を取り出した。


墓碑に、名前を書き始めた。


アルベルト・ミュラー。


二十歳。


北部戦線で死亡。


その瞬間。


墓碑が、淡く光った。


私は、息を呑んだ。


石の表面に、文字が浮かび上がる。


私が書いた名前が、墓碑に刻まれていく。


それだけではなかった。


隣の墓碑にも、文字が浮かび上がった。


さらに、その隣にも。


一つ。


二つ。


三つ。


墓碑に、名前が戻っていく。


私は、手帳を握りしめた。


「……そういうことなのね」


王国葬儀録が失われても、死者の名前は消えたわけではない。


記録する者がいなくなっただけだ。


そして、私はまだ、彼らの名前を覚えている。


私は、墓碑の前に立ち上がった。


「皆さん」


周囲の遺族たちが、こちらを見た。


「死者の名前を、もう一度記録しましょう」


私は、手帳を開いた。


「私が、覚えている限り」


その日から、私は王都の墓地で記録を始めた。


墓碑の前に座り、名前を書く。


一人ずつ。


一つずつ。


手帳に記録した名前を、墓碑に刻み直す。


最初は、私一人だった。


けれど、やがて遺族たちが集まり始めた。


「私の夫の名前も、書いていただけますか」


「息子の名前を、覚えているんです」


「この人は、私の兄です」


人々は、名前を持ってきた。


手紙。

兵士の身分証。

家族の記憶。


それらを、私の前に並べた。


私は、名前を書いた。


墓碑に。

手帳に。

紙に。


死者の名前を、記録していった。


そのうち、墓地の管理者がやってきた。


「あなたが、名前を戻しているという書記官ですか」


「はい」


「……どうやって?」


「覚えている名前を書いています」


管理者は、墓碑を見た。


そこには、確かに名前が戻っていた。


「王城から、作業を止めるように命令が出ています」


「そうですか」


「ですが……」


管理者は、しばらく黙っていた。


やがて、頭を下げた。


「私も、手伝わせてください」


私は、頷いた。


「ありがとうございます」


王城では、事態が深刻化していた。


戦死者の名前が消えるだけではない。


王国の歴史そのものが、揺らぎ始めていた。


戦争で功績を挙げた騎士たちの記録が消える。


英雄の名前が、記念碑から消える。


戦勝記念式典の演説原稿からも、名前が消える。


レオニス王太子は、苛立っていた。


「どうなっている!」


執務室に、怒声が響いた。


「墓地の名前が戻っているだと?」


「はい。元記録課のエルネスタが、墓碑に名前を書き戻しているようです」


「止めろ!」


「しかし、墓地の管理者も協力しているようで……」


「王国の命令に逆らうつもりか!」


レオニスは、机を叩いた。


その隣に立っていたヴァルド将軍は、静かに言った。


「殿下。これは、記録の問題ではありません」


「どういう意味だ?」


「死者の名前を、王国が消そうとした。その結果、王国の記録が崩れ始めているのです」


「そんな馬鹿なことがあるか!」


「……」


将軍は、何も言わなかった。


彼は、王国葬儀録の儀式を知っていた。


戦争で亡くなった兵士たちの名前が、王国の歴史に残ること。


その記録が、王国の秩序を支えていること。


それを、知っていた。


だからこそ、彼は恐れていた。


王国が、死者たちの名前を失うことを。


その夜。


私は、墓地の記録を続けていた。


手帳には、まだ多くの名前が残っている。


しかし、すべてではない。


私は、弟の名前を見つめた。


アルベルト・ミュラー。


彼の名前を、私は覚えている。


けれど、彼が一緒に戦った兵士たちの名前は、すべて覚えているわけではない。


手帳にも、記録がない。


「……どうすれば」


私は、呟いた。


そのとき、背後から声がした。


「エルネスタ」


振り返ると、ヴァルド将軍が立っていた。


「将軍……」


「少し、話がしたい」


私は、筆を置いた。


「何のご用でしょうか」


将軍は、墓碑の前に立った。


「私は、戦争で多くの兵士を指揮した」


「……」


「彼らの名前を、すべて覚えているわけではない」


将軍は、目を伏せた。


「だが、彼らが死んだことを、私は忘れていない」


私は、彼を見た。


「将軍は、王太子殿下の命令に従ったのですね」


「……ああ」


「戦死者の数を減らすという命令に」


「そうだ」


将軍は、静かに答えた。


「私は、王国のためだと思っていた。戦争に勝ったのだから、国民には勝利を祝ってほしかった」


「……」


「だが、違った」


将軍は、墓碑を見つめた。


「死者の名前を消すことは、彼らが生きたことを消すことだ」


私は、何も言わなかった。


将軍は、頭を下げた。


「エルネスタ。私にできることはないか」


私は、手帳を開いた。


「あります」


「何だ?」


「名前を、教えてください」


将軍は、顔を上げた。


「……名前?」


「将軍が覚えている兵士たちの名前です。彼らがどこで生まれ、どんな人だったのか。何を好きで、何を話していたのか」


私は、手帳を差し出した。


「覚えていることを、すべて教えてください」


将軍は、しばらく手帳を見つめていた。


やがて、彼は頷いた。


「……わかった」


その夜、将軍は墓地に座り、兵士たちの名前を語った。


彼が覚えている限り。


一人ずつ。


一つずつ。


私は、その名前を書いた。


翌朝。


王都の広場に、王太子の命令が掲示された。


『王国葬儀録の復旧作業を妨害する者は、王国に対する反逆者とみなす』


その命令を見た人々は、ざわめいた。


「反逆者?」


「エルネスタさんのことか?」


「彼女は、死者の名前を書いているだけだろう」


「それを止めるというのか?」


広場には、人々が集まり始めた。


兵士たちが掲示板の前に立つ。


しかし、誰も動かなかった。


やがて、ある老人が前に出た。


「私の息子は、戦争で死んだ」


老人は、掲示板を見上げた。


「息子の名前は、王国の記録から消えた」


周囲の人々が、静かになった。


「だが、私は覚えている」


老人は、胸を張った。


「私の息子は、確かに生きていた」


一人の女性が、前に出た。


「私の夫もです」


さらに、別の男性が前に出た。


「弟も」


「父も」


「友人も」


人々は、次々と声を上げた。


「私たちは、死者の名前を忘れない」


兵士たちは、動けなかった。


そのとき、広場の奥から声がした。


「道を開けろ!」


レオニス王太子だった。


彼は、騎士たちを引き連れて広場へやってきた。


「何をしている!」


人々が、王太子を見た。


「王国の命令に従え!」


しかし、誰も動かなかった。


レオニスは、怒りに顔を歪めた。


「誰が、このような騒ぎを許した!」


そのとき、私は広場の端から歩いてきた。


「殿下」


レオニスが、私を見た。


「エルネスタ!」


「お話があります」


「何だ!」


私は、手帳を開いた。


「死者の名前についてです」


レオニスは、鼻で笑った。


「まだ、その話か」


「はい」


私は、手帳を見せた。


「ここには、私が覚えている死者の名前が記録されています」


「それがどうした?」


「王国葬儀録が失われても、名前は残っています」


私は、周囲の人々を見た。


「遺族たちが覚えている名前。将軍が覚えている名前。兵士たちが覚えている名前」


そして、王太子を見た。


「それらを、王国の記録に戻してください」


レオニスは、顔を赤くした。


「王国の記録は、王国が管理するものだ!」


「はい」


「お前が勝手に書き戻すことは許されない!」


「……」


「死者の名前など、王国の都合に合わせて整理すればよい!」


その言葉が、広場に響いた。


人々が、息を呑んだ。


私は、静かに言った。


「殿下」


「何だ!」


「死者の名前は、王国の所有物ではありません」


レオニスは、言葉を失った。


「彼らは、王国のために生きたのではありません」


私は、手帳を閉じた。


「彼らは、それぞれの人生を生きていたのです」


広場は、静まり返った。


私は、王太子を見つめた。


「その名前を、王国の都合で消すことはできません」


そのときだった。


王城の方角から、再び鐘が鳴った。


一度。


二度。


三度。


広場にいた人々が、振り返った。


王城の尖塔。


焼け落ちた保管庫の跡地から、光が立ち上っていた。


白い光。


それは、王都の空へと伸びていく。


そして、その光の中に。


無数の文字が浮かび上がった。


死者の名前だった。


王国葬儀録に記録されていた、すべての名前。


焼失したはずの名前が、空に浮かび上がっていた。


人々は、息を呑んだ。


名前は、一つずつ光を放っている。


王国の歴史に刻まれた、死者たちの名前。


その中に、私は見つけた。


アルベルト・ミュラー。


弟の名前。


私は、空を見上げた。


「……アルベルト」


名前は、静かに輝いていた。


その光は、王都の墓地へと降り注いだ。


墓碑に。

記念碑に。

教会の記録に。


消えていた名前が、戻っていく。


王太子は、呆然と立ち尽くしていた。


「……何だ、これは」


ヴァルド将軍が、静かに言った。


「終名の儀です」


「何?」


「死者の名前を、王国の歴史に刻む儀式」


将軍は、空を見上げた。


「王国葬儀録が失われても、死者の名前は消えない。人々が覚えている限り、彼らの名前は残るのです」


レオニスは、何も言えなかった。


その後、王国は大きく変わった。


王国葬儀録の復旧作業は、王太子の命令ではなく、遺族たちの協力によって進められた。


墓地の管理者。

教会の司祭。

戦場から帰還した兵士。

死者の家族。


人々は、覚えている名前を持ち寄った。


名前だけではない。


その人が、どんな人だったのか。


何を好きだったのか。


どんな夢を持っていたのか。


そうした記憶も、記録された。


私は、葬儀院へ戻ることになった。


ただし、以前のように王国の命令に従う書記官ではない。


死者の記録を、遺族たちとともに作る書記官として。


王国は、死者の名前を勝手に消すことができなくなった。


戦勝記念式典は、中止された。


代わりに、王都の広場では、戦死者の追悼式が行われた。


レオニス王太子は、国民の前で謝罪した。


彼が王位を継ぐことは、しばらく見送られることになった。


ヴァルド将軍は、軍の指揮権を返上した。


そして、戦死者たちの名前を記録する仕事に協力することになった。


王国は、すぐには変わらない。


けれど、少なくとも。


死者の名前を、王国の都合で消すことはできなくなった。


私は、葬儀院の記録課に戻った。


以前と同じ机。


以前と同じ窓。


以前と同じ、薄暗い部屋。


ただ、少しだけ違うことがあった。


机の上に、手帳が置かれている。


アルベルトの名前が記された手帳。


私は、それを開いた。


彼の名前の下に、新しい文章を書き加えた。


『戦争が終わったら、一緒に帰ろう』


私は、筆を置いた。


「……帰れなかったわね」


小さく呟く。


けれど、彼の名前は残っている。


彼が生きていたことも。


彼が夢を持っていたことも。


彼が、私の弟だったことも。


私は、窓の外を見た。


王都の広場には、追悼のための記念碑が建てられていた。


そこには、戦死者たちの名前が刻まれている。


その一つに、アルベルト・ミュラーの名前がある。


私は、手帳を閉じた。


そして、新しい記録を開いた。


今日も、死者の名前を書く。


一人ずつ。


一つずつ。


それが、私の仕事だ。


数か月後。


葬儀院に、一人の少年がやってきた。


「すみません」


私は、顔を上げた。


「はい」


少年は、手に古い手紙を持っていた。


「僕の父の名前を、記録してほしいんです」


私は、手紙を受け取った。


そこには、父親の名前が書かれていた。


戦争で亡くなった兵士だった。


「……お父様は、どんな方でしたか?」


少年は、少し考えた。


「よく笑う人でした」


「そうですか」


「あと、料理が下手でした」


私は、思わず笑った。


少年も笑った。


「でも、僕の誕生日には、必ずケーキを作ってくれたんです」


「……」


「焦げていて、あまりおいしくなかったんですけど」


少年は、手紙を握りしめた。


「僕は、あのケーキが好きでした」


私は、頷いた。


「わかりました」


私は、記録を開いた。


父親の名前を書き始める。


名前。

生年月日。

死亡年月日。

死亡場所。


そして、その人が生きていた証として。


『誕生日には、必ずケーキを焼いた。料理は下手だったが、息子はそのケーキが好きだった』


私は、最後の一文を書いた。


少年は、記録を見つめた。


「……ありがとうございます」


私は、微笑んだ。


「こちらこそ」


少年が帰ったあと、私は窓の外を見た。


王都の空は、よく晴れていた。


死者の名前を書くこと。


それは、死者を記録するだけの仕事ではない。


その人が生きていたことを、忘れないための仕事だ。


私は、筆を持ち直した。


今日も、誰かの名前を書く。


一人ずつ。


一つずつ。


そして、いつか。


私自身が死んだとき。


誰かが、私の名前を書いてくれるだろう。


そのとき、私の人生もまた。


誰かの記憶の中に、残るのだろう。


私は、次の記録を開いた。


そこには、まだ名前が書かれていなかった。


私は、筆を置いた。


そして、ゆっくりと名前を書き始めた。

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― 新着の感想 ―
王子がその後どうなったのかはあった方が良いと思いました。流石に何らかの責任は取らせるべきなのにそれの明記すら無いのには流石に強い違和感がありますね。面白かったです。
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