メモリー虫干し③ 山に生きて
その1 新たな謎
老夫婦は昔を思い出し、次第に声が弾んできた。
そろそろである。筆者は最も訊きたかったことに話を向けた。
「昔、千足に温泉が湧いていたということが、ある本に書かれてあるのですよ」
麓の名士、故・小西国太郎氏の著した『秘境祖谷物語』(祖谷山岳会文化部発行・一九六二年)に触れた。
「場所は湯涌谷となっていますが」
長老にしばらく沈黙があった。
「さあ、湯涌谷というのは、聞いたことないなあ。『風呂の谷』はあるけんど、温泉が湧いとったというのは、何かの間違いじゃないかな」
その温泉は安政の大地震(一八五五年)で湯が出なくなったと書かれていたことを説明した。
「そんな昔のことは分からん」
長老が言うのも無理はなかった。
もちろん、長老は水晶のことを覚えていた。どうやら、かつては温泉が湧いていたので、かの地は風呂の谷と呼ばれていたことは間違いなさそうだ。ただの冷たい水が流れる谷を風呂の谷と名付けたとは考えられない。
筆者も風呂の谷の名はよく聞いて育った。しかし、幼少期のこととて、場所がどこかは確証がなかった。そこで、『メモリー虫干し① 幻の温泉を追って』では、国太郎氏を立てて、湯涌谷を採用したのだった。
まだ、疑問は残る。国太郎氏は別の章で、千足の温泉として。湯涌谷と風呂の谷の二か所を挙げていたのである。いよいよもって、湯涌谷の謎は深まるばかりである。
その2 炭焼き窯の煙
取り留めのない話になってきた。しばらく、長老の言に耳を傾ける。
「風呂の谷の下を通って、境谷へ入り、炭焼きをしたなあ。森林の所有者と契約して、焼かせてもらう。手前の方から焼くので、後になるほど奥地しかなくなる。奥地で焼いた人は山に張った番線で、滑車を使って炭俵を降ろしてくる。ワシはそんなに奥じゃなかったので、背負って運んだよ」
こうして山道横の倉庫に集められた炭俵は、まとまると滑車で祖谷街道へと運ばれる。やっと現金になるのだ。
「大変だったけんど、金になる山仕事は炭焼きしかなかった」
長老は屈託なく笑った。
「村で炭焼きをしてなかったのは、ワシの従弟くらいかな」
ごく普通の生活だったわけだ。
その3 囚人小屋
「ところで、親から囚人小屋のことを聞いた覚えがあるのですが」
正直いって、手がかりが得られるとは思っていなかった。これまでほとんどの場合、空振りに終わってきた質問だからだ。
「ああ、境谷のずっと奥にあったなあ」
やっと証言が得られた。
「木材の伐り出しなんかに、囚人が使われとった。上下の青い囚人服を着せられ、ウチの前を通って、あんたところの横を越え、境谷の奥へ入って行った」
囚人は庚申さんの峠越えではなく、麓の出合ルートを取ったことになる。
どうも囚人が労働に駆り出された時期があったようで、北海道では「囚人道路」と呼ばれた道があったらしい。劣悪な環境下で道路工事に従事させられ、多くの死者が出たとされる。
「そんなにはきつい仕事ではなかったと思う。けんど、二、三人、脱走したのがいたなあ。村の衆が警察と一緒に山狩りしたのを覚えとるよ」
その4 おもてなし
大半の囚人にとって、慣れない山仕事は楽なものではなかったはず。深山幽谷の地にあって、ふと逃走心が頭をもたげてくることは大いにあり得る。
「囚人が半殺しにされるところを見た」
と、父親が恐ろしそうに語っていた。
あるいは、その時の出来事だったのかもしれない。戦時中とはいえ、そうそうリンチに遭う機会があっては、たまったものではない。
囚人の一行に、村では野菜などを与えたとのことだ。唐辛子でもむしゃむしゃ食べていたのを、長老は見ている。囚人は感謝することしきりだった。
「隣の婆さんはよく囚人の世話をしとった」
長老が言うのは、筆者の同級生の祖母のことだろう。
戦後、筆者の家に毎年、年賀状をくれる人がいた。
「まあ、お茶をあげただけなのに、律儀な人やなあ」
母親は却って恐縮していたものだ。
その5 疱瘡小屋
囚人小屋は境谷の奥地にあった。筆者はアメゴ獲りに行って、小屋の跡を見たことがある。父親に話すと、それが囚人小屋だったと教えられた。
筆者の生家は集落の最奥部にあった。裏山は祖父の私有地であり、孫にとっては庭も同然、ほぼ知り尽くしていた。環境に恵まれたせいか、囚人小屋と同様、一種の歴史遺産ともいうべきものが身近にあった。
エドワード・ジェンナー(一七四九-一八二三)が一八世紀末に安全なワクチンを開発するまで天然痘、つまり疱瘡は死に至る伝染病として恐れられた。
感染者の多くは隔離され、日本では人里離れた地に感染者を収容する小屋を建てた。疱瘡小屋である。
裏山の外れに、平らに整地された一画があった。それが疱瘡小屋の跡であることは、やはり両親の話によく出てきた。
あちこちの村にあったらしく、やや年下の同県人も、親からその存在を聞かされていた。
ところが長老は
「そんなのどこにあったの」
と意外にも、逆質問された。
長老が幼少の頃、日本では天然痘はすでに過去の病になっていた。疱瘡小屋が忘れられていくのは、むしろ歓迎すべきことなのかもしれない。
聞き役に徹してきたつもりが、いつしか筆者も語り部になっていた。