本編
〇前提〇
ジャンルは現代ものです。主人公は高校一年生の女の子。
地の文は主人公の内心の声、独白となっております。
いちおうは小説として読めますが、隠し設定があるので本文だけでは微妙の可能性があります。
■の部分は場所を示しています。
それ以外は特に特筆する世界観はありません。
■横断歩道■
西暦202X年の春。天河鈴香という16歳の女子高生である僕は、辛い日常を生きるために気分転換の散歩をしていた。
平日である今日、高校1年生なのだから『しっかりと授業を受けなさい』というお叱りを受けるかもしれない。でも、中間テストは上位だったのだし、このくらいの休息は許してほしい。心が疲れると勉強の効率は著しく落ちてしまうのだから。
この散歩の目的地は天音山公園という場所だ。そこに辿り着くためには絶対に渡らなければならない横断歩道がある。
この散歩における唯一で最大の苦痛はそこかな。いつもなら彼氏と手を繋いで一緒に渡るんだけど、今日は彼がいないからね、仕方ない。
「――さあ、今日は頑張って渡ろうじゃないか」
普通の認識なら、横断歩道は何の変哲もない日常風景の一部に過ぎないだろう。でも、僕にとっては世界でもトップクラスに恐ろしい場所だ。その証拠として、横断歩道を歩きだそうとしてもなかなか足が動かないし、両手が小さく震えだして止まってくれない。何も起きないよ、と理性が告げていても、本能が恐れている。
横断歩道の事故というのは珍しくはない。テレビでもネットでもよくニュースとして取り上げられる類のことだ。
例えばそう、認知症を患ったジジイが横断歩道を渡り切った姉妹二人に向かって全力で突撃するような暴走事故とかね。現代の高齢化社会だと珍しくないのさ。
事故の瞬間、油断していた妹は何も理解できなかった。気づけばクールで知的な二つ年上の姉に抱きしめられながら宙を舞った。痛みはなかった。奇跡的にかすり傷程度の軽傷で済んだ。
しかし、体には色々な赤やピンクのような液体がこびりつき、車や道路の小さな破片もひっついていた。妹の耳には、お肉がブチブチと潰れた音と、煮物になった魚の骨を手で折ったときの小さなバキっというオノマトペを何千倍も膨張させた音が、いつまでも残るようになった。
妹を庇った姉は笑っていた。きれい、美しい、美少女と言われてきた姉の顔は醜悪とも言える歪んだ笑顔を作って、そのまま微動だにしなくなった。
あの笑顔は何を意味しているのだろう。ノロマな妹を叱りたかったのだろうか。今となってはわからない。
ただ残された妹は、今も幻覚や幻聴に苦しんでいる。
――こんな悲劇が転がっている場所が、横断歩道という場所だ。
「――よし。もう、大丈夫だ」
恐ろしい横断歩道を問題なく渡って、僕は息を整えてから歩き出す。
今日はどうして天音山公園に行こうとしたのか。それは僕自身、よくわからない。行きたくなったのだ、という程度の理由しかない。
ただ、自宅から近いのにあえて遠ざけていた理由はある。8年前に出来たばかりだった天音山公園は、僕のお姉ちゃんが『ちょうどいいから、みんなの思い出の場所にしようぜ』なんて言って、僕と下見のために出かけた場所だ。
しかし8年前――お姉ちゃんは別の場所で暮らすことになった。
だから僕は初めて、天音山公園に足を運んでいる。
■天音山公園■
「久しぶりだな! 鈴香! 元気にしてたか?」
それはもう忘れかけていたかもしれない声だった。女の子の声だというのにはっきりとした男のような口調の彼女に、僕は驚きよりも安心した心が蘇ったことを自覚する。
「おうおう。驚いて声も出せねーか。まあ普通はそうなるわな。8年前と姿が変わってない俺を目にしてるんだ、俺だってそうなるさ。はっはっは!」
僕が声をかけられた場所は公園でも高い場所だ。緩い傾斜になっている野原を上り切った場所で、そこから公園全体を眺めていた。
そんな僕の後ろから、彼女は気軽に声をかけてくれた。
「こんな形になったが、また会えて嬉しいよ、鈴香」
「……ああ、僕も嬉しいよ、お姉ちゃん」
8年前に消えてしまった姉:明菜に対して、僕は努めて冷静に答えた。特に声を震わせないように注意したつもりだが、うまくできたかはわからない。嬉しそうに微笑むお姉ちゃん――姉さんの様子を見て、立派に振舞えていると思いたい。
「さて、何を話すか……」
「……何でも構わないよ。僕はこうしてるだけで幸せだ」
今日この日、姉さんと出会えたのはたまたま天音山公園の中に誰もいなかったからだろうか。平日に足を運んだのは正解だったらしい。
「お? 手を繋ぎたいって? しょうがねえな鈴香ちゃんは。俺の手はひんやりしてるし長くは繋いでやれねえが、それは勘弁してくれよ?」
「もちろんさ」
姉さんの姿は8年前のままだ。当時10歳である彼女はクラスでとてもモテていたということを、僕は幼馴染兼彼氏から聞いている。まあそれはそうだろう。高校生になってより実感してるけど、姉さんのような美少女は中々いない。活発でやんちゃそうなのにクールで知的な一面が見えるのはもはや反則だなと妹ながら思う。
しばらく二人でそのまま公園を眺めてから、姉さんが微笑む。
「よし、じゃあ俺からの質問形式で始めるか」
手を繋ぎながら、僕達は公園の野原を見下ろしたまま話す。
「父さんと母さんは元気か?」
「ほどほどにね。ああでも、最近ちょっと僕を甘やかしすぎな気がする。美容院で髪にメッシュを入れてもらったんだけど、似合うとしか言われなくてさ。学生には早いとか言われると思ったんだけど、そんなことなくてね」
「よかったじゃないか。女の子のオシャレは人生を豊かにするための必需品だ。母さん達もそれがわかってるんだろ」
「そうなのかな。まあ、父さんと母さんは元気だよ。心配しないで」
姉さんが納得したように頷いている。
「康太と蘭ちゃんはどうだ? 康太はたしか、鈴香と恋人になったよな?」
「二人とも元気だよ。康太は二つ上だからクラスのことはわからないけどね。デートとかで話を聞く限りは、充実してるんじゃないかな?」
「さすが心も体もイケメン野郎だ。たくましさだってきっと一流なんだろう、康太だからな」
「……一つ訂正。姉さんがいなくなってその分は寂しそうだよ。僕に気を遣うから気づかれてないと思ってるかもしれないけどね、ふとしたことで姉さんに会いたそうにしてる」
「おいおい。誇るべき我が幼馴染は無理をしてるってか? 鈴香の男なら……んー、いや、そうだな。鈴香、お互いに支え合えよ? 言うまでもないな?」
「ああ、わかってる。康太はきっと大丈夫さ。僕とは違うよ」
姉さんは嬉しそうに頷く。
「いいねいいね。じゃあ、蘭ちゃんとも親友のままかな?」
「蘭子は……クラスのみんなとは楽しそうにしてるよ。康太も変わらず自分の妹にはしっかりデレデレしてるらしいよ、聞く限り。だから蘭子が幸せなのは間違いない」
「鈴香とは?」
心配そうに視線をこちらに向けるが、僕はそのまま野原を見ている。
いや、申し訳なくて気持ちの分だけ、僕は視線を逸らしたのかもしれない。
「お互い怖くて話ができない、かな? 情けないことに蘭子の前で大泣きして入院までしちゃったからね。小学生の時だから今ならなんとか……いや、難しいな。女の子と話したり触ったりがどうしても駄目なんだ、ごめん」
「……すまないな、鈴香」
「姉さんのせいじゃないよ。僕が勝手に苦しんでるだけだ」
苦笑する僕を見て慰めようと思ったのだろう、姉さんの手が解かれ正面に向き合うと、背伸びをして僕の頭を撫でてくれた。
頑張ってるぞ、大丈夫さ。
言葉にせず、そう伝えてくれている気がした。
撫でるのをやめると、姉さんは後ろに手を組んで微笑む。
僕は息を吸って整えてから、問いかける。
「姉さんはこっちに帰ること、できる?」
「こんな体になったんだ、できると思うか?」
「やり直すという方法もあるでしょ?」
「その手は残念ながら使えないな。もっと時間が必要だ」
「そっか。すごく……残念だな」
声は完璧に震えを抑えたつもりだが、表情には出ていたのかもしれない。僕の頬を姉さんの手が添えてくる。
「それにしても鈴香は、俺が思っていたタイプとは違う美少女になった。憧れのモデルさんや有名人でも見つけたりしたかな? かっこよさの中に昔ながらの優しさがあること、お姉ちゃんはよくわかるぞ」
「ああそれは……昔から大好きな人がいるからその人の真似をしてるだけだよ。知的でクールビューティーと言えばわかりやすい人のね。ちょっと悔しいのが、いや、逆に嬉しいのかな? 知的であるという部分がね、学業の成績が上位であること以外にできている気がしない。その部分が真似っこの甘い部分なんじゃないかな?」
姉さんは顎に指を添えて、該当する人物を記憶から探している。
僕はその反応に少し笑った。
「クールで知的……? はて、誰が該当するかな? どちらかだけならいくらでもいるが……有名人のほうなら俺もわからないな」
「灯台下暗しだね。意外でも何でもないはずだけどな。僕にとってその人はずっとかっこよくて冷静で頼りになって頭が良くて……とても大好きな人だ。わからないかな?」
「……お手上げだ。俺のポンコツ頭じゃわからない。教えてくれないか?」
「フフ、内緒だよ。こういうの、口にするのは恥ずかしいものでしょ?」
「あ~お姉ちゃんとっても知りたいんじゃ~教えてくれよ~?」
「ダーメ。簡単な問題だから自分で解いてね?」
「ちぇ~。はいはーい、自分で解きまーす」
わざとらしいすね方に僕はやっぱり小さな笑いが漏れてしまう。
何もかもが懐かしい気分に浸されている。
「悔しいから、お姉ちゃんのお小言を言ってもいいか?」
「お小言?」
「誰かの真似や模倣はそっくりそのまま自分のものにするなよ? 模倣は学びの原点ではあるが、完成への手段には決してならないからな」
「……懐かしいね。それさ、僕がパクリ漫画の何がいけないかを訊いたときの答えじゃなかったかな?」
「おーそんなことも話したかな? いかんせん、鈴香に教えたことは多いからな。同じ話の繰り返しになっていたならすまない」
「いいんだよ。僕も思い出せて嬉しいんだ。たしかに僕は、大好きな人の生き写しになることは望んでいない。大好きな人のことを、少しでも自分に残したいと思っているだけだ。今の忠告で、それがきちんと理解できたよ。ありがとう」
「そっかそっか、さすが鈴香だ。おまえはきっと幸せになれるよ。お姉ちゃんである俺が保証してやろう。ガッハッハ!」
「そうだね、姉さんが保証するならきっと大丈夫だ」
「そうともそうとも。よし鈴香、すこしじっとしてろ」
「? わかった」
姉さんが右手を僕の胸に当ててくる。ひんやりとしたその手を当てながら『あーはいはい、これがね、そうだね』『いやあこれは……我ながらひでえ映像だ』などと言ってコロコロと表情を変えながら、何かの作業を続けていく。
そして。
「しゃあ!! お呪い完了!」
錯覚かもしれないが、姉さんの手元が少し光った気がする。それと同時に僕の体が少し暖かくなった。ゆっくりと落ち着いていき、元に戻って姉さんのほうを見た。
姉さんが得意げにウインクを送って来る。
「おまえの幸せに邪魔になるものはポイっと固めておいた。これであんなことで損をしなくなる」
「損をしなくなる?」
「なーに、すぐわかるさ。楽しみにしておけ」
「教えてくれてもいいんじゃないかな?」
「教えるのは恥ずかしいもんだろ? 違ったか?」
「……これが意趣返しというやつか。わかった、自分で理解するよ」
しょうがないなあとため息を付きながら、僕は笑った。
すると姉さんは安心した表情になって、僕に背を向ける。
「よし。そろそろ俺は帰るとする。みんなによろしくな」
「!? 待って! もう行くのか!? 話せることならいくらだって――」
「時間は待ってくれないぞ。これは教えてなかったかな?」
「バカッ!! バカバカ! お願いだから待ってくれ! これがとんでもない我儘だってことくらいわかってる! だけど僕には、康太にだって、蘭子にだって! 父さんと母さんにも! 姉さんとの思い出がもっともっと必要なんだ! 姉さんならわかるはずだ! だから――」
「ダメだ。いや、こっちの道理が通せなくて帰るしかなくてな、すまない」
背を向けて立ち止まっていた姉さんが僕の方へ振り返った。駄々をこねる僕に困った表情を浮かべていた。
しかしやがて、名案を思いついたのだろう。
姉さんはとびっきりの笑顔で僕の顔に向かって手のひらを見せる。すると、その指が動くと同時に僕の瞼が強制的に閉じて視界が暗くなる。
「俺なりに甘えん坊の慰め方というのがあってな。こういうのを鈴香は昔、どう思っていたかな? Aができないから代わりにBで我慢してくれ、というやり方だ。覚えているか?」
「……たぶんだけど、別に、嫌じゃなかった気がするけど、それが?」
「代わりのプレゼントを見せるからさ、これで我慢してくれってことさ」
僕の頬に感じる風が強くなった気がする。
「じゃあ合図で目を開けてくれ――3、2、1――0」
「――――」
目を開けると、僕は驚きのあまり固まった。
目の前には姉さんがいる。
女子高生の姿になった姉さんが。
「どうだ? 制服は鈴香の学校の制服だ。我ながらなかなかの美少女だろう? 似合ってるか?」
その問いに、僕は何も言えない。何を答えればいいかわからなくなったから。ただ、その気持ちの中に確かに嬉しさが存在してるのはわかった。
女子高生になった姉さんが僕に近づき、僕の顔に触れてくる。とびっきりのクールさに知的な瞳を備えて、さらにお茶目な雰囲気を纏った姉さんが、僕に微笑むのだ。
「お姉ちゃんはな、妹の鈴香のことが大好きだ。一緒に女子高生にもなりたかったし、もっといろんな話をしたかった。だから俺はな、最後までそうだったし、そしてこれからも、鈴香を愛することに変わりはないぞ。お姉ちゃんの言葉を疑うか?」
「――――っ」
「いい子だ、いい子。わかってくれて、お姉ちゃんは嬉しいよ」
姉さんに抱きしめられて、胸の中に埋められるようになってしまって、視界がまた暗くなる。心なしか、水で視界が歪んでるような気がするけど、認めたくないな。僕は最後まで、立派な姿でいたい。
僕はあの大好きな姉さんの妹なんだから。
「幸せになってくれ、鈴香。俺のことでおかしくなるな。俺だけじゃなくて、みんながお前の幸せを願っている。それを忘れるな」
「――――っ」
「ああ、そうだな、次は結婚とかして大きな幸せに満ちているとき、またここに来い。それなら喜んで会ってやる。約束する」
「――――っ!」
「じゃあ、またな――――」
「――――姉さんッ!!」
ようやく目を開けると、そこに姉さんの姿はなかった。周囲を見渡したがそこには人っ子一人、誰もいない。広い公園と、そこにある傾斜の緩い野原に、静かな風が吹いているだけ。
辛い別れであったはずだ。しかし不思議なことに僕の心は軽いと感じていた。8年の間で積もりに積もった感情を散らせたおかげか、それとも、二度と会えないはずの大好きな人に会えたおかげなのか。
そんな疑問を抱いたまま、僕は公園を出て自宅に向かって歩いていく。
そしてあの恐ろしい横断歩道を何の問題もなく、幻覚や幻聴の予兆さえ感じることもなく、無事に渡ってしまうことができた。
僕は、姉さんの言ったことを理解する。
「――全くお姉ちゃんは、幽霊になっても、僕に優しすぎるなぁ……ッ」
僕の言葉ははっきりと、涙のせいで震えていた。




