5.それから
―――あれから、どのくらいの時間が過ぎたのだろうか。今となっては、知る術が無い。
辛うじて、今が昼なのか夜なのか、そして夏なのか冬なのか、その程度の事が分かるくらいだ。
ラックは薄暗い部屋の中にいた。
いや、部屋と言うよりも、これは恐らく牢獄だろう。全てが石造りで、照明の無いその部屋の天井は異様に高く、窓なのか明り取りなのか分からない小さな穴が、手の届かない遥か上の方にぽつんと一つある。
彼女は一人、そこに閉じ込められていた。
月日を数えられなくなってから久しい。
はじめの頃はこれで何日目だとか、それがあやふやになっても、季節が一つ巡った、二つ巡った…それを覚えている事が出来た。だが、その内それさえも分からなくなった。気の遠くなるような時間を独りで過ごし、命を繋いでいられるだけの食事のみが与えられ、恐らく今も生き長らえているようだった。
「あれ」から、何年…何十年が経ったのだろう……
すっかり体力の無くなったラックは、日がな一日床の上に横たわったままでいる。体も精神も、常にぎりぎりの状態だ。
そんな彼女を辛うじて正気に繋ぎ止めているのは、思い出だった。
これまでに読んだ本の内容を頭から口に出してみたり、父が作ってくれた料理やエバとの会話を思い返してみたりした。初めて見る事になった海、燃えるように真っ赤だった夕焼け……
それらを何度も何度も反覆しては、忘れないように努めた。――それだけが、この地獄のような日々を支えていた。
「………父さん……どうしてる……?」
力なく、ラックは呟いた。
…あの後、父はきっと無事では済まなかっただろう。
自分をここへ閉じ込めたのは、伯爵だ。彼の怒りは相当なものだった。それも致し方のない事…。しかし、そんな中でもこうしてまだ生かされているという事は、多分、父も命まで取られてはいないはず…。そうだと願いたい。それでも、恐らく仕事を失う事にはなってしまっただろう。何も知らなかった父には、本当に悪い事をしてしまった…。
ラックは何度繰り返したか分からない後悔をして、また胸を痛めた。
『…こうなる事は、分かっていたのに……』
それでもあの時、自分は行動を起こしたのだ。
『「一緒にパンケーキ、食べに行こう。」』
あの日の事が、また鮮明に思い起こされた。
“助け出した”はずのエバが、ゆっくりと倒れていく様を……
「………エバ………‼」
横たわったままのラックは、弱々しく顔を覆った。
泣きたいのに、涙のための水分も足りていないようだ。それが余計に情けない…。
あの後のエバがどうなったのか、ラックは正確には知らない。…だが、聞かなくても大体の予想は出来る。あのゆっくりと倒れていく様が、今も頭にこびり付いて離れないのだ。
知っている事は、初めて見たエバの父親である伯爵が、激怒していたという事実。そして彼が放った言葉が、はっきりと耳の奥に刻まれている……
『「……このっ、疫病神が!!媚びない才女だと言うから、息子の話し相手にしてやったのに…。色目を使うどころか、とんでもない事をしてくれたものだ‼お前の事は決して許さん!!!」』
――結局、人を不幸にしただけだった。何人も…
自分がした事は、全てが無意味でしかなかったのだろうか……?
「「そうだよ。」」
頭の側で、人の声とは思えないような声が聞こえた気がした。
顔を覆っていた手を外し、ラックはぼんやりと見上げた。そこには、あの時のままの少年の姿をしたエバがいて、こちらを恨めしそうに見下ろしていた。
ラックは驚きはしなかった。ただ、苦しくなった。
「「…どうして、僕を唆したの?ラックのせいで、僕は……」」
「うん…」
ラックは何も反論をしなかった。責められて当然だと思っていた。彼に何を言われても、受け入れようと思っていた。そんな事をしても、到底償いになどならないと分かってはいても…
エバはこの世のものではないような、感情の無い顔でこちらをじっと見ている。
「「――ねえ、ラックは」」
少年のままのエバが責めるように何かを言いかけた時、ラックはハッとした。
急に、思い出したのだ。――ああ、そうだった、と思った。
すると、出ないと思っていた涙がこぼれ落ちた。
―――『「ねえ、ラックは、命を懸けてもやりたい事ってある?」』
エバはあの時、はっきりとそう言ったのだ。切実そうに…。それを、叶えてあげたいと思った。
例えどうなるか分かっていても、あの時は、それが間違ってはいないと思った。
「……ごめん。ごめんねエバ…。でも、後悔は、しない……!」
ラックは泣きながら目の前のエバに謝った。でもそれは、しなければ良かった、という後ろ向きな思いからではなかった。
何が正解だったのかは、分からない。正解があったのかも分からない。
でも決断した事を後悔したら、あの時の自分たちをも否定する事になってしまう。それだけは、してはいけない。
彼女は、そうと強く感じていた。
気付くとエバはいつの間にか消えていた。
…それからまた、どのくらいが経っただろうか。ぼんやりとした頭は、起きていたような眠っていたような状態で、判然としない。もしかするとそれは、“エバ”との対話のすぐ後だったのかもしれない。
石造りの扉の向こうから、人の気配がする。それも複数人だ。何やら騒がしい…。
最初はいつもの幻聴だろうと思っていた。だが…
どうやら違うようだ。
「あれじゃないか⁉」
「早く、―――」
本物の人の声が、段々と近付いて来る。
これまでずっと、運ばれて来る食事はいつも無言で隙間から差し出され、それは本当に人間が持って来ているのかどうか疑わしいと思っていたくらいだった。
しかし、今日はバタバタと足音までがしている。
それは突然の事だった。
重い扉が開け放された。その途端、眩しい光が薄暗かった部屋に入り込んで来た。目が痛い。ラックは思わず目蓋を強く閉じた。
「――警察です!ラックさんですね⁉助けに来ましたよ!!」
傷む目を薄く開けると、逆光の中で見知らぬ男たちがそう言った。
ラックは残っている力を振り絞り、上半身を少しだけ起こした。
『…警…察……?』
この状況に、頭の整理が追い付かない。ラックはぼうっとしたまま動かず、うんともすんとも答えなかった。
しかしその間にも、やって来た人々は動き回っていた。「いたぞ‼」という声だったり、「応援を呼んで来い!」だとかの声が飛び交い、せわしなくこの部屋を出入りしている…。
現実味の無い光景に思えたラックは、これは一体どんな夢なのだろうか?と思ってしまったほどだった。
するとその耳に、現実へ引き戻すような言葉が入って来た。
「もう大丈夫ですよ。伯爵は告発されました。逮捕されましたので、安心してください。」
ラックは目を丸くした。
「たい…ほ……」
伯爵が逮捕された。警察はそう言った。…恐らくは、この監禁罪でという事なのだろう…。そんな事が起こり得ると、思った事は無かった。きっとここで一生を終えるのだろうと……
どうやら、助けが来た事は夢ではないようだ。
――…これで終わったのだ。全てが……
体の力が抜けた。嬉しいような、虚無感のような…。ラックは頭の重さに耐えられず、首を垂れた。
そんな時、この部屋へ入って来る別の気配に気が付いた。
もっと正確に言うのなら、慌ただしく出入りしている警察とは別の空気感を持った、誰かの気配だ。
「貴女が監禁されて、十年以上が経ったんですよ。」
その気配の主が、ラックに話し掛けてきた。
「十年以上……」
ラックはハッとした。そして反射的に頭を上げた。そこにいたのは――
一人の、少年だった。優しく微笑んでいるその顔は、懐かしい思い出の人と同じ顔に見えた。
ラックは驚愕した。
『…エバ!?何で子供のままの姿で……。これも、幻?』
混乱しているラックに、“エバ”は手を差し伸べた。
「立てますか?」
差し出されたその手に、ラックは恐る恐る手を伸ばした。そして、触れた瞬間に思った。…温かい。『ひとの手だ』と…。
――多分、相当に訝しそうな表情をしていたのだろう。“エバ”はラックを立ち上がらせながら、くすりと笑って尋ねてきた。
「そんなに似てますか?僕は、エバ兄様の母違いの弟です。あの後に、生まれました。」
「おとうと……」
その説明は、すとんとラックの腑に落ちた。
「歩けますか?」
ラックはこくりと頷いた。
「行きましょう。外までの案内を任されているんです。」
そう言うと、エバの弟はラックの体を支え、外へと向けて歩き出した。
「…ねえ、“告発”って…?」
尋ねたラックの歩行を助けながら、彼は答えた。十数年振りにまともに歩くラックを気遣うように、その歩みはとてもゆっくりだ。
「貴女の事は、ずっと捜していたんですよ。…でも見付からないし、父様もなかなか白状なさらなくて…それで。」
彼はおおよその歳の割に利発そうだ。…恐らくはエバと同じように、最高の教育を受けたに違いない。
そう、多分、エバの代わりに……
「でも、まさか屋敷の地下にいたなんて思いもしませんでした。こんな所に秘密の部屋があったなんて、みんなびっくりしていますよ。
――これでこの伯爵家は没落します。自業自得ですね。」
屋敷の地下…。ここはグレイツ伯爵家の中だったのだと、ラックはその時に初めて知った。「あの時」は自分の状況など、冷静に判断する事が出来なくなっていた。気付いたらあの部屋の前まで来ていて、その中に放り込まれたのだった。
「そうだ!ジェイク教授は今、公国の外にいるそうですよ。国内の大学からは追放されたって聞きました。」
「外国に…」
父は、生きている。ラックは胸を詰まらせた。
その身をずっと案じていただけに、心の底から安堵した。まだどこにいるのかは分からないが、必ず捜し出す。生きているのだから、きっといつかは会えるはずだ…。
そう思うと同時に、ラックの胸にはもう一つ、別の思いが込み上げて来た。
『生きてはいる。父さんは。でも、エバは―――…』
自分を外へ連れ出すために来たのがこの少年だった事で、ラックは改めて感じさせられていた。
エバがもういないのだ、という現実を―――
彼の弟に支えられ、ラックはついに地上へと出た。
さっきまでの通り道に点けられていた明かりではない、本物の太陽の光が目に染みる。また、目が眩んで目蓋を閉じた。その裏が、赤く明るく見えている。こんな経験も久し振りだ…。
ラックはそっと目を開けた。
…そこは、かつて少女だった自分が通い詰めていた、懐かしいグレイツ伯爵家の庭だった。その一角に、隠された地下への入り口があったらしい。
ラックは十数年振りに、全身に暖かな陽の光を浴びていた。
「私は……色々な人を、不幸にしてしまった…。」
ぽつりと、ラックは言った。エバの弟は驚いたように彼女の正面へ回った。
「あなたにも、謝りたい。私が…あなたのお兄さんを…」
ラックは顔を覆って肩を震わせた。エバの弟は慌てながら彼女を慰めた。
「どうして??全ては父様の自業自得だって言ったでしょう?」
顔を覆ったまま、ラックは頭を振った。
確かにそうなのかもしれない。だが、余計な事をしなければ、という思いはどうしたって持ってしまう。後悔してはいけないと思っても、自責の念に苛まれてしまうのだ。
もしかしたら、そこに見えるかつてガラスのテラスがあった場所に、彼は今でも笑って居たかもしれないのに…。
「そうだよ。」
ラックは自分の後ろから声を掛けられ、びくりとした。
エバの弟は、確か、自分の目の前にいたはずだ……
「父さんのした事は全て“僕”への愛だったけど、それは間違った愛だったんだからね。」
ラックは顔を覆っていた手を外し、振り返らずに目を見開いた。
この声は……“違う”が…
―――そう、だ。
目の前にいた少年の顔が、ぱっと明るくなった。
「兄様!」
彼はそう言って、ラックを追い越してその後ろへ駆けて行った。
その行方を追うように、ラックは後方を振り向いた。
少年は青年の側へ行って話をしていた。
「…母様が待っているので、もう行きますね。兄様、お元気で。」
そう挨拶をすると、少年はまた逆の方向へ走り出した。その先には、一人の女性が待っている。…多分、それは彼の母親なのだろう。
その場に青年と二人で残されたラックは、体が震えていた。
「………エバ……?…本当に⁇――…生きて、るの??」
体が震えるのは、当たり前だが恐怖からではない。…いや、それに近い驚きというか、喜びのような、上手く説明の出来ない感情から来るものだった。
「うん。――まあ、これまで何度か死にかけたけどね。」
そう言って、エバは笑った。
…ああ…、それは、何度も見た顔だ。面影が重なる――
「でも見て。もう普通の人と変わらないよ。人間の適応能力って凄いよね。僕は今、元気にこうして生きてる。一切の外気から守る必要なんて、はじめから無かったんだ。」
ラックは泣き崩れた。
――それからエバは、これまでの事を詳しく話して聞かせてくれた。
壊された無菌室は、再現するのに時間が掛かってしまうためその意義を失くした。それ以前に、一度外に出てしまったエバがまた無菌室に入っても、もう意味は無いだろうと判断されたらしい。そして彼は、他の子供たちと同じように外界で生きて行く事になった。
…しかし、やはり外の世界に適応するまでには、長い時間が掛かった。さっき言っていた事は冗談ではなく、死にかけた事は本当に何度もあった。だが辛いリハビリ期間を乗り越え、今では大した問題もなく生活出来るようになったのだ。
――そうして体が楽になるにつれて、エバはラックのその後が気になった。
その行方を捜したが、見付からない。父に尋ねても分からないと言われ、長くその所在が不明だった。
あの後大学を追われたラックの父ジェイクは、それだけでなく住む所も失くし、娘も戻って来なかった。警察へ行っても相手にされず、やがて小さな公国の中ではどこにも居場所が無くなった。そして彼は、国からも追い出されるように、泣く泣く出国せざるを得なくなったのだった。
だが、エバはある時偶然、この屋敷の地下には誰も知らない部屋があるらしいという事を知った。そして、そこに彼女が監禁されているという事も突き止めた。
父は…伯爵は、大きな嘘を吐いていたのだ。
世間をも欺き、長期に亘って罪を犯し続けていた…
それを知ってしまった以上、見過ごす事は、出来ない。例え、自分が多くを失う事になっても。
だからエバは、父親を告発したのだ。
『「―――グレイツ伯爵家には、秘密がありますよ。」』
「…これで、僕はただの“エバ”になった。やっと本当に、どこへも自由に行けるんだ。あの日のラックのおかげだよ。」
「私の…おかげ?」
「うん。」
エバは、座り込んでいたラックへ手を差し出した。
ラックの目には、その手にいくつもの場面が重なって見えた。…でも、それのどれとも違って見えた。
「遅くなってごめんね。約束のパンケーキ、食べに行こう。一緒に。」
「―――…!」
果たされなかった約束が、蘇った。
この体のどこに、そんな水分が残っていたんだろう…。自分でそう思うほど、何度目か知れない涙がラックの目に溢れた。
『――無意味じゃ、なかった……!』
…これまでの苦しみと後悔が、今この瞬間に全て報われた…
彼女はそう感じていた。
そして大きく頷いた。
「…うん……うん!!」
エバが差し出した手を取り、ラックは力強く握った。
そして二人は、しっかりと手を繋いで歩き出した。
『…パンケーキを食べたら、父さんに会いに行こう。
そしてその後は、どこに行こうか?
―――ねえ、エバ。』
――完――