4.冬
「――この窓って、ただの強化ガラス?」
「多分ね。でも、僕とかラックの力で割れるかな…。」
ラックとエバは、早速相談を始めた。エバを外に出すためにはどうしたらいいか。その作戦会議といったところだ。
“外に出たら死ぬかもしれない”
その危険性がある事は分かっているが、絶対ではない。その可能性がある、というだけの話だ。外の環境に対応出来なければ…。
誰にも確実な事は答えられない。彼のような前例が無いからだ。もしかすると、外に出てみたところで、何という事は無いのかもしれない。
これは一種の博打である。
だが、彼は言ったのだ。
命を懸けてでも、やりたい事があるのだと。
ここまで来れば、二人にはもう何も躊躇う事は無い。
「じゃあ、熱割れさせよう。」
「そっか!そしたら強度が下がるね。どうやる?」
「そっちとこっちで、温めて冷やす。少しずつ。ばれないように。」
「話ししてるフリしながら?」
「そう。」
「いいね。蒸しタオルなら用意出来るよ。」
「じゃあ私は氷。」
計画が決まれば、後は実行をするのみだ。
次のラックの訪問から、それは始められた。あまり目立たない、大きなガラスの下の方に一つ、目を付けた。そこに狙いを絞って、内と外で分かれ、別々の個所に氷と蒸しタオルを同時に押し当てていく。
自然さを装って、会話をしながら…
これは、今日明日ですぐに結果を出すような計画ではない。じわじわと、時間を掛けて、少しずつ綻びを作っていく。
そして、その時が来たら――…
「――ねえラック。その名前を付けてくれたのって、ジェイク教授でしょう?」
にこにことしながら、エバがたわいない質問をした。それは本当にたわいもないものだったが、それを聞いたラックは少し、機嫌が悪くなったようだった。
「…多分、違う。」
「え~、絶対そうだと思ったのに…」
エバは不満そうな顔をした。
「そう言うエバは?」
「僕?僕はね、父さんだよ!“永遠”っていう意味が込められてるんだって。」
「ああ…」
こんな部屋を作る伯爵だ。なるほど、そんな名前を付けそうだとラックは思った。
「良い名前でしょ。気に入ってるんだ。ふふっ」
エバはすっかり生き返ったような顔になって、笑っている。それを、恨めしそうな顔でラックは見た。
「“ラック”っていうのも、良い名前だよね。」
楽しそうにエバがそう言うと、ラックはより不機嫌になって返した。
「どこが?」
いつもよりも感情的になっているその声は、妙にとげとげしい。彼女はもはや、怒ってさえいるようだ。
「良い名前」という言葉のどこに、そんなに怒る要素があると言うのだろう…。エバは、さっぱり分からないという顔をして尋ね返した。
「えぇ?何で⁇」
ラックはムスッとしていた。…そして、そうしながらも答えた。
「……確かめた事はないけど、これは私を捨てた母さんが付けたに決まってる。きっと、生まれた時から私の事が要らなかったんだ。“ラック”は、そういう意味なんだよ…!」
吐き捨てるようにして、彼女は言った。
――…そう、自分の名前は、“欠落”だ。
こんな名前を付けられたのは、愛されていなかったという証だ。もしかしたら、疎まれてすらいたのかもしれない。
とにかく、良い名前どころの話ではない。お世辞を言うにしろ、もう少しものを考えてから言って欲しいものだ……
そんな感情を渦巻かせ、彼女はうつむいて黙り込んだ。
「…うーん…?要らなかったら、僕ならそんな名前、付けないけどなあ…。」
「は?」
ラックは顔を上げるとエバを睨んだ。彼は笑っていた。
「だって、“ラック”って、“幸運”っていう意味でしょ。こんな素敵な名前、要らない子に付けるかなあ?」
「―――……」
ラックは言葉を失い、呆けたようにエバの顔を見詰めた。
……“幸運”?
“欠落”ではなくて??……
そんな風に考えた事は、ラックは一度も無かった。
自分には、人として欠けている部分がある事は、十分に理解している。名は体を表すが如く、その通りの人間になったと思っていた。
“幸運”……“幸運”か…。
そうなると、父と母、どちらが名付けたのか分からなくなってきた。でも、もうどちらでもいいやという気持ちにラックはなった。
「ラック?泣いてるの⁇」
小首を傾げながら、エバが尋ねた。
「…っ泣いてない。」
…泣きそうにはなった、が。
晩秋が過ぎた。
冬が来た。
ここ、リンカー公国にも、雪の季節がやって来た。
いつも用意されている椅子にも、雪が積もり始めている。この時期になると、エバの家庭教師はいつも休みになるらしい。それはラックも例外ではなかった。
「…しばらく来られなくなる。」
チラチラと雪が舞う中、ラックはエバに暫しの別れを告げに来た。ガラスのこちらにいるラックは、もこもこに着膨れて鼻の頭を赤くし、真っ白な息を吐いていた。
「雪だもんね。ねえ、雪ってどんな?」
「柔らかくて、降ったばかりはふわふわしてる。」
ガラスの向こうのエバは相変わらず、春に初めて会った頃と同じような服を着て、ふっと笑った。
「猫みたい。」
「触ると、かじかんで指が痛い。猫とは違うよ。」
「そっか。」
「じゃあ…」
「またね。」
冬の間、ラックには何もする事が無い。
…これまで自分は、冬に何をしていたんだっけ?――そんな事を思ったラックは、考えあぐねた挙句、結局家の中で本を読んで過ごす事にした。
確かずっと、こうして来たんだ…。記憶はおぼろげだが、自分の行動ならば大体の予測はつく。
雪の見える窓の側に椅子を置き、ラックは本を開いた。
そこで静かに独り、文字を追った。
時折、灰色の空を見上げた。後から後から、白い物が降りて来る。それを眺めた。
―――エバは今頃、一人で計画を続けているらしい。冬の間、ガラスは外から雪で冷やされるから、自分だけでも何とかなると彼は言っていた。
……本当に、今この時も、一日も欠かさずに続けているのだろうか……
「その本、つまらない?」
「…え?」
ぼうっとしていたラックは父に声を掛けられ、ハッとして振り返った。
「ずっと同じところを開いてる。」
椅子に座り、立てていた両膝の上に置かれた本は、ちっともページが進んでいない。それを指差して、父は笑いながらそう言った。
――こんな風に、本を前にして上の空でいた事など、覚えが無い…。
「…春が来るまで、少し寂しいね。ラック。」
短いようで、長かった冬は終わりを告げた。
すっかり雪の消えた歩道を、ラックは駆けていた。街にはまだ、咲いている花の数は少ない。柔らかくなった日差しの中、冷たい風が今も残っている。
息を切らせ、ラックはついにエバの部屋の前までやって来た。
ずいぶん長く、時間が経ってしまったような気がする…
「…久し振り。」
息を切らせながら、ラックは挨拶をした。
心臓がドキドキとしているのはきっと、ここまでずっと走って来たせいだろう……
「久し振り。待ってた。」
別れた時と同じ笑顔で、エバはラックを迎えた。
そんな再会の挨拶もそこそこに、ラックの視線はあるものを捉えた。彼女は思わずそれに近寄り、目を見開いた。
『…ひびが…!本当に、ずっと続けてたんだ。』
ラックにいくらか疑うような気持ちがあった事は、否めない。しかし、これを見付けてしまったら、そんな気持ちはすっかり消えてしまう。
わずかに入ったひびを指でなぞると、その手をぐっと握った。
「…………。エバ。本当に、出たい?」
強い表情で、ラックはエバを問い質した。これが最終確認だ。
それが、どんな意味を持っているのか――…。彼女は皆までは言わなかった。
彼はほんの少し驚いたような顔をしたが、真面目な顔つきで答えた。
「…僕は、莫迦じゃないよ。」
もちろん、エバにそれは伝わっていた。彼は全てを十分理解した上で、一人計画を続けていたのだ。
「ラックはいいの?何でここまでしてくれるの?」
今度は、エバがラックに問い質す番だ。
これが、どんな結果に繋がるのか――…。分からないような彼女ではないはずだ。
ラックはほんの少しだけ、躊躇ったような顔をした。そして口を開いた。
「私は…」
…他人に興味なんて無かった。本さえあれば、それで良かったのだ。それだけで、世界は綺麗に完結していた。
でも――
「大事な友達が、そう望むから。」
そう言ったラックは、ガラスに向かって手を伸ばした。
「一緒にパンケーキ、食べに行こう。」
彼女の伸ばした手の方に向かって、エバも手を伸ばした。
「うん。約束。」
二人の意思は一致した。覚悟は決まった。
ラックはいつもの通りに置かれた椅子に手を掛けると、それを振り上げた。
そしてガラスに向かって、思い切り振り下ろした。力一杯に……
ガンッ‼パシィ―――…
―――椅子がぶつかる音と共に、想像していたものとは違う音を立て、ガラスは一瞬の内に粉砕した。まるで氷の粒のように粉々になって……
それは陽の光に照らされて、きらきらと輝いていた。
「何だ⁉何の音だ!?」
その異様な音は、静かだった屋敷に響き渡った。それによって、屋敷の人間たちは瞬時に何か異変が起きたのだという事を悟った。
粉々になったガラスがまだパラパラと落ちる中、ラックはエバに向かって手を差し出した。
時間は無い。きっとすぐに、追手がやって来る。
エバは躊躇いもせずにその手を掴むと、二人は出口に向かって走り出した。
…ハア、ハア、と呼吸が苦しい。ギュッとしっかり握った手を引き、ラックはただ前だけを見て進んだ。
後ろからは、この事態に気付いて追って来る、人の気配がする。こんな所で捕まるわけにはいかない。
「…ッ早く!」
「……っ」
ラックはエバを急かした。エバも懸命に走った。
…しかし、次第に引く手は重たくなってきた。
「……っ…他人の手…って、ちょっと、冷たくて……あったかいんだね……」
息苦しそうに、途切れ途切れにエバが言った。顔を見る暇が無くて確認は出来ないが、その声からは彼が笑顔だという事が分かる。
そんな余計な話をしている余裕など無いのに…
だが、ラックはそれを咎めはしなかった。
「私も…。今知った。」
「いたぞ――!!!」
迫る追手の声に、ラックの声はかき消された。
……分かっているんだ。
「!来たっ」
「待て‼」
息がゼエゼエと苦しい…。肺が破裂しそうだ。
それでも、足を止める事は出来ない。
空気が…重い。ザラザラとしている……
……これが、外の世界――…
「止まれェ!!」
――分かっていた。
「……ラック……」
しっかりと握って引いていた手が、するりと解けていくのを感じた。ラックは振り返った。
「……嬉し…
かった……。」
ラックはおかしな感覚を覚えた。
一緒に前へ進んでいたはずのエバが、少しずつ後ろに下がって行くように見える。
それなのに、走り続けていた自分の脚は、惰性でまだ先へと進もうとしている…。
「…ありがと。…ごめん…
ね…」
青い顔をしたエバは笑いながら、ずるりとその場に落ちていった。
彼の身体は、限界だった。
「…!!」
その光景は、ラックの目にはとてもゆっくりと映っていた。たぶんそれは、一瞬とも言えるようなほんの短い時間だったはずだ。しかし、とても長い時間のように感じられていた。
…この時からのラックの記憶は、定かではない。ただ、周りで「エバ様‼」だとか、「大人しくしなさい」だとか、知らない大人たちが大勢集まって来て、大きな声を出していたような気だけがしている。
一方でラックは「エバ!エバ‼」とだけ叫ぶばかりで、倒れた彼のところへ行こうと暴れた。それを、何人もの大人たちが取り押さえた。そしてどこかへと、彼女を連れて行った。
エバの側には別の大人たちが大勢いて、彼の周りを取り囲んでいた。その塊が、段々とラックの視界から遠ざかって行く……
「――エバ!!」
ラックは最後、声の限りに叫んだ。
本当は、
自分たちには、その行き着く先が分かっていた。
「…さよなら……エバ。」
観念したのか、力を使い果たしたのか、ラックは弱々しくぽつりと呟いた。
その声は雑音に紛れ、誰にも気付かれなかった。
ラックとエバ、二人の秘密の脱出計画は、失敗に終わったのだった。