3.秋
―――ラックがグレイツ伯爵家に出入りするようになって、数か月が経った。
秋になった。
その日、彼女は本を手にいつもの裏門へとやって来た。その本は、いつかのように話をしながら眺めるための物ではない。ラックがここへ来る前に借りて来た、個人的に興味があった物だった。外出のついでに、父の大学へ寄って来たのだ。
持っていたのは、たまたまに過ぎない。そこに意図などは無かった。
「いらっしゃいませ。」
いつものように執事が門を開け、ラックは軽く会釈をして中へと入って行った。
…門をくぐる一瞬、執事の目には、彼女が持っていた本のタイトルがちらりと入った。
“BIOLOGY”
執事は渋い表情をした。
「……くれぐれも、エバラスト様に妙な事は吹き込まれませんよう――」
彼は警告のようにそう言った。
『――“妙な事”?』
ラックは足を進ませながら、彼の顔を横目で見た。
執事は、門の所で立ち止まったままでいる。自分との距離が段々と離れていくせいか、その表情はラックにはよく見えなかった。
それからいつものように、ラックはエバの部屋の前に置かれた椅子に座った。
今日は珍しく、彼女の方から話を始めた。
「ねえエバ。エバは健康なのに、どうしてこの中にいるの?」
ラックはこの日、以前から疑問に感じていた事を、彼に直接聞いてみようと思っていたのだ。
するとエバは一瞬だけ、驚いたような顔をした。…いや、今さらだと思ったのかもしれない。それもそうだろう。本来ならばそれは、初対面の時に尋ねるような事だったからだ。
「…僕の亡くなった母さんはね、元々体が弱かったんだって。だから、父さんが僕の事も心配したんだ。それで、病気をしないように、一切の菌に触れさせないようにって。生まれたのもこの部屋なんだよ。無菌動物みたいでしょ。ふふっ」
まるで他人事のように、エバはあっけらかんと身の上を語った。それには、ラックの方が少々面食らってしまった。
多分、だが。これは決して他人に明るく話すような事ではない――…。いくら人付き合いが苦手なラックでも、それくらいは理解出来た。
『無菌動物…。過保護の末が、この軟禁なのか……』
彼女はようやく、この状況の真実を知る事になったのだった。
「でも見て!…見えるかな…この本棚!すごいでしょ⁇欲しい本は、いくらでも買って貰えるんだ。毎日新しい新聞と雑誌もくれるし、外の情報はちゃんと知ってるよ!その中でも僕が一番好きなのは…色んな風景の写真集かな。あとこれ、運動器具!これでちゃんと運動もしてるよ!他にも色々あってね…」
ラックがしばらく言葉を失っていると、エバは嬉々として部屋のあちこちを回りながら案内をし始めた。…と言っても結局彼女には、この大きなガラス窓の外から見る事しか、出来ないのだが…。
そんな戸惑ったままのラックの近くまで戻って来たエバは、満面の笑みをしながら思い切り腕を広げてみせた。
「この部屋にはね、父さんの“愛”が詰まってるんだ。友達も出来たし、僕はとっても幸せだよ‼」
その時、ラックは『あれ?』という違和感を抱いた。…それまでは何とも言えない気持ちになっていたのだが…。
今の言葉を語っていたエバの表情に、後ろ暗いものは本当に何も感じられなかった。きっと、本心からそれを言っていたのだろうと分かった。
…もしかすると彼は、この生活を満喫しているのかもしれない…。他人の気持ちに疎い自分にはそれが分からず、己の都合よく勝手に解釈していたのかも…
『こんな所に閉じ込められて可哀想だ』、と―――
ぼうっと考え事をしていたラックは、ハッとした。
気付くと、いつの間にかガラス窓の間近までエバがやって来ていて、微笑みながら「こっちへ来い」と言うように手招きをしている。
それに導かれて側まで行ったラックは、誘導されるがままにガラス窓に耳を寄せた。
「…でもね、たまに外の世界を、この目で直接見てみたいなって思う時がある。これ、内緒ね。」
ひそひそと小さな声でそう言うと、エバは笑いながら口の前で人差し指を立てた。
『なんだ…やっぱり……』
ラックは、自分の考えが全て間違っていたわけではなかったのだと思った。
自宅へ帰り、ソファに座ったラックは本を広げて読んでいた。
タイトルは“BIOLOGY”
今日グレイツ伯爵の屋敷へ行った時に、持っていた物だ。
ラックはペラペラとページをめくった。
〈無菌動物〉
その項目で、手を止めた。
そして目を皿のようにして、ページの隅々まで読んだ。
「―――……。駄目だ。書いてない…。」
そこには、その作製方法と飼育法は載っていた。しかし、肝心の知りたかった情報は書かれていなかった。
…今日エバからその言葉を聞くよりも前から、似ているなと思っていた。
“無菌動物”…
それが、そこから出たらどうなるのか―――
ラックは溜息を吐くと、本から目を離した。
「ただいまー」
そんなところへ、父のジェイクが帰って来た。それに気付いたラックの頭に、以前父が言っていた言葉が蘇った。
『「生きられないかもしれないから…」』
「おかえり」と言う事も忘れ、ラックは暫し父の顔を見詰めてしまった。
そんな娘を見たジェイクは、不思議そうな顔をした。
「うん?どうしたんだい?」
声を掛けられたラックは我に返った。
「…あ…ううん。何でも。おかえり…」
そして慌てて本を閉じると、それを抱えて自分の部屋へと急いだ。
心臓が、ドクドクと音を立てていた。
――エバに会うために、この日もラックはグレイツ伯爵の屋敷へと向かっていた。
その途中、道端の花に目が留まった。
『この花…エバの庭には無かったな。』
ふとそう思い、一輪摘んで持って行った。
エバの部屋の前まで来たラックは、ガラス窓に向かって花を差し出した。
「――綺麗だったから。」
「わあ!本当だ。ありが…」
カツッ
差し出された花に、エバが自然に指を伸ばした時――。ガラスに遮られて、その爪は窓にぶつかった。
彼は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにその手を引っ込めた。
「他には?何かあった⁇」
何事も無かったかのように、“いつも通り”の笑顔でエバはラックに尋ねた。
「他?…ああ、そういえば。大通りに出来たパンケーキ屋が人気だとか。」
「パンケーキ‼いいなあ~食べたいっ!」
“いつも通り”に、はしゃぎながらエバが言った。
「それくらい、作って貰えば?」
「む〰〰分かってないなあ。そこで食べるのがいいんだよー!……多分……。
行って来て‼」
少しむくれたようにエバは言った。また、新しい依頼だ。
ラックはこれにはあまり乗り気ではなかったが、断るのは気が引ける。仕方なく、了承しようと思った。
「…分かった。じゃあ、今度までに――」
「だめ。今すぐ!」
「今⁉」
ラックは少々戸惑った。これまで、こんなに急な要求など無かったのに…。
「そう!早く行く!!ほら――‼」
「分かった、分かったってば…」
…なぜか、今日はエバが我儘だ。さっきから一体どうしたというのだろうか…。
まだ屋敷に来たばかりだったのに、ラックはそのまま追い立てられるように、代理体験へと向かわされた。
走って行くその背中を、エバはガラス越しに見詰めた。そして、小さな声で呟いた。
「…そこに、意味があるんだよ。きっと…」
それからラックはその足で、生真面目にも一人パンケーキ屋へとやって来た。
思った通り、店内は友人同士やら恋人同士やら家族連れやらで大賑わい。自分のように一人で来ている者の姿は…見当たらないようだ。
少々居心地が悪いような気がしながらも、ラックは案内されるまま席へと着いた。そして適当に頼むと、やがてそれは運ばれて来た。
…大して興味は無かったが、いざやって来た物を見たラックは、思わずごくりと生唾を飲んだ。
目の前に置かれたパンケーキはほかほかと湯気を立て、とろりと溶けたバターはそこに染み込むだけでは飽き足らないのか、皿の上にも流れ出している。これを拒絶出来る者など、果たしているのだろうか…。
ラックはぱくりと頬張った。
「……!」
口の中いっぱいに、ほのかな甘みが広がった。
実際に食べるまでは、『どうせ、もさもさとして甘ったるいのだろう』と思っていたが、現物は全く違った。
パンケーキは舌の上で泡のように溶け、甘過ぎたりせず、かと言って味気ないわけでも無く、ほんのりとした甘さが絶妙だ。バターの塩気と相まって、いくらでも食べてしまいそうになる。
話をするような連れの居ないラックは夢中になって、無言でパンケーキを頬張り続けた。というよりも、口へ運ぶ手が止まらなかった。
――…そうして一通り食べ終えると、ラックは満足した顔で椅子の背もたれにもたれ掛かった。
するとようやく落ち着いてきて、周りを見る余裕が生まれた。
…友人同士や家族連れ、誰も彼もが皆、楽しそうに語り合い食事をしている。とても幸せそうだ。
『…ここに、エバがいたら…』
ふと、ラックの頭の中にそんな言葉が湧いてきた。
“「あああ〰〰〰最高っ!全種類食べたいなあ。また来ようね、絶対――…」”
口に食べかすを付けながら、思い切り笑ってそう言うエバの顔が思い浮かんだ。ラックは無意識に、ふっと笑っていた。
「―――口に入れると、しゅわって溶けて…。泡みたいで。でも、ちゃんとパンケーキだった。」
日を改めて、ラックはエバへとパンケーキの感想を聞かせていた。
「そう…」
エバは静かに、一言だけそう返した。
…おかしい。
直感的に、ラックはそう感じた。
いつもの彼ならばもっと賑やかに、食べたがって悔しがったり、他にどんなメニューがあるのかと聞いてきたり、色々な事に興味を示したはずだ。
それが、今日は無い。
口元は笑っているが、どこか元気がないというか、瞳に光が無い。反応が薄く、変に穏やかなのだ。
「周りにいる人たちも、みんな笑顔で…」
「うん。」
ラックは強い違和感を覚えながらも、話を続けた。エバは全くの上の空ではなく、きちんと話は聞いているようだ。
「…ここに、エバがいたらと思った。」
その言葉に、エバはこの日一番の反応を示した。無色のガラス玉のようだった目に、急に色が差したような――そんな変化だ。
しかしその色は、幸せな色とは言えなかった。
ハッとして急に意識を取り戻し、困ったような、悲しいような、苦しいような――…。何とも言えない表情をした。
「………ねえ、ラックは…」
エバはこの日初めてと言ってもいい、血の通った言葉を口にした。
「命を懸けてもやりたい事ってある?」
苦痛に顔を歪めるようにして、エバはラックに尋ねた。
ラックは気圧された。
「……無い。」
彼女は一言だけそう答えた。
彼はその表情のまま、ふっと笑った。
「僕にはあるよ。」
少しの間、二人の間に沈黙が流れた。
エバのその様子で、その言葉で、ラックは悟った。
「………エバ。外に出たいの?」
――エバは、返事の代わりに痛々しい表情で微笑んだ。
グレイツ伯爵家の屋敷からの帰り道。ラックはうつむきながら、とぼとぼと歩いていた。
『…上手く返事が出来なかった。』
あの後、エバは人が変わったように明るく振る舞い出した。
『「ごめんね、へんなこと言ったね。忘れて!」』
それはどう見ても、強がりだった。
だがこんな時、一体どう返せばいいと言うのだろう…。
「だって、外に出たらエバは…」
思わず、頭の中の言葉が口からこぼれ落ちた。
“外に出たいのか?”その質問自体を、してはいけなかった。その事に触れてはいけないという、暗黙の了解があったはずだったのだ。それなのに…。
どうしても、その言葉が口を衝いて出てしまった。
ラックは後悔をしながら歩いた。
そして丘の上を通り掛かった時――…。燃えるように真っ赤な夕陽が、彼女を射した。
所々浮かんだ雲に光が当たり、赤の中に影が出来ている。その夕焼けの下には街があり、ぽつぽつと明かりも見え始めた。何気なく目を向けたラックは、その何の変哲もない光景に釘付けになった。
「綺麗…。」
気付かない内に、ラックはそう呟いていた。
この全てを写真で伝え切る事は、きっと出来ないだろう……
―――あのエバがこの景色を見る事は、
絶対に、無い。
今日もラックはグレイツ伯爵家の屋敷へとやって来た。
「いらっしゃい。」
エバは人形のような顔で、にこりと静かに微笑んだ。
「エバ。」
ラックは、いつものように用意されていた椅子には座らず、立ったままで彼と向かい合った。
「パンケーキ、食べに行こう。一緒に。」
彼女は真顔で、突拍子も無い事を言った。しかし、それを聞いた彼は、見る見るうちに表情が変わっていった。
「―――…!」
静かな微笑みは消え、人形のようだった目は見開かれた。
口元は僅かに開き、震えている。それから――
見開かれた目には、涙が溜まった。
「…うん……うん!!」
そう言って泣きながら、エバは力強く何度も頷いた。
“「パンケーキ、食べに行こう。一緒に。」”
――無謀な提案の裏に込められたラックの真意に、エバはすぐに気が付いた。
“『ここから出よう。』”
その提案に、彼は乗った。
……この日から、それは二人だけの厳重な秘密になったのだった。