2.夏
「――ハアッ。疲れた……」
やっと解放され、自宅に帰って来たラックは、自分のベッドに倒れるように飛び乗った。そしてそのままうつ伏せになっていた。
…あの後しばらく、エバの猫に対する熱い思いを散々聞かされた。今日の事を振り返ってみると、その時の話の印象が強く、正直猫の事しか思い出せない…。
自分は一体、何をしに行ったのだろうか。そんな思いがするほどだった。
『…同じ年頃の子って、みんなああなのかな…。』
肌に合わなかった小学校を辞めて以来、赤の他人と関わる事はほとんど無かった。自分と同じ子供なんて特に、だ。だから、“普通の子”というものがどういうものなのか、ラックにはあまりよく分からなかった。
…しかし。ラックが事前に父から聞いている話では、あれでいてエバは普通の子供よりも賢いらしい。
伯爵令息なのだから、彼は当然最高の教育を受けているに決まっている。あの部屋に居ながらも、自分と同じようにあの場所に来た、優秀な家庭教師に教育を施されているそうなのだ。それにより、ラックと同等程度の知能があるらしい。
彼の父、伯爵が息子の話し相手にラックを指名したのは、それが一つの理由だった。『凡人や馬鹿に、息子の話し相手は務まらない』、そういう考えが基にある。
さらに言えば、話し相手が男ならば妙な知識を入れられては困る。女であれば下心から色目を使われては困る……。そんな中で耳にした話、「学力が高く他人に媚びない大学教授の娘」――。それがラックだった。
彼女はまさに、伯爵の理想的な息子の話し相手だったのである。
それにしても…
『猫…。猫、か…』
ラックは寝転がったまま、考え事をしていた。
そして何か思い付いたのか、急に起き上がると、また家を出て行った。
―――それからしばらくして、ラックは最終目的地へとやって来た。
ここは、父親の働く大学だ。
その辺りにいた学生に頼むと、父を呼び出してくれた。
「ジェイク教授――、娘さんがー…」
その声に気付いた父ジェイクは、すぐに側まで来てくれた。
「おおラック、よく来たね。エバ坊ちゃんはどうだっ…」
嬉しそうに言葉を掛けたジェイクだったが、娘の姿を見てギョッとした。なぜか彼女は全身がボロボロになって、汚れていたのだ…。
「その格好はどうしたの⁉一体、何があったの!?」
ジェイクはオロオロとしながらラックに尋ねた。
友達などいない娘は、外で泥だらけになって遊び回るような事がこれまでに一度も無かった。第一、もうそんな歳ではない。それでは、誰かに何かされたのだろうか…喧嘩か⁉いや、そんな事をするような子じゃあない。では……
ジェイクは心配でならなかった。
「猫が…」
「猫?」
娘は少々意味の分からない事を言っている…。さっぱり見当の付かないジェイクは、怪訝な顔をした。
「捕まらなくて。本にも書いてない。」
話の内容を理解するのに、ジェイクは少しの時間を要した。
「………。」
…どうやら、ラックは猫を捕まえようとしたらしい…。そして失敗した、と…。
しかし、なぜそんな事をしようとしたのだろうか…。ジェイクの謎は更に深まった。
「エバが。近くで見たこと無いって…。」
下方を見たまま、ラックは朴訥に答えた。その様は、それを言うのが恥ずかしいのか、ぽつぽつと言葉をこぼすようだった。
そんな娘を見たジェイクの胸には、じんとした嬉しい気持ちが込み上げてきた。
あのラックが、他人のために何かをしようとしている――…!
「……そうか、そうか…‼」
「ぷはっ」と一瞬笑ったジェイクだったが、その後は涙が溢れて言葉に詰まってしまった。そして娘をギュッと抱き締めたのだった。
数日後――。
ラックはまた、伯爵邸のエバの部屋の前にいた。
エバは今、ガラスと一体化するのではないだろうかと思うくらいに、そこにへばり付いている。
「わあっ猫だあ‼可愛い可愛い〰〰〰」
顔を輝かせたエバは、歓喜の声を上げた。
ガラスを挟んだ彼の目の前には、念願の猫がいる。ラックが抱き上げて、彼のすぐ側まで連れて来ているのだ。
「どうしたの⁉あああ〰〰〰…」
「父さんの知人から借りた。」
――あの後、父ジェイクは知人を当たって猫を借りて来てくれたのだ。それを連れ、ラックは今日ここへとやって来ていた。
エバは今にも歓びで悶え死にしてしまいそうな顔をしている…。正直、ラックはその勢いに少々引いていた。
「どう⁉どう⁇抱っこした感想だよ!!」
瞳をきらきらと輝かせながら、エバは急かすようにラックへと尋ねた。
…『抱っこした感想』…??戸惑ったが、ラックは思ったままを伝えた。
「……柔らかい。温かい。」
「いぃいなああ~~!!」
そのありきたりな答えを聞いたエバは、今度は体がねじ切れるのではないかというほど、身をよじらせて悔しがっていた。
…これはもしかすると、連れて来てはいけなかったのではないか?――ラックはそう思った。
そうしてやったところで、エバに出来る事はガラスの向こうからただ眺めるだけ。これでは、彼にとっては生殺しの感覚に近いだろう。触れたくても、触れられない。それは想像が出来ないほど、精神的な苦痛なのではないだろうか…。
余計な事をしなければよかった、とラックは後悔した。
所詮、自分は人付き合いなど分からない人間だ。それを、普通の人間がするような事を真似たのが、そもそもの間違いだった…。
気持ちと共に、顔も沈んでいく。
するとそこへ、明るい声が飛んで来た。
「ありがとうラック‼すっごく嬉しい!!」
顔を上げると、エバが満面の笑みでそう言っていた。ラックは目を見張った。
『…こんなに喜ぶなんて…。――元々、私が報酬を貰ってここにいるという事、知らないのか?』
彼は、“これ”が全て善意によるものだと思っているのだろうか…。そう思ったラックの口を衝いて、言葉が出た。
「仕事だからだよ。」
エバはきょとんとしてラックを見た。
ラックはハッとした。―――これも、言うべきではない言葉だったんだ――!!
そう気付くと、顔を青くした。
「…正直だね。でも、僕の事を考えてくれた結果でしょ?やっぱり嬉しい。」
そう言ったエバは、優しく笑っていた。
…猫を連れて来ようと思ったのは、単に、これが会話の種になるのではないかと思ったからだ…。決して、思い遣りなどでは無い……。全ては、仕事の内――…。
そう思うものの、エバが想定外に喜んだ事は、ラックの心にある種の動揺を起こしていた。
胸の中が、温かくなったような気がする。今までに味わった事が無い感覚だ。
…嬉しい…。
これがきっと、「嬉しい」という感情なのだとラックは悟った。
そして、ある思いに突き動かされた。
「じゃあ…」
ラックが不意に口を開いた。エバが何かを尋ねたわけでもないのに、だ。それは、二人が出会ってから初めての事だった。
何だろう、という顔をして、エバはラックの方をじっと見詰めた。
「私が、エバの目と耳、手足になってあげるよ。」
「…え?」
そんな言葉が自分の口から出て来た事に、ラックは驚いた。不思議だ…どうして、そんな事を思ったのだろうか。
しかし、それをやめようとは思わなかった。出て来るままに言葉を続けた。
「エバはそこから出られないでしょ?だから、エバがしてみたい事を代わりに体験して、伝えるの。どう?」
また、エバはきょとんとした顔をした。しかし彼は、今度は徐々に顔を紅潮させていった。そして興奮しながら答えた。
「――何それ!ラック天才‼」
ラックからの申し出に、ガラスの向こうのエバは小さな子供のように声を上げ、飛び跳ねながら喜んでいた。
これは、二人だけの秘密だ。それはどちらも口には出さなかったが、暗黙の了解として共有するものだった。
次の日から、ラックは一人「代理体験」に奔走する日々が始まった。
「動物園に行って来て‼」
“本では本当の大きさや実際の姿が分からない”とエバが頼めば、ラックはそこへ行って観察して来た。
「ゾウは、こんなだった。」
「こう⁇」
「違う。もっともっと、こん…な大きくて。」
ラックは妥協なく、身振り手振りで大きさを再現しようと努めた。
ライオンはずっと寝ていた、だとか、サルの親子が毛繕いをしていた、だとか…。キリンが柵を越えて首を伸ばしてきて驚いた事、クマが重そうな体を揺らしてうろうろと歩いていた事――
それらを、時に笑い声を立て、エバは興味深そうにずっと聞いていた。
「ねえ、自転車には乗った事ある⁇」
「飛行船は⁇」
「馬車と自動車の乗り心地って、どう違うの⁇」
エバからは、止めどなく興味が湧いて出た。ラックはその度にそれをやってみては、感想や実態を伝え続けた。
「――…暑い…」
季節は夏になった。いつもの椅子に座ったラックは腕で額の汗を拭った。
「ねえ、“暑い”って、どんな感じ⁇」
年中一定の温度に保たれた部屋の中にいるエバには、それすらよく分からなかった。どう伝えたものか、とラックは汗を拭いながら考えた。
「…日差しは、ジリジリして直火焼きされてるみたい。あと――熱いシャワーを出しっぱなしにしたバスルームにいるみたい、かな…。」
「熱いシャワー…。そっか、今度やってみようっと!」
その説明になるほどと納得するとともに、エバは部屋の中で近い環境が再現出来たのかと目を開かれる思いがしていた。
「そうだ、暑い時は海なんでしょ?」
“暑い”からの連想で、エバの中にはまた新たな興味が浮かんでいた。
「さあ。行った事ない。」
「勿体ない!行って来て!!」
早速次の依頼だ。
乞われるがまま、ラックはまた一人、今度は海へと行く事にした。
――数日後、初めて目にした海の事をエバに伝えた。
「海は…本当に見える一面、水が広がってた。波が、行ったり来たりして…」
目を閉じると、日が経った今でもあの光景が蘇ってくる…。
初めて見た海は、想像以上に広く絶景だった。突き抜けるように青い空に、雪のように真っ白な雲。その下に深い色の水面がどこまでも続き、所によっては白波が立っている。
いつまでもどこまでも、ただそこにいてぼうっと見詰めていられた。そんな、時間を忘れて引き込まれてしまうような、言語化出来ない不思議な魅力がそこにはあった。
「泳いだ⁉」
「ううん。足だけ入った。…変な感じがした。水が引く時、動いてないのに勝手に後ろに下がるような感覚がして…。」
「ええ~~不思議…。勝手に下がるって、どんな感じなんだろう…」
未知の感覚に、エバはうっとりと想像の世界に意識を飛ばしている。
「あと、生臭かった。」
「臭いの!?」
「生魚っぽい。」
「へえー。」
どんな話をしても、エバは興味津々で楽しそうにそれを聞いていた。
だからだろうか。自分から言い出した事とはいえ、ラックは嫌だとか面倒だとか思う事なく、積極的に代理体験に勤しんだ。
『不思議だな。こんな事してるなんて…』
だが悪くない、とラックは思っていた。――いつの間にか、それらを楽しいとすら感じていたのだ。
一生、行く事が無いだろうと思っていた場所に行く事になった。
知識を得て分かった気になっていたが、実際にそこへ行ってみると、五感を使ってしか知る事が出来ないものがあった――…。ただの知識には、限界があると知った。
以前なら、それらは全て無駄なものだと思っていただろう。だが、今はそうは思わない。
そしていつしか、ある考えがラックの中で芽生え始めていたのだった。
『エバも、一緒に行けたらいいのに。』―――……