1.春
〈無菌動物
一般には、実験用として無菌室で取り出され、外界と隔絶された状態で育てられる動物。〉
外気に触れる事は、
生涯、無い。
―――近頃、街には馬車ではなく、蒸気で動かす自動車が増えてきた。空を見上げれば、飛行船が飛んでいる…
そんなここは、まだ建国からは百年も経っていない歴史の浅い国、リンカー公国だ。
大公が治めるこの国には、爵位制度がある。…と言っても、形骸的な物でしかないが…。多くは、莫大な財産と権力を持った者の事だ。
一部の特権階級が支配するこの国において、それは彼らの中での序列における、単なる記号のような物だった。
その数少ない伯爵家の一つ、グレイツ伯爵の屋敷へ向かって、一人の子供が歩いていた。
名をラック。年齢は13歳。常に真顔で表情に乏しく、手には分厚い本を持っている。肩に付く髪を無造作に一つに束ね、チェックのシャツに、膝が隠れるくらいの丈のハーフパンツを穿いている。
およそ色気とは無縁な格好をした、「女の子」だ。
彼女が屋敷の裏門に着くと、そこには伯爵家の執事が待っていた。彼が門を開けると、ラックは無言でそこから中へと入って行った。
門や屋敷の周りを囲む柵の外から見ても分かるのだが、入ってすぐは木々が生い茂り林のようになっている。おかげで、その中にはどんな建物があるのか分からない。それはまるで、屋敷自体を外から見せないためであるかのようだ…。
そしてその門からは、林の先へと小径が続いている。その小径は当然木々に包まれ、緑のトンネルとなっていた。そのトンネルを抜けると――…
ある所で急に視界が開ける。そこから前を向けば、広い芝の庭の向こうに大きな邸宅と…とりわけ目に飛び込んで来るのが、その一階にある、とある場所だ。
それは出窓のように、一部が突き出た状態になっているテラス。床以外、その部分は全面がガラス張りだ。その奥にはまた、そのまま続く大きな部屋があるらしい。
そこが、ラックの目指してやって来た場所だった。
ラックは、そのガラス張りのテラスの前まで進んだ。そして、それと対峙する位置に、ぽつんと一つ用意されていた椅子へと腰掛けた。
「――ねえ、君が“ラック”⁉」
彼女が座るなり、大きなガラス窓の向こう、“中”から声がした。そこには――ラックと同じ年頃の少年がいた。
彼こそが、ラックがここへ来た本当の目的だったのだ。
「僕の話し相手になってくれるんだよね!」
「うん。」
「僕はエバラスト。エバって呼んで!13歳だよ。」
「…私も13。」
「うわあ~嬉しいなあっ僕ね、同世代の子と会ったのって初めてなんだ‼」
ラックがそこへ来てからエバラスト…“エバ”は、嬉しそうに次々と話し掛けてくる。しかし、そんな彼とは対照的に、ラックは相変わらずの無表情で短い言葉を返していた。
『これがグレイツ伯爵の一人息子…』
冷めた目でエバを見詰めながら、ラックはある言葉を頭の中に思い浮かべていた。
――“無菌室で生まれ育った少年”――…
そして、自分がここへ来るに至るまでの事を、思い返したのだった。
数週間前の事だ。ラックは父親から、ある話を持ち掛けられた。それは、「伯爵家の息子の話し相手になる」というものだった。
「断って。会話なんて苦手だし。無理。」
「そう言わず…。伯爵が是非にとおっしゃっているし、良い機会だよ。君にとっても、その…友達を作れる。」
遠慮がちに、困り顔で機嫌を窺うように笑いながら、父は再度娘に話を勧めた。それを素気無く断り、ラックは顔を背けた。
「別に。私には本がある。それだけでいい。」
友達?そんなものが何になる。ラックはそう思っていた。
父の話など、彼女の心には全く響いていなかったのだ。
――ラックは2、3歳の頃に母親を失った。死んだわけでは無い。母は、夫とまだ幼かった彼女を置いて、家を出て行ってしまったのだ。
それからは、男手一つで育てられた。
それなりに不自由は無く育ったが、一人で過ごす時間が非常に多かった。そのため他人に興味が持てなくなっていた。
小学校には馴染めず、すぐに辞めた。それ以来、自宅で一人学習する日々。父が大学教授であり、その教えを受ける事が出来たためなのか、13歳にしてすでに大学生並みの知能があった。
そんな彼女にとって、唯一の友が本だった。普段滅多に外出したいとは思わないのだが、本を漁るためならば、父の働く大学へは足繫く通う――
…そんな生活を、彼女はこれまで送って来たのだった。
「報酬も頂けるそうだよ。お仕事だと思って、ね?」
父は諦めず、娘を説得した。
“仕事”…。
その言葉に、頑なだったラックは少し考えを改めた。
父の事は嫌いではない。むしろ、研究者でもある彼を尊敬しているくらいだ。
この話は、伯爵が是非にと言っている…。それを断れば、父の立場は危うくなるのではないか?
ラックの頭の中を、そんな考えがよぎった。
父は優秀な研究者であり大学教授だが、ただの庶民だ。圧力をかけられれば、大学を追われる事になるかもしれない……
それは、良い事ではない。
「…分かった。やる。」
――こうしてラックは、エバの話し相手という“仕事”を始める事になったのだった。
そう決めた時、彼女にとって一つ印象的だった事がある。それは、父が嬉しそうにしていた事だった。その表情がどうも、伯爵の頼みを断らずに済んで良かった、という保身の安堵から来るものでは無さそうだったからだ。
…何が、そんなに嬉しかったのだろうか…。それは、その時のラックには分からなかった。
そして父は、ラックにもう一つ、ある事を伝えた。
「そうか、良かった!坊ちゃんに優しくね。…お可哀想な方なんだ。健康だけど、外に出る事が出来ない…。」
嬉しそうな顔をして、目の端にわずかに滲んだ涙を拭いながら、父はそう言った。
“健康だが、外に出られない”とは…。つまり、過保護過ぎる親が外出させない、という意味なのだろうか…?
「出られないって、どうして?」
ラックは純粋な疑問を口にした。すると父は急に表情を硬くした。
それから慎重そうに答えた。
「……はっきりとは言い切れないけど…、
生きられないかもしれないから…。」
『ふぅん…。』その時はそうとしか思わなかった。それは、今も変わらない。まだ会って間もないのだから、無理もないが…。
しかし、「外に出る事が出来ない」という意味は、実際に見てみてよく分かった。
このテラスの大きな窓には、開けられるような場所が一つも無い。
ここから見える部屋の中には、一通りの生活が出来る機能が全て揃っているように見える。
外へ繋がっていると思われる扉は一つだけ。だがそこは恐らく、彼が出られるようにはなっていないはずだ。なぜならその部屋は、
“無菌室” だそうだからだ。
例えだとかではなく、本物の……
…そこまでを考えてから、『だからどうしたのだ』とラックは思った。
なぜ伯爵はそんな部屋を作ったのか、だとか、なぜ健康なのにそんな部屋に軟禁されているのか、だとか、多少気にはなるがどうでもいい。
自分はただの話し相手だ。それ以外の事は、知った事ではない。
ラックは一人喋り続けているエバを尻目に、座っている膝の上で本を開くと、そこに目を落とした。
「…――ラックはジェイク教授の娘なんだよね?すっごく頭良いんでしょ⁉継母さんから色々聞いてるよ。媚びなくて、冷静で、話し相手に適任だって!」
「そう。」
パラリとページをめくりながら、ラックはエバの話に気のない返事をした。
「本、好きなの?」
「好き。知識の宝庫だし。」
「だよね!僕もだよ‼それは何⁇」
「図鑑。話しながら眺められるから。」
それは会話というよりも、質疑応答に近かった。普通の人間ならば、そろそろ心が折れそうになってもおかしくはないだろう。しかし、エバは挫けなかった。めげずに話し掛け続けた。だが――
そんな努力は、彼女には通じなかった。
『よく喋るな…。』
それが、ラックの率直な感想だった。
その後もエバがどんなに話し掛けようと、ラックは相変わらず目線を本に落としたまま、素っ気ない態度を取り続けていた。彼が話し掛けなければ、喋らなければ、途端にそこは静寂に包まれるだろう。
…そんな状態に、さすがのエバも次第に不満を募らせた。
「―――ねえ、」
不意に、エバがそれまでよりも大きな声を発した。思わずラックはぴくりとし、ページをめくる手を止めた。
「話してるんだから、ちゃんとこっち見て!!」
ハッとして、ラックは顔を上げた。そしてエバの方を見た。当然ながら、彼は怒った顔をしていた。
…というよりも、ああ、エバというのはこんな顔をしていたのか、とラックは思った。この時になって、彼女はやっと、その顔をまともに見たのだった。
「初めて目が合った。じゃあ、何の話をする?」
今度はにこっと笑って、エバはそう言った。
…びっくりした…。
ラックはその時になって、ようやく気が付いた。――そうか、相手は“人”だったのだな、と…
当たり前の事なのに、それをすっかり忘れていた。
そうして、彼女は本を閉じた。
「――そうだ!身近な話が聞きたいな。」
やっと自分と向き合ってくれた相手を前に、嬉しそうなエバは明るい声でそう言った。
身近な話…。そんな事を言われても困る、とラックは思った。そして難しい顔をして考え込んだ。それから口を開いた。
「身近…。“――我がリンカー公国は大公を国家元首とした人口四万の小国で、爵位制度の下、階級…”」
「!?」
考えた末、彼女が喋り出したのはこの国のあらましだった。…自分が住んでいる“国”の事なのだから、確かにそれは身近な事ではある…。だが、エバは慌ててその話を遮った。
「わ―――ッ待って待って!それじゃ授業だよ…ていうか、そんな事知ってるし…。そうじゃなくて――…」
言いかけたエバは突然口をつぐんだ。いや、話している途中で何かに目を奪われ、口が止まってしまったと言った方が正しい。
気になったラックは、エバの視線の先を追おうとした。
「!猫だ!!」
「えっ??」
ラックが目を向けるよりも先に、エバが興奮しながら声を上げた。
「あ~行っちゃったあ…。」
エバは酷く残念そうに言った。
「この庭ね、たまに猫が通るんだ。でも遠――くで…。ねえ、ラックは触った事ある⁇」
彼の勢いに押されながらも、ラックは首を振った。
「そっかー。すっごくもふもふなんだって!あとね、猫は液体なんだよっ。」
さらに畳み掛けるような言葉に圧倒される…。しかし、エバの話に釈然としないものを感じたラックは、怯みながらも反論した。
「?…猫は生体だよ。――と言うか、生物…いや、この場合は固体⁇…比喩の仕方が難解だな…」
「違くてー!だからさ、―――」
季節は春。
街行く人々は皆、分厚い上着を脱ぎ捨て、薄着で出歩くようになった頃の出会いだった。