第一章・なんで異世界《ここ》に先生が⁉・その五
竜宮船と呼ばれる空飛ぶ軍艦は着水しなかった。
底の深い大型艦艇では、素潜り漁の盛んな岩礁域に近づけないのだろう。
そこで竜宮船は海上付近に停止し、右舷の飛行甲板から小型の竜宮船が発艦、海女たちの小舟に接近し、ゆっくりと着水する。
小型竜宮船の全長は約八メートル。
おそらく内火艇の類だろうか。
その小型竜宮船から、男性なのか女性なのかもわからない、長身で公家のような装束を着た人物が現れる。
「ちょっとあれ抄網媛でねえのかい⁉」
「ほんとだ初めて見た!」
「おれ肖像写真持っとるが、こっちの方が美人じゃのう!」
嬌声を上げる海女たち。
媛というからには女性であり、この人物こそ海女たちが話していた『悪樓釣り船の皇族』なのだろう。
そして海女たちの人気ぶりから、この国の皇族は、芸能人のような立ち位置に当たると思われた。
抄網媛は男装の麗人に見えるので、女性ファンの多いヅカ系的な有名人なのかもしれない。
「いやあゴメンゴメン、ちょいと召喚に失敗しちゃったみたいでさ……ところで蕃神様はどの娘かな?」
そう言いながらも、抄網媛の目は景清のみに注がれていた。
耳や尻尾を見れば歴然であるが、おそらく三十前後の海女たちを煽てたと思われる。
しかも召喚がどうのと言っていた。
異世界召喚……やはりラノベか⁉
「蕃神についてはよく知らないが、おそらく貴女が探しているのは僕だ」
景清は長い教師生活の経験から、一目で抄網媛の正体を見抜いていた。
――この娘、相当の女好きだ。
景清を含め、裸の女たちを見る目が尋常ではない。
本当にどんな経験積んだんだ茜部景清。
そして景清は命の恩人である海女たちを、このような危険人物と関わらせるべきではないと判断した。
「君、ひょっとして男だったりしない? 召喚の時、八尋くんと間違えちゃったんだ」
「八尋……?」
確か旧・海釣り研究会と共同合宿を行った磯鶴高校の釣り研究部員に、そんな名前があった気がする。
「陸野女子高校教師、茜部景清だ。釣り研究部の顧問でもある」
身分まで明かしたのは、抄網媛への牽制である。
磯鶴高校の生徒が関わっているなら、おそらく……いやきっと、あの軍艦には小雨たちもいるはず。
この変態が子供たちに手を出さないよう、大人の存在を知らしめておかなければならない。
――いまの景清が大人に見えるかどうかは、甚だ疑問ではあるが。
「おやま先生かい? それにしちゃ若いね」
「こう見えても四十五歳だ。そしておそらく、君が心底嫌っているであろう男性だよ」
同僚たちの中には、男性教師のセクハラやパワハラに耐えかねて、逃げ込むように陸野女子高校へと赴任して来た女性教師もいる。
その仕草や態度が、抄網媛と似通っていると思っての発言であった。
「四十五⁉ 父上と同い年じゃないか!」
抄網媛は笑い出した。
「男と言ったのは疑問に思わないのか?」
「前例があるからね。今後数百年は現れないと思ってたけど」
どうやら女体化男性は景清一人ではなかったようだ。
「なんかいろいろバレてるみたいだね。でも妾は男がみんな嫌いって訳じゃないよ? 故郷の男尊女卑に嫌気が差してるだけさ」
どうやら複雑な人間関係をお持ちのようである。
「それに八尋くんみたいな可愛い男子がいるって知っちゃったからね。まあ、こっちじゃ女の子なんだけどさ」
八尋の名前を憶えていた景清であるが、性別までは知らなかった。
部長の榎原からメールで送られた磯鶴高校釣り研究部の名簿は、苗字と氏名くらいしか覚えてないが、八尋以外に性別の区別がつかない名前はなかったので……他は全員女子という事になる。
女の中に男が一人。
さぞかし肩身の狭い思いをしている事だろう。
「男はここに来ると全員女性になるのか?」
偏った性癖の持ち主には天国かもしれない。
「いや、本当は女子しか召喚できないんだけど……まあ、そのへんは伝馬船の中で話すよ」
コットルとは無動力の艦載艇を差す旧い船舶用語で、今はカッターと呼ばれるものだ。
この船はどう見ても動力船なので、ランチと呼ぶべきだろうが……。
「そういえば日本語が通じているな。ここは異世界ではなかったのか?」
船縁を越えて伝馬船に移る景清。
「そのあたりは、まだよくわかっていないんだ」
そして抄網媛は海女たちに向かって手を振った。
「みんな、蕃神様を助けてくれたんだね! あとでお礼の品を送るよ!」
それを聞いて歓声を上げる海女たちであったが……。
「そんなのいいから投げ接吻をおくれよ!」
「帰って村の衆に自慢するよ!」
「一生の思い出じゃ!」
「そっか、みんなありがとね! 村のみんなにもよろしく!」
浮上する伝馬船から、離れて見えなくなるまで投げキッスを連射する抄網媛。
景清は抄網媛をロリコンと推測していたが、どうやら見境なしだったようだ。
これは自分も危ないな、と警戒を強める景清。
「ところで抄網媛さん」
「抄網でいいよ。この世界じゃ蕃神様は神様だ。僕なんかよりずっと格上なんだよ」
とてもそうは見えない態度である。
「生徒たちも僕と一緒に召喚したのか?」
「したよ? 藍子ちゃんと百華ちゃんは、これで二度目らしいね。前回は僕が召喚した訳じゃないけど」
「朝から妙に浮かれていると思ったら、あの子たちはそんな事を隠していたのか……」
二度目という事は、元の世界に帰れるのは間違いない。
これがもし夢であっても、そのうち目覚めるだけである。
「まさか磯鶴神社のお守りか?」
「うん、あれが召喚の指標になってる」
「なるほど、よくできた夢だ」
「疑り深いねえ。なんなら妾の手管にかかってみるかい? この世の絶頂を味わえば、きっとここも現実だって実感するよ?」
女好きがバレていると知った抄網媛は、もう何も隠す必要がないと、冗談が過激になっているようだ。
「残念ながら僕に性欲はない。昔、事故で失ったんだ」
「ふうん……」
あまり信じていない様子の抄網媛。
景清もだんだん不安になって来た。
肉体が若返り、しかも女性になっている。
そして眼鏡を必要としないほど視力が回復している。
念のため下半身を確認すると、事故でついた傷痕と手術痕も消えていた。
「もはや別の体だな」
性欲と性機能が復活している可能性がある。
だが新たに女性の肉体を得たとしても、男性の性欲をそのまま受け継げるとは思えないし、女性の性欲など、そうそう理解できるはずもない。
……抄網媛と朝チュンしなければの話だが。
「でも性欲がないっていうのは信用するよ。全裸で女の前に立っても平然としていられる男なんて、妾は見た事がないからね」
「…………あっ!」
海女たちに服を借りるのを、すっかり忘れていた景清であった。