第一章・なんで異世界《ここ》に先生が⁉・その二
目の前に出された釣り竿は、かつて景清が使っていたものだった。
同じ色のリールもついている。
そして小雨の左手にあるのは、大学時代に見た記憶のある省吾の竿。
どちらも再婚した時、どこかへ仕舞い込んだものである。
「それ、どこで見つけた?」
「……………………」
喋れない小雨に答えられる訳がない。
「……すまん」
竿をグイッと突き出された。
謝罪はいいから釣りをしろ、という意味らしい。
おとなしく竿を受け取り、代わりに杖を渡した。
その杖は後ろのベンチに立てかけられる。
「先生、仕掛けをどうぞ」
その間に、榎原がダンボール辺に巻いた胴突き仕掛けを渡してくれた。
ハリス(鈎のついた糸)が三本枝になっている幹糸の先に、金属製のオモリが装着されている。
「メバル用の五号鈎か」
ここまで小さければ、ウミタナゴの細く尖った口吻でも吸い込めるだろう。
オモリが仕掛けの先についているので、底を探ってカサゴ類やハゼを釣ってもいい。
「セイゴ鈎はないか? 枝にして底に落とそう」
オモリの金具にハリスを装着し、根魚も狙おうという魂胆であった。
「流線なら少し」
ハゼやキス釣りに使われる、首を長くして飲み込まれるのを防ぐタイプの鈎である。
「先生、やっぱり釣りやった事あるんだっ!」
「海釣りですか? それとも川?」
支室と和真部が興味津々に聞いてくる。
「陸っぱりだ。たまに船釣りやバスゲームもやったがね」
大学時代に省吾と最もよく行ったのは、夜の防波堤を巡るシーバスゲームだ。
そして、その釣行は常に後妻の華鐘が同行していた。
その頃すでに景清は華鐘に惚れていたが、華鐘と省吾の仲を察してからは、釣りは一人でやるものと決めている。
ただし卒業から一年後の結婚式には顔を出した。
次に合ったのは景清の結婚式だったか。
だが事故が元で離婚した先妻は、釣りの趣味を持たず、ただ自宅マンションで釣果を待っていただけである。
生臭い魚の下拵えも嫌うので、帰宅してから魚を捌き調理するのは景清だった。
そして内蔵の臭いが調理場に染みつき、そのたびに怒られたものである。
いや愛し合ってはいたのだ。
先妻の両親が跡継ぎを渇望し、半ば強引に離婚させられたが、今では二児のよき母になったと聞いている。
「いかんな……昔は竿を握れば釣りしか頭になかったのに」
思い出ばかりが脳裏を過る。
「んっ!」
いの一番に仕掛けを終えた小雨が竿を振ると、オモリが弧を描いて海面に着水した。
「悪くないキャスティングだ」
さすがは我が娘と鼻の下を伸ばす景清。
支室と和真部はハゼ用の穴釣り仕掛けを投入、エサはジャリメ。
景清と小雨はオキアミを使った。
榎原はカマス狙いのサビキ仕掛けだが、コマセ(寄せ餌)は冷凍アミブロックを溶かす時間が惜しいのか、パック入りの加工品を使用している。
どれも入り口近くの売店で購入したものだ。
この海釣り施設で販売されているイソメ類は、丸々と太って掴みやすいのが特徴である。
そして、ここののルールは一人二竿まで。
夢竿(放置して獲物が喰らいつくのを待つ予備の竿)が欲しいところだ。
……と思ったら、すでに支室の隣に安竿が置かれていた。
手摺に立てかけ、足元のケーソン際を狙っているのだろう。
「偏光グラスが欲しいな」
日光の反射で海面が眩しい。
こんな時でも偏光サングラスがあれば、反射を防ぐだけでなく、海中もある程度見通せる。
釣り研究部の顧問を引き受けたのが昨日の午後だったので、準備の不足は仕方ない。
あとで小雨に竿の出どころを聞いて、昔の釣り道具を発掘しよう。
「先生、サングラスは校則で禁じられてます!」
釣行とはいえ、部活中なので校則が適用される。
「わかった、次の職員会議で許可をもらっておこう」
「やったあ!」
喜ぶ釣り研部員一同。
しかし景清は、支室が手を一瞬ポーチに伸ばしかけたのを見逃さなかった。
「やはり持って来たんだな? 今回は僕の責任で許可するから、初心者に貸してあげなさい」
「あっ……あいさーっ‼」
自分のサングラスを和真部に渡す支室。
榎原も持っていたようだが、景清と小雨が眼鏡をかけているのを思い出し、申し訳なさそうな顔をしていた。
「遠慮するな。小雨には後日、オーバーグラスを買っておこう」
オーバーグラスは眼鏡の上からかけられるタイプの偏光サングラスである。
「は、はい……」
「小雨、僕の髪をいじるのはやめなさい」
景清は昔憧れた学園ドラマの影響で、髪を肩まで伸ばしているが、そのままでは似合わず、オールバックにして後ろをゴムで留めていた。
機嫌がいい時、小雨はよくその房に触れて遊ぶ。
「…………んっ」
あまりしつこいと偏光グラスを買ってもらえなくなると思ったのか、小雨はすぐに手を引っ込めた。
――プレゼント作戦に成功の兆しあり!
たかだか千円程度の出費で済むなら、安いものである。
「それに、見えている魚は釣れないものだ」
ある意味、海中を見通せる偏光グラスは縁起が悪い。
「よっと」
景清が竿を振って仕掛けを遠投し、手摺に凭れかかって下半身の負担を軽減する。
オモリの着底を確認してから少しずつリールを巻くと、さっそくプルプルと軽快な魚信が来た。
「これはシロギス……いやメゴチ(ネズミゴチ)かな?」
アワセを入れて少し待つと、次の魚が鈎にかかる。
鈎を咥えた魚は暴れるので、エサが振られて他の魚を呼び寄せるのだ。
「そろそろかな?」
引き寄せて竿を上げると、メゴチとシロギスが一尾ずつかかっていた。
「お見事!」
部員たちの拍手喝采。
頭でっかちで少し平たいハゼのような外見のメゴチは、上から見ると口が尖ってネズミのような顔をしている。
こんなおかしな風体の魚でも江戸前では高級魚なのだから、世の中わからない。
そしてみなさん御存知シロギスである。
こちらも開いて天麩羅にすれば絶品。
しかも良型で二十センチ以上もあった。
「竿出しからなかなかの釣果だな。今日は期待できるぞ」
隣を見ると、榎原はサビキ仕掛けで三尾のウミタナゴを釣り上げていた。
夏場のタナゴは小型だが、数が釣れるので問題ない。
「ラッキーッ! これ当たりだよっ!」
支室は夢竿にかかったウミタナゴとイシガニを捕獲している。
イシガニはワタリガニの一種で、味噌汁にするとスーパーのカニより旨い。
「わわっ、いきなり来た!」
和真部は仕掛けを回収している最中に、ケーソン際に集まっていたウミタナゴがかかったようだ。
そして小雨はというと……。
「…………んっ」
三十センチ近い大物フグを釣り上げ、自慢気に掲げていた。
「なんだこりゃ。ショウサイフグのようだが背中が赤いな」
たまに訳のわからないモノが釣れるのが、釣りの醍醐味というものである。
「ぜんぜん膨らまないねっ!」
支室が覗き込んでいるが、フグがグツグツ言いながら膨らむ気配は全くない。
「どちらにせよ毒魚は放流だな」
フグだけでなく、アイゴやハオコゼなど、毒トゲ持ちも即・放流の予定。
釣り研究部再建初日から、生徒を病院送りにする訳には行かないのだ。
「んぅ……っ」
小雨は渋い顔で心底残念そうである。
「しかしでかいな。撮っておこう」
すかさずスマホを構えて記念撮影を始める景清。
「こんな事もあろうかと、高性能カメラ搭載の新型スマホに買い替えておいたのだ」
たとえ血の繋がらない娘でも、親子歴が四年しかなくても、やはり我が子は可愛い景清であった。
「みんな、何があっても竿だけは手放しちゃダメですよ?」
その時突然、榎原がおかしな事を言い出した。
「いや安全第一に決まっているだろう? いざとなったら竿くらい投げ捨てろ!」
そう注意する景清だが、いきなり眩暈に襲われた。
「……おかしいな? 脳梗塞にはまだ早い……」
見渡すと、釣り研究部の全員がふらついている。
「まさか何かのガスか?」
近所の外国船が捨てたゴミやバラスト水が腐敗して、メタンガスが発生しているのかと青ざめる景清。
「勿体ないから絶対放しちゃダメだからねっ!」
支室は持っていた竿を手摺に立てかけている。
どうやら元・海釣り部員たちには予備知識があるらしい。
磯子の悪しき新名物かと首を傾げる景清だったが、その時すでに視界は暗転していた。