第一章・なんで異世界《ここ》に先生が⁉・その一
「ほんと先生がいてくれてよかったよっ!」
「この時間帯は電車が込んでるから、軽とはいえ車で行けるのは助かります」
後部座席で釣り研究部の女子たちがチョコスナックを食べながら騒いでいる。
今は亡き両親の遺産である古びたライトバンは、どうやら役に立ってくれたようだ。
もっとも所有権が景清に移るまでは軽貨物車だったのだが、自家用にして最後部の座席を増設してからは普通乗用車扱いになっているので、正確には軽とは呼べない。
「あまり零すなよ? あとの掃除が大変なんだ」
日本史教師にして陸野女子高校で唯一の男性教師、茜部景清四十五歳。
川釣り研究部と海釣り研究会のお家騒動の末、新生釣り研究部の顧問を引き受けた景清だったが、現存部員は一年生のみで、わずか四人。
それならばと自宅ガレージから滅多に使わない車両を持ち出した次第である。
正直、男性教師では女子校生の引率に不向き、嫌われるのがオチだと思っていた景清であったが、案外好評のようである。
助手席に座っているのが景清の娘なので、友達の父親くらいにしか思われていないのかもしれないが……。
マッシュボブの黒髪に黒縁眼鏡の地味で無口な少女は、景清の再婚相手である華鐘の連れ子、茜部小雨。
――小雨は景清が想像していた以上に不憫な子であった。
父親で景清の旧友だった福良木省吾は、小雨が小さい頃に大病を患い、それからずっと病院暮らしで、ろくに構ってやれなかったらしい。
五年前、省吾の葬儀で会った百華は、すでに物言わぬ子になっていた。
父親の不在が原因で、小学校で酷いイジメに遭ったのだ。
その時は当時存命中だった省吾の父親が、県議員の権力を公私混同で振りかざして学校に怒鳴り込み、何もかも真っ平に収まったのだが、完全に手遅れであった。
四年前の再婚で景清の実家へと引っ越し、転校を機に不登校こそ収まったものの、まだ会話ができる状態まで回復していない。
それでも友人として接してくれる釣り研究部の生徒たちには、感謝して余りある。
葬儀の通達が来るまで省吾の病気を知らなかったのは、当時、景清も轢き逃げ事故で病院生活を送っていたからだ。
つまらないプライドから意地を張り、省吾に報せる気になれなかったのもある。
せめてリハビリを終えた時点で連絡を取っておけば、小雨はイジメになど遭わなかったかもしれない……。
そう思うと、景清はどうしても小雨に引けを感じてしまう。
小雨は景清に懐いてくれるのだが、父親として接してやれない。
どう接してやればいいかもわからない。
それではいけないと校長が、小雨のいる釣り研究部の新顧問を斡旋してくれた。
入試で次席だったとはいえ、口の利けない小雨の入学を許してくれた大恩に報いるためにも、今回の釣行で少しは親子関係を深められるといいのだが……。
「あっ先生、そこ曲がってください」
元・海釣り研究会部長で現・釣り研究部長の榎原藍子が道筋を指示してくれる。
いまは亡き景清の父親が使っていた業務用軽ワゴン車には、カーナビが装備されていなかったのだ。
本来なら助手席の小雨が案内すべきだろうが、喋れないので後部座席の生徒たちがスマホでサポートしてくれる。
いや、それなら榎原が助手席についた方が効率がいいに決まっているのだが、気を利かせて小雨に席を譲ってくれたのだろう。
空気の読める子供たちである。
磯子の海釣り施設に到着し、駐車場にワゴン車を止め、景清は杖を出してドアからそっと降りて窓口に向かい、窓口で五枚入りの回数券を購入する。
交通事故のせいで人口股関節が入っているため、昔のように自由には歩けない。
さらに生殖器と脊椎も損傷し、性機能と性欲まで失っている。
いや、そのおかげで女子校の教師になれたし、華鐘と小雨を家族にできた理由の一つでもあるので、悪い事ばかりではなかったのだが……。
「足元に気をつけてください」
榎原が景清を含む全員に注意を促す。
ケーソン上に築かれた高いデッキには金網が敷かれ、中央にはカートやキャスターつきクーラーボックスを走行させる金属製の縞板が張られている。
しかしスニーカーなら平気で歩ける縞板だが、杖先が滑りやすく、景清には濡れた石材タイルにも匹敵する危険な足場であった。
もちろん金網は杖が使えないので論外だ。
「これはベンチで見学かな?」
短距離なら杖がなくても歩けるが、長時間の立ちっ放しは辛いものがある。
「この辺りを釣り座にしましょう」
部長の榎原が宣言する。
入り口からそう遠くない。
売店は入り口の傍、トイレはL字型になった施設の角に存在し、榎原が選んだ釣り座は、トイレと売店の中間くらいの位置だった。
人気がなく、景清の足を心配して遠慮したのかと思ったが……。
「ここはウミタナゴがわんさか釣れるんですよ。足元を探ればイシガニもイケます」
心配していたのは景清の足ではなかったらしい。
いくらでもいて常に仕掛けをつついてくれるウミタナゴなら、海釣り初心者の元・川釣り部員たちも楽しめると考えたのだろう。
「たまにムラソイなんかも釣れるんですよっ!」
海釣り研出身の支室百華も太鼓判を押している。
「本当は角向こうの方が色々釣れるんですけど、あっちは混んでるし、流れが速いから避けてるんです」
それは景清も昔、釣りを嗜んでいたので理解できる。
釣り座が狭いと隣のウキが流れて来たりして、結構ウザいのだ。
当然ながら隣人とのトラブルも絶えず、あまり初心者向けとは言えないだろう。
「チョイ投げでイシモチなんかも狙えるんだよっ!」
なるほど、ここは不人気だが穴場らしい。
タックルバッグを開けて道具と竿の準備をする釣り研部員たち。
部活なので制服着用だが、釣り座には高めの手摺があるので救命具の必要はない。
それでも元・海釣り研たちは磯釣り用のフローティングベストを着用しているが、これはポケットやポーチを活用するためだろう。
元・川釣り部員たちもバス釣り用のゲームベストを着ている。
救命具を用意していなかったのは景清だけだ。
「……これは教師として恥ずかしいな」
近日中に新しいのを買った方がいいだろう。
「そうそう先生、これあげるねっ!」
支室に赤いお守りを手渡された。
「磯鶴神社?」
彼女たちが昨日まで共同合宿を行っていた場所だ。
確か磯鶴高校の釣り研究部長が神社の子だったので、その時にもらったのだろう。
「小雨さんと和真部さんもどうぞ」
榎原が配って歩いていた。
磯鶴高校との合宿は、陸女のお家騒動で中断されてしまったので、また合宿を企画するのもいいかもしれない。
あちらの顧問とは昨日SNSで相互フォローしたばかりだ。
船釣り部の女性顧問教師との連絡も取れたので、そちらも誘ってみるのも手かもしれない。
「…………んっ」
準備を終えた小雨が、予備の竿を景清に突き出した。
「僕に……釣りをしろと?」
見覚えのあるシーバスロッドだった。