序章・その二
「ところで八尋、その耳はどうした?」
魔海対策庁の釣行船、速安宅【月長】の後檣楼にある蕃神用食堂兼会議室にて。
水汲みバケツの水面を鏡の代わりにして、自力で弥祖皇国に転移してしまった稲庭八尋は、なんだかんだで宝利命の上腕二頭筋にぶら下がっていました。
「耳? ……あれ?」
ぶっとい腕から降りて側頭部に手を当てると、耳がついてません。
「髪も妙な色が混ざっておる。そこに姿見があるから見るがよい」
壁に大きな鏡が設置されています。
それを覗いてみると……。
「…………????」
鏡に映った八尋の頭に、立派なネコミミが生えていました。
「あれぇ……なにこれ⁉ わあこれ動くよ!」
しかも頭髪が三毛になっています。
「尻も見よ」
袴の後ろが、大きい方を漏らしたようにモッコリと盛り上がっていました。
「ぜんぜん気づかなかった……」
普通は着替えの時に気づきそうなものですが、和服の着つけに慣れない八尋は、お尻に違和感を持ちながらも『あとで誰かに直してもらえばいいや』と、脱衣所を飛び出してしまったのです。
「宝利……これ、ひょっとして尻尾?」
「考えるまでもあるまい。どれ、丸まった尻尾を下に伸ばせば……いや姉上に頼もう」
いまの八尋が女の子なのを思い出し、宝利は伸ばそうとした手を慌てて引っ込めました。
「やっぱり自分できちゃったのがマズかったのかな?」
蕃神は魂魄だけの召喚で、肉体は海水を使って再現しています。
つまりこれは素人の異世界転移で起こったエラーのようなもので、帰ればきっと元に姿に戻れるはず。
そう思った八尋はネコミミ程度で動じたりはしません。
むしろ歩たちがやってきてからの方が問題です。
きっと耳の毛がハゲるまで、いえ耳がもげるまでナデナデされるに違いありません。
「自力できたと申すか⁉ 姉上の召喚抜きで⁉」
「玉網さんは準備中だったよ?」
「なんてこった……」
ただせさえ、なにをしでかすかわからない八尋が、さらに制御不能になったと呆れる宝利命。
「でもこれって、また帰れなくなっちゃったりするのかな?」
異性一卵性双生児でXXY遺伝子を持つ八尋は、異世界転移で女体化し、そのせいで危うく帰れなくなるかもしれなかったのです。
その時はヒラさんの歯がマーカーになって、無事に元の世界へと帰還できたのですが……。
「その確認はあとにしてくれ」
宝利命は三毛猫八尋の可愛さに、鼻の下を盛大に伸ばしています。
もう少しだけ眺めていたいなあ、とか思いながら。
「そっか、悪樓釣りもあるし、帰るのはいつでも試せるもんね」
問題を後回しにしただけなのに、楽天的な八尋は、なぜか安心してしまいました。
宝利命が慌てず騒がず落ち着いているせいもあります。
安心したら、尻尾でモッコリなお尻が気になってモゾモゾしました。
「…………!?!?」
と、突然その動きが止まりました。
「どうした?」
「生えてる……」
八尋は泣きそうな顔をしています。
「あとで姉上に神官用の服をもらえ。尻尾を出す穴が開いておる」
宝利命の真っ黒な袴にも穴があり、豪華な陣羽織の裾間からフサフサの尻尾が生えています。
「そうじゃなくて、ちょっとアレが……」
振り返った八尋は股間を指差しています。
「生えちゃった」
「…………なんだと⁉」
自力で異世界転移に成功した八尋は、ネコミミ人間になった代わりに女体化せず、男性のまま顕現してしまったのです。
普段は男の子で、異世界にくると女の子になる八尋が、今度は男の子に。
ややこしい子です。
ただし下の毛は生えていません。
生えてくれませんでした。