第二章・パヤオ・その三
『みんな十時の方向にちゅうもーく! そろそろ出るってさ!』
前檣楼の頂上にある防空指揮所にいる抄網媛の指示で、飛行甲板の端から空中をを見つめる一同。
甲板には鉄の装甲板とコンクリートでできた縁があり、堤防のように釣りやすくなっている。
そしてただ一人、景清だけは我が子の顔を見ていた。
「眼鏡がないのは新鮮だな」
景清と同じく、小雨も視力が回復している。
これがオタクなら『眼鏡を外すな!』と文句を垂れるところだが、血が繋がっていなくても、我が子なら眼鏡の有無に関係なく可愛いものだ。
あと生徒の中で一番巫女服が似合っている。
「……………………」
さすがの小雨も、初めての悪樓釣りに備え、真剣な目で神楽杖を構えていた。
緊張を隠せないのがいいと思うのは、親の欲目だろうか?
その時、空中に一点の光が現れ、黄緑色の光が広がり始めた。
「あれが魔海か……」
海上に出現するという魔海。
一部例外はあるらしいが、今回はその例外に相当しなかったようである。
大きすぎて全長がわからない。
海面に沿って湾曲しているのか、魔海の果てが水平線に隠れて見えないのだ。
『半径六キロだってさ。大きいね』
「やけに正確だな」
『月長にいる姉上が、周囲の神気場を捉えてるからね。魔海の中は見えないけど、アレは神気の真空領域に発生するから』
「天気予報のようなものか……」
もう少し高い位置から見たいものだ。
「ちょっとそっちに行っていいか?」
抄網媛のいる防空指揮所なら全貌が拝めるかもしれない。
『いいよー。でも先生だけね』
「ええ~っ⁉ 先生ずるい~っ!」
文句を言う支室を無視して前檣楼に向かう景清。
「あそこまで登るのか……」
本来の壊れた肉体なら諦めるところだが、いまの若い体なら駆け上れるかもしれない。
そう思って一歩踏み出すと……。
「わあっ⁉」
空中に投げ出された。
「なななな何だこれは⁉」
不規則回転しながら、藁にも縋る思いで両手を振り回す景清。
そして防空指揮所の後ろにある測距塔の梯子に引っかかり、ようやく止まった。
「いきなり跳んじゃ駄目だよ先生!」
梯子に掴まったまま宇宙遊泳にようにフラフラする景清を、お姫様だっこで捕まえる抄網媛。
「妾は空中で方向転換なんてできないから、艦から飛び出しても助けに行けないよ!」
その抄網媛は測距塔の側面に足裏を貼りつけて、景清を抱いたまま横向きに直立している。
「これが神力……?」
跳べるとは聞いていたが、まさか上を向いて歩くだけで跳ぶとは思わなかった。
スキヤキどころの話ではない。
翡翠はまだ魔海に接近していないので、飛びすぎたら何百メートルも下の海面に叩きつけられていたところである。
神力を使えばバリヤーのような障壁も張れるらしいが、いまの景清に使える保証はどこにもない。
「すまない、助かった」
「先生は他の蕃神様より神力が強いみたいだね。ひょっとしたら妾よりも……」
「……まさか三人分か?」
「何それ?」
そういえばヒトキメラについては生徒たちにしか話していない。
「その話はあとにしよう。少し長くなるんだ」
下手をすると遺伝子の講義から始める必要があるかもしれない。
あと三倍キックは神官服が赤と茶色の抄網媛に一任したい。
「そっか。じゃ、とりあえず先生は吸着の練習に専念しようね」
景清を抱いたまま防空指揮所まで歩き、ふわりと降ろす抄網媛。
「吸着の制御をしながら階段を……?」
まるでマジックテープの靴底で通路を歩く宇宙飛行士のようである。
無重力よりはマシだが、これなら杖をついて歩く方が楽かもしれない。
……いや杖は階段を上るより、下る方が遥かに難しいのだが。
「それは後で考えようね。とりあえず魔海はあっち」
指差す先には黄緑色に光る異空間が。
まるで海を四角く切り取ったような空間で、上面は波が立って白い稜線まで見える。
高い防空指揮所でようやく見渡せる魔海の全貌。
「ほぼ円形だな。だが……」
魔海面の中心に、船釣りで見慣れた人工物がプカプカ浮いていた。
「何で異空間にパヤオがあるんだ⁉」
ただし百倍スケールなので、直径数百メートルもある巨大建築物と化している。
「最近、魔海が常世から流れて来るってわかったんだ」
弥祖皇国では蕃神たちの世界を常世と呼んでいる。
「あれが⁉ 大きすぎるぞ!」
「前回、常世の漁船が迷い込んだんだ。無人だったけど、常世の文字で船名が書かれてたってさ」
「常世の文字?」
景清は翡翠で見た文字を日本語だと思っていた。
「蕃神様は弥祖に来ると、言語が変容するらしいよ。こっちは蕃神様の知識を元にした言葉を使ってるから、いままでわからなかったんだ」
「その船は変容していなかったのか」
「大きさ以外はね。ところで先生、あれが何かわかる? パヤオって何?」
「浮漁礁だ。回遊魚を集めて漁業の効率を上げるものだが……ライトブイかもしれないな。標識として現在位置を知らせる灯台のようなものだ」
どちらも似たようなもので、一介の釣り人に過ぎない景清には見分けがつかない。
「標識? そっか、錨で係留してるんだね?」
車両などの設計も手がける巻網媛はメカに強い。
「これで今回のターゲットは決まったな。あの下に集まる回遊魚だ」
「何がいるの? イワシ? それともサバかな?」
「もちろんいるだろうが、おそらくブリなどの大型アジ科魚類やシイラもいる」
どれも一メートルを超える大型回遊魚……いや悪樓なので百倍スケールの百メートル強。
抄網媛と翡翠の推定限界値を超える大物悪樓が集まっている勘定である。
「あとは中を探らないとわからないな」
「そっか。じゃあ月長の玉網姉と相談してみるよ」
悪樓釣りに関しては姉の方が上らしく、月長は翡翠より大型で大物釣りに適している。
「となると、こっちはベイト(大型回遊魚のエサになる小魚)担当か」
「魔海じゃ、あんまり小さいのは幻影しかいなかったりするよ?」
小魚や海藻、海底地形などは魔海の一部でしかないものが多い。
いや小魚だけの魔海なら、小魚の悪樓がいるものだが、今回は大型の青物悪樓の存在が見込める大規模魔海である。
「たぶん釣れるのは二十メートル以上、サバより大きい悪樓だけだろうね」
「サバだけでも結構いそうだな」
「どれくらい?」
「幻影の小魚が数万尾と仮定すれば、数百尾はいる可能性がある」
「気が遠くなるね。適当なところで切り上げるように、姉上に進言しておくよ」
ブラック上司の玉網媛が素直に承諾するかは甚だ疑問であるが、景清にそれを知る術はない。
「それはいいが、どうして接近しないんだ? 海面スレスレで停止した方が、釣りには都合がいいんじゃないか?」
「それがね、前回それやってロウニンアジに襲われたんだ」
ロウニンアジは最大百八十センチにもなる大型アジ科魚類で、重量は八十キロにもなる。
悪樓なら百八十メートル、重量は八万トン。
月長より全長こそ小さいが、重さは四倍以上で戦艦大和を超えている。
「それは……物理的に釣れないんじゃないか?」
月長はもとより、排水量(重量トン)が一万トンにも及ばない翡翠では話にもならない。
「妾はいなかったからよく知らないけど、逃げ回るのが精一杯だったみたいだね」
ロウニンアジは海面で休む若鳥を襲う習性があり、離陸中でも海面をジャンプして捕食できる能力がある。
呑気にフワフワ浮いていたら、全長百メートル超える翡翠でも襲われる可能性があるのだ。
そして海面スレスレを飛ぶ生物を捕らえる大型魚類は、ロウニンアジだけではない。
「あっ、歩ちゃんが探りを入れるってさ!」
景清たちには繋がっていない月長の通信を捉えた抄網媛。
月長の甲板を見ると、金髪の少女が神楽杖を振って宝珠の魚を飛ばしていた。
……海面スレスレを低空飛行で。
「メバチマグロ? まさかトビウオの代わりか⁉」
宝珠の魚は十倍サイズなので、トビウオでは小さすぎると判断したらしい。
「食いついてくれるといいが……」
翼の代わりになる大きなヒレがないので、トビウオのように安定した飛行はできず、クルクルと回転しながらの飛行である。
そして魚は不自然な動きをするルアーに見向きもしないものだ。
「おっ!」
回転しながらの飛行がキラキラした反射を生み出し、悪樓の食欲を誘引したのか、海面に反応があった。
まずマグロの後ろに一尾。
追跡を途中で諦めたようで、残念ながら姿までは確認できなかった。
そしてマグロの行く先に一尾。
先回りして食いつこうという算段だろうか?
海面からジャンプして、マグロを頭から捕食する悪樓。
「シイラだ!」
これも海面を低空飛行するトビウオを先回りして捕食する習性がある。
「でかいぞ!」
食った魚に鈎と見えない糸があると知り、シイラ悪樓はたちまち大暴れを始めた。
百倍スケールなだけにスペクタクルな光景である。
「もうほとんど怪獣だな」
「うわーよかった近づかなくて。あんなのと衝突したら艦がバラバラだよ」
ホッとする抄網媛。
翡翠だけでなく、月長でも大破轟沈しかねない。
「あれは僕たちの手には負えんな。他を探そう」
「もう少し小さいやつ? 何がいるかな」
「ここは少し暑い。南方ならアレがいるはずだ」
景清は小型通信機のダイヤルを回し、生徒たちに回線を繋げる。
「榎原、支室、ルアーの経験はあるか?」
『いえ、あんまり……』
『やった事はあるけどゴンズイばっかりだったよっ!』
堤防釣りがメインの元・海釣り研究会では荷が重そうだ。
「では和真部、手本を見せてやってくれ。宝珠はサバかソウダあたりがいいだろう」
ソウダガツオは魚長三十~四十センチくらいの中型青物である。
『……了解。タカサゴで行きます』
タカサゴはフエダイ科だが、アジに似た魚形で三十センチほどの魚だ。
早速、神楽杖に宝珠を装着して魚を飛ばす和真部。
悪樓釣りは初めなのに躊躇がない。
バス釣りメインの元・川釣り研究部の本領発揮であった。
『ん~~~~っ!』
小雨からクレームが入った。
「お前は釣りを始めて二か月しか経ってないじゃないか。和真部のを見てからにしなさい」
『…………むぅ~~~~っ』
小雨は背中を向けているが、膨れっ面もさぞかし可愛いに違いない。
「抄網君、取り込みの準備を頼む」
「一投目でいきなり?」
「あの子はルアーの名手だ。喋っている暇はないぞ」
「そりゃ大変。急がなくちゃ」
服は赤いが真っ白な髪を持つ抄網媛が、神力ジャンプで前檣楼と後檣楼の中間にある格納庫の上面に向かう。
アンテナ線の隙間を縫って飛行する、なかなかの腕前であった。
「慣れれば僕もあんな風に跳べるのか……いや、やめておこう」
練習もせず、どこに飛んで行くかわからないジャンプなど、そうそうアテにできるものではない。
「さて、僕もそろそろ……おっ?」
和真部にヒット。
あの引きはおそらく……。




