序章・その一
「我慢のしすぎですね。よくない兆候が出ています」
魔海対策庁長官にして内閣主席宰相夫人の巻網媛、正確には臣籍降下で皇席と【媛】の称号を放棄した皇姉の柑子巻網は、妹の投網皇と御典医の診察を受けていました。
病院ではなく、わざわざ皇居までやってきたのは、一般の産婦人科では神力の強い皇族たちの診察ができないからです。
特に弥祖皇国でも規格外の神力を持つ巻網媛は、皇族専門の宮内省病院ですら手に余る難物でした。
しかし投網皇なら体内神気を読む力に長け、医術の心得もあります。
そのため御典医と共に、妊娠初期で不安定な巻網媛の主治医を買って出たのでした。
「姉上は辛抱が苦手ですからね」
赤サビあるいは鼈甲と呼ばれる、複雑な柄の髪と尻尾を持つ投網皇は、巻網媛のお腹にそっと手を触れました。
「あまり溜め込むと、お腹の子に障りますよ」
投網皇はすでに六人の子を儲け、現在も七人目を妊娠中の大ベテラン。
巻網媛もそうですが、漲る神力のおかげか、四十を超えての懐妊を、ものともしない若々しさを保っています。
「今度は使えと申すか。じゃが神力は子によくないのじゃろう?」
巻網媛の耳と尻尾は緊張で垂れ下がっていました。
「それは巻網が妊娠を恐れ、拒んでいたからです。いまは悪しき神気が抜け、むしろ子を守っているようです」
「では神官業務に戻ってもよいのじゃな?」
「ただし……」
「わかっておる。長距離の跳躍はせぬ」
巻網媛は妊娠発覚まで魔海対策庁本庁舎兼本部棟【なのりそ庵】と、夫の寛輔がいる皇都との間を三度の跳躍で通勤していましたが、いまは姪の抄網媛が実家から持ち込んだ小早【蜂雀】を使っています。
蜂雀は醒州海軍所属の快速竜宮船ですが、領主で父方の伯父である世羅家当主を、三階から五階上の屋根裏部屋まで突上打でぶっ飛ばした傍若無人な武勇伝を持つ巻網媛に逆らえる人物が存在せず、魔海対策庁で好き勝手に使われていました。
いずれ国軍に接収され、乗組員の順次異動が行われるでしょう。
「蕃神様の召喚や悪樓の取り込みがお薦めです。でも飛んだり跳ねたり殴る蹴るといった乱暴はいけません。なにがあってもご自重ください」
「約束はできぬ」
巻網媛は目の前に邪魔なモノがあると、無意識かつ反射的に殴り飛ばす癖があるのです。
「それはそうと、お楽しみの採血ですよ」
隣でキジトラ柄の御典医が、ぶっとい注射器を持ってニコニコしています。
巻網媛の垂れ下がった尻尾が、恐怖で激しく揺れました。
「注射嫌いは相変わらずですね」
常時無表情の巻網媛ですが、つき合いの長い夫の寛輔と投網皇だけは感情を読み取れます。
「もっと力を抜いて、お心を平らかに……」
幼子のように宥められ、巻網媛は目をギュッと閉じて大嫌いな採血に臨みます。
「終わりましたよ」
目を開けると、注射針はとっくに抜かれていました。
「う……うむぅ」
「ところで巻網、先ほど内閣から連絡があったのですが、翡翠の改装が終了したそうです」
翡翠は所属魔海対策庁の釣行艦ですが、所属と運用は国海軍にあるので、その連絡は真っ先に投網皇の元へと届きます。
「思うたより早う済んだのう」
主砲塔の撤去と、蕃神召喚に使う祭儀室の設置、そして左右の飛行甲板や伝馬船用格納庫の改造に、前檣楼と後檣楼の近代化。
それらの改装に、本来なら少なくとも半年を要するはず。
「すでに準備されていた実験装備を流用したそうです。おかげで仏法僧の改装と、醒州への売却予定が狂いましたが、あちらも釣行艦への改装を望んでいるとのお話ですし、それほど問題にはならないでしょう」
醒州は工業国で軍用竜宮船の生産も行われていますが、得意分野は小早などの小型艦艇で、関船や安宅船といった大型艦艇は、本国で生産されたものを購入していました。
仏法僧は最新型の関安宅ですが設計は旧式で、近日中に設立される魔海対策庁醒州支部に回した方がよい、との意見が出たようです。
「翡翠の実働実績を元に、改めて仏法僧の装備を作り直す気じゃろうか?」
交換で撤去された翡翠の飛行甲板に、さらなる改良を施してから、仏法僧の改装部品に流用するのでは、という意味です。
「そうでしょうね。仏法僧は祭儀室を設置次第、醒州に送るそうです」
本格的な改装は後回し。
新装備が完成するまで、仏法僧は魔海対策庁醒州支部で、魔海釣行の実績を積む事になるでしょう。
「翡翠ですが、釣行向けの装備もあるようです。急ぎ仕事でしたので、大したものではないそうですが」
「そうか。それで少しはましになるとよいのじゃが……」
翡翠は平衡の悪さが特徴の実験艦です。
「それはそうと巻網、実はもう一本あるのです」
御典医がニッコリと微笑みながら注射器を取り出します。
「……ぐぬぅ」
巻網媛の尻尾が総毛立ちました。