第60話 黒服二人
「朝っぱらから御機嫌な挨拶の仕方だな。おかげですっかり目が覚めたぜ」
カズンは背後に立つ魔女エマノンに嫌味ったらしく軽口を叩く。その口以外のカズンの神経は、エマノンが指を突きつけた後頭部一点に集中していた。
直撃すれば無事では済まない雷撃を打ち出す雷雲の魔女の指。死をも予感させる凶器を突きつけられて、それを警戒しないはずもない。
エマノンはカズンの内心に抱いた緊張を見透かしたようにクスクスと笑う。
「それは結構。お姉さん、真っ黒君とはちょっとお話したかったの、ね。キミに寝惚けられてちゃお話にならなかったわ」
そう言ってエマノンがカズンに突きつけた指を引く。それと同時にカズンは跳ねるようにエマノンから飛び退き、振り返りざまにコートの内に潜ませたボウガンに手をかける。
そんなカズンの所作に、エマノンがもう一度笑う。
「心配しないで、ね。昨日はお互い殺伐とした出会い方をしちゃったけど、私はキミ達を敵に回す気はないんだから、ね」
「ひとんトコの猫かっさらっておいて言える台詞じゃねぇな」
カズンに向けられた笑顔に邪気が感じられないとは言え、彼のエマノンに対する警戒心は解けない。猫助とサプラス夫人の愛猫カトリーヌは魔女の手にあるのだから。
カズンの指摘にエマノンが痛いところを突かれたと笑みを苦らせる。
「そ、それは、事故と言うか……。私も予想していなかったのよ、ね」
ならば猫二匹をすぐにでも返すのか。カズンがそう問おうとするよりも早く、エマノンは踵を返し入ってきたばかりの冒険者ギルドの扉を開く。
「お、おい……」
「これでも一応名前だけは有名人だから、ね。あまり人の多いところは苦手なの」
エマノンは振り返り、当惑するカズンに一度小さく手招きするとギルドから逃げるように外へ出る。
高名な雷鳴の魔女を自負する女。その名が偽りであったとしても、昨晩起きた倉庫街での騒動の重要参考人。人目が気になるのは正直なところなのだろう。
(ついて来いってか……俺まで連れ去る気じゃねぇだろうな)
エマノンの思惑通りに動く事には些か抵抗のあるカズンだったが、彼女の元に猫助達がある以上無駄な抵抗は得策では無い。カズンは魔女を追って足早に外に出る。
黒コートをはためかせギルドを出たカズン。カズンが周囲を見渡せば、朝日の中で一際黒いローブが軽快に裾を揺らしながら通りを闊歩し始めていた。
一向に歩む速度を緩めないエマノンに、カズンが半ば駆け足で追いつく。足音で察したのか、エマノンが背後に辿り着いたカズンをチラリと見た。
「時に真っ黒君。本筋の話とは別で聞いておきたい事があるんだよ、ね」
「いいかげん、その真っ黒君ってのヤメにしねぇか?」
「真っ黒君。キミは猫が何を食べるか知らないかな?」
カズンの提案は聞き入れられなかったらしく、エマノンは本筋とは別と前置きした問いをカズンに投げかけた。唐突と言えば唐突なその内容に、カズンが眉根を寄せる。
「んあ? 知らねぇよ。んなもん、猫に聞いたらどうだい、雷雲の魔女さん?」
「それができればやってるよ、ね。大魔女にも出来る事と出来ない事があるの。大体、あの猫二匹は真っ黒君かキミと一緒にいたお嬢さんの飼い猫でしょ? 知らないって返答は、お姉さん的にはどうかと思うなぁ」
カズンの返答に肩をすくめて見せる魔女エマノン。彼女の唐突な質問に合点がいったカズンは、伝説の大魔女の意外な弱みに思わず笑みをこぼした。
「御伽話じゃあ国一つ滅ぼしかねないような大魔女が、うちの猫二匹の世話に手を焼くとはね」
「生意気な黒だなぁ」
「いや、からかって悪かった。ちゃんと答えるから、その略称はやめてくれ」
愛称を通り越して単色でしかないエマノンの呼び方に、カズンは苦い笑みと共に謝罪する。そんなカズンから笑みを奪って付けたようにエマノンが笑った。
「そうそう。素直が一番よ、真っ黒君」
「結局名前では呼ばれずか。まあいい。猫助……あー、オスの三毛猫のほうな。あっちはサンドイッチが好きだ。中の具材は魚がいいな。灰色のチビはカトリーヌってんだが、あいつが普段何を食っているかは知らんね。何せあいつはサプラス家の飼い猫で、あの時はたまたま付いてきてただけなんだから」
「サプラスって、この町の商人の?」
カズンの言葉にエマノンが僅かに驚いて返し、彼女の反応にカズンもまた意外そうに彼女を見返す。
「なんだ、知ってたのか?」
「会った事はないけど情報だけなら、ね。お金持ちなんでしょ?」
「だな。あのチビがちょっと屋敷を出ただけで夫人が血相変えてギルドに捜索依頼するようなところだから。チビも普段はいいもん食って……って、おい人の話聞いてるか?」
冒険者ギルドを出て以来、終始カズンの前を歩いていたエマノンが不意に向きを変えて脇道に入る。カズンは抗議しながらも彼女に続いて脇へと折れた。
三つ葉都市シャルワンの大通りから葉脈のように無数に伸びる道の一本。夜が明けて朝を迎えたとはいえ、陽射しは脇道の一本一本までその勢力を伸ばしきれてはいない。朝日を浴びた大通りを歩いていたカズンには、脇道が尚更薄暗く感じられる。
目を細めるカズンの先、脇道に入って数歩のところでエマノンは壁に背を預けてカズンを見た。
「アドバイスをありがとう、ね、真っ黒君。さて、ここからが本題なのだけど……」
話を切り出す魔女の表情は先程までと同じ微笑。
彼女の笑みは友好を示すものではない。昨晩倉庫街で初めてエマノンと遭遇した時も、その後の戦いでティファを窮地に追い込んだ時も、彼女はこの笑顔を保ちながら戦っている。ましてや、猫助と灰色子猫カトリーヌが彼女の手元にある状況で、猫の餌について問うからにはすぐに手放す気もないのだろう。内に秘めた思惑の全てを隠す魔女の笑顔。
カズンはエマノンの対面の壁にもたれ、彼女の言葉の続きを待った。
これからエマノンが口にするあろう話は、誘拐犯としての要求。カズンは彼女を前にして唾を飲んだ。
「このシャルワンから北に少し行ったところに幽霊屋敷と呼ばれる場所がある。いや、あったと言ったほうがいいかな。もちろん、キミは知っているよ、ね?」
「ああ、今は亡きレグ・ルーデン卿が別荘として建てた屋敷な。今となっちゃあ、瓦礫の山だがよ」
エマノンの言うとおり、カズンは屋敷と聞いてすぐに思い当たった。同時に、彼女はカズンが屋敷に起きた出来事に関わっている事も知った上で聞いたのだと悟る。
幽霊屋敷こと故ルーデン卿別荘地。持ち主であったレグ・ルーデンはバレイン崇拝者の過激派のパトロンと噂された人物。ルーデン卿亡き後、屋敷に出没したという亡霊の噂。カズン達が屋敷で遭遇した謎の人物。倒壊した屋敷の地下で発見された頑強な封印。
カズンの眼前の魔女が件の屋敷の何に興味を抱いているかは、まだ知れない。どの情報が取引の材料になるかわからないうちから手札を見せる気は、カズンには無い。
「で、キミはその瓦礫の山に変えた関係者の一人、ね」
カズンを指して言うエマノンに、カズンは眉根を寄せた。
「……なあ、アンタ。その情報はどこから仕入れたんだ?」
「硝子の斧って名前だったかしら? 武器屋のオジサンよ。結構な額を払わされたわ」
魔女の回答にカズンは溜息をつきながら「あのオヤジめ……」と呟く。
確かに、幽霊屋敷に向かう前に、武器屋で屋敷に向かう話をエニー達としている。武器屋の店主はそれを聞いて覚えていたのだろう。
「確かに関係者だが、できれば目撃者と言ってくんねぇかな。アンタが屋敷に縁のある奴で、屋敷が壊れた事を残念だと思うなら同情の一つもするが、別に俺が屋敷を壊して回ったわけじゃねぇんだ」
「ご心配無く、何もあの屋敷が壊れたことについて糾弾しようってんじゃないのよ。直接あの屋敷に縁があったわけでもないし、ね。むしろ、壊れて人の噂に上がったからこそ、こうしてキミへの道が繋がったのよ、ね」
エマノンはそう言って僅かに俯いてしばらく考え込む素振りを見せる。そして、やがて何事か結論が付いたらしく一度頷き、改めて様子を窺うカズンを見た。
「これは失礼。真っ黒君の事は関係者ではなく目撃者と言うべきなの、ね?」
「ああ、そうだな」
エマノンに頷いて返すカズン。その答えに満足したのか、エマノンがもう一度頷いた。
「つまり、真っ黒君。キミは屋敷で何かを見たってこと、ね。何を見たの? いや、誰を見たのかしら、ね?」
確認するように尋ねるエマノンの言葉に、カズンは何か余計な事を言ってしまったのだろうかと表情を曇らせる。
「……奇妙な、男にあった」
普段のカズンより幾分ペースの落ちた口ぶりは、妙な事を口走るまいと言葉を選んだが故の事。
奇妙な男。見た目はカズンと同じくらいの年頃で、カズンよりやや線の細い男。外見で一番特徴的だったのが、穏やかな印象を受ける顔の半分を隠していた鳥を模した仮面。そして、魔術と道術の二種類の術を行使する例の少ない能力者。
カズンの話にエマノンは何度も頷き、男の特徴を並べ終えると彼女は小首を傾げる。
「真っ黒君。その男だけど、まるでもう一人いるような独り言を言ったりしなかった?」
「独り言? いや、それは無かったが……あぁ、あれか」
一度は否定したものの、カズンはエマノンの聞きたかった答えにすぐに行き着く。そして、納得顔で物問いたげなエマノンを見た。
「屋敷でやたらと強い霊と一戦交えてな。野郎がその霊を自分の中に取り込みやがった」
その答えこそが、エマノンの求めたものだったらしい。エマノンはそれまでで一番強く頷いた。
「間違いなさそう、ね。真っ黒君が幽霊屋敷で遭遇したのはバニッシュ・デュオ、ね」
そう告げるエマノンとバニッシュの関係は? カズンの脳裏にそんな疑問がよぎる。
魔女エマノンがバニッシュの仲間だとすれば、バニッシュの行動を妨害した者の一人としてカズンも攻撃されるかもしれない。逆に、バニッシュと敵対しているのならば、猫助達を人質に彼と戦う事を強制してくるかもしれない。どちらに転んでも分の悪い話に思えて、カズンは内心うんざりした。
カズンの思いが顔に出たのか、エマノンは彼を見てクスクスと笑う。
「そんな顔しないの、真っ黒君。せっかくの色男が台無しよ」
「元々こういう顔なんだ。ほっといてくれ」
「拗ねないの、ね。心配しなくても、キミにバニッシュをどうにかさせる気はないから」
「……そうなのか?」
エマノンの言葉に少しばかり元気を取り戻したカズン。エマノンは、尋ねて返すカズンを安心させるようにしっかりと頷いてみせた。
「そりゃあそうよ。私が魔女なら、あの男は魔人だもの。キミを差し向けたところで無駄死にさせるだけなのよ、ね」
「……魔人だと?」
さらりと危険な事を言いながら。