#30 Фаэ шалэ фхарк 《麻薬のような怒り》
目覚めは今世紀史上一番と思えるほど悪かった。昨日は三良坂の家に着くまで自分の意識がまるでないかのような状態で歩いていた。この家がどのような家なのかよく分かっていなかった。覚えていることは父親は今日は帰ってこないとか言うことだけだった。三良坂は部屋で一人にさせてくれた。何を考えるのも億劫だった俺は床に座りながらすぐに眠った。昼から今まで寝たということは合計で十七時間くらい寝たということになる。時間だけを見れば過眠だが、俺は未だに眠かった。
そうして、制服の三良坂が座ったまま寝ていた俺を起こしてくれているのが今の状態だった。
「ねえ、とりあえず、学校に行かない?」
「嫌だ。」
否定の言葉に三良坂は悲しげに目を細める。だが、引かない。彼女は再び笑顔をたたえながらこちらを見つめた。
「じゃあ、一緒にブラーイェの止め方を調べたりする?」
「研究ノートは燃えた。俺にはどうしようもない。」
正直彼女の過干渉にイライラしていた。当分一人にしてほしかった。研究ノートは燃え、死んだ家族との繋がりも途切れた。その元凶が何だったのか、大体検討は付く。きっと知事を襲ったのと同じ人間の仕業だろう。気力と体力を取り戻したら、絶対にそれを見つける。放火犯を見つけて、自分のやったことを思い知らせてやる。それしか、頭に上ってこなかった。
三良坂は更にこちらに顔を近づけてきた。完全にやる気を無くした俺を復帰させようと頑張っていた。顔の端々から、何かに駆られたような焦りを感じる。無視してくれれば良いのにと思った。
「でも、ブラーイェが止められたら、皆から褒められるよ!それでシェオタル語で伝承が残されていると極東政府が知ったら、シェオタル語が復権できるかもしれない!」
元気いっぱいの説得に頭が痛くなった。同時にイラつきも増す。床から立ち上がって、三良坂に詰め寄る。彼女は苦笑いして少し下がるが逃さない。俺は彼女の背後が壁になるまで迫り続けた。
「いいか、はっきり言う。もはや研究ノートなんてどうでもいいんだよ。燃えるなり、沈むなり、消えるなりすればいいさ。」
三良坂の顔から笑いが消える。瘧にかかったかのように彼女の体は一回震えた。それと同時に怯えと落ち込みがはっきりと顔に現れた。
だが、呪詛を紡ぐことは止められなかった。風船を割るように、一度針を刺せば全てを吐き出すまで終わることが出来なかった。
「シェオタルさえ残れば言語は復権するんだよ。ブラーイェだか砂像だか知らないが、極東を破壊してくれるなら大っ歓迎だね!奴らは俺の全てを奪ったんだよ。最後に残った家族である姉さえ、あいつらが殺したのに等しい。さらに俺と姉を繋いでいた言語まで殺そうとしている。そのうえ家は燃やされた。俺にどうしろっていうんだよ!」
三良坂は何も答えなかった。表情は怯えから怒りへと変わっていく。彼女は極東人だったことを完全に忘れていた。
だが、それが本心だった。それは世間に認められるはずもないことだ。ブラーイェが極東を消し去り、シェオタルの誇りが復活する場所へとシェオタル人たちを何処かへ連れて行ってくれる。心の奥底にしまっていた乱暴で幼稚な欲望だった。それが怒りとともに表に出てきたのだった。
三良坂は制服のままの俺の襟を掴んで乱暴に彼女の方へと引き寄せた。俺の額に彼女の頭が衝突する。
「極東が滅ぼされて、それでシェオタル語だけが生き残ればそれでよかったの?結局キミは昔の極東と同じことをするんだ!キミの『言葉を守る』って決意はそんなに自分勝手だったんだ!!」
「うるせえ、離せよ!」
肩を掴んで突き飛ばす。額を打った痛みが麻薬のような怒りを増幅させていた。壁に体を打ちつけて彼女は勢い余ってそのまま床に崩れ込む。俯いたまま、彼女は震えていた。俺は容赦出来なかった。誰に俺の気持ちがわかる。極東人はもちろん、今のシェオタル人にも分かるまい。
「自分勝手だと?どちらが自分勝手か、よく考えろ。本土に戻ればぬくぬく暮らせて、母語も奪われない極東人様と目も鼻も口も奪われたシェオタル人とどっちが今の状況で都合が良いんだ?バカか、お前?極東人名物の平和ボケなんて要らないからな。」
歯ぎしりの音が聞こえた。三良坂が顔を上げてこちらを見ていた。口元が震え、涙が一筋頬を伝っていた。強い悔しさが伝わってくる。
「ボクのことを……なんにも知らないくせに……!」
「はっ、何でも知ってるぞ、ミューズリーバー依存症ってことだな!」
「バカ!バカ、バカ、バカぁ!」
三良坂は立ち上がって、部屋を出ていった。乱暴にドアが閉まる。泣く声とどたどたと駆ける足音が聞こえた後、部屋は完全な静寂と化した。望みの通り、一人になれたというのにもやもやした気持ちは全く変わらなかった。何かが足りない――少し落ち着いてきた理性はその欠乏が放火犯への復讐だと結論づけていた。
「……突き止めてやる。」
乱暴に閉められたドアを開ける。玄関に向かって一直線に出ようとしたところ、何かを踏みつけた。足元を見ると、そこには未開封のミューズリーバーが落ちていた。玄関までの床にミューズリーバーは三つ落ちていた。きっと彼女が家を出ていったということを表しているのだろう。
俺はそんな彼女の残り香を無視して、玄関を開けて出ていった。




