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昼食を済ませた紗夜は、屋敷の玄関ホールでマルガレーテ侯爵夫人と向き合っていた。
「サヤ体調は、悪くありませんか? 頭は痛くない? 目眩や立ちくらみはない? 調子が悪くなったらクレアに言ってすぐに帰って来るんですよ。ああ、心配だわ、やっぱり私も付いて行こうかしら……」
マルガレーテは、胸の前で手を組みながらオロオロしていた。
――なんか、初めてのおつかいに送り出すみたいになってる。私はこの世界では、初外出だけど……。えっ! エリザも初めてってことは、ないよね⁉︎
「マルガレーテ母様、落ち着いて下さい。体調はすこぶる良好ですよ」
紗夜は、チラッとマルガレーテを伺いながら彼女の両手をそっと包み込んだ。
「でも、今まで街に行く際は、家族揃ってでしたもの。クレアが付くとしても貴方だけで行かせるなんて……。ああ、せめてソルラントが居れば同行をお願いしたのに!」
――おっと、ある意味当たってるぞ。最近、嬉しくないことばかり当たってる気がする……。
つまり、エリザは、身内がいない状態で出掛けたことがないと……。
「ソルラント兄様は、お忙しい方ですから」
――いやー、王国騎士団団長の任に就いてるって聞いた時は、驚いたよね。
詳しい職務内容は、知らないけどすごい役職だというのは、なんとなく分かる。
「クレアもおりますし、本屋以外に寄る予定はありませんので、すぐ帰って来ます。なので、そんなに心配なさらないで下さい」
ひとまず今は、マルガレーテを納得させなければ紗夜は、いつまで経っても街に行けない。
「……分かったわ。わたくしは家で待っていますので、サヤもクレアも気を付けて行くんですよ」
紗夜の説得によりマルガレーテは、しぶしぶ引き下がった。
「ええ、行ってきます。マルガレーテ母様」
「はい、サヤ様のことは、お任せ下さい奥様」
紗夜とクレアが馬車の中に乗り込む。クレアが紗夜と一緒に中に乗るのは、侯爵夫妻からの命だ。道中、紗夜の不調にすぐ気付けるようにと。
マルガレーテは、御者に「頼みましたよ」と一声掛けた。御者が返答し、馬車が動き出す。
紗夜は、窓からマルガレーテに小さく手を振った。
「心配してくれるのは、嬉しいけれど、一瞬今日はもう出掛けられないんじゃないかと思ったわ」
紗夜は、背もたれに深く身体を預けた。
「ふふ、それだけサヤ様が大切にされているってことですわ。街までは、馬車で二十分ほどですので」
クレアは、紗夜とマルガレーテがやり取りしている時から終始笑顔を浮かべていた。
「楽しみだわ。クレアは、街に行ったことあるの?」
「こちらに来てからまだ日が浅いので、二度ほど奥様に頼まれた品物を受け取りに行っただけですね。」
クレアは、他国出身の為アンファングターク王国の城下街には、まだ数えるほどしか行ったことがなかった。
「今日寄るのは、本屋だけだからゆっくり見て周ることは出来ないわね。またジョルジュ父様に次の外出許可をお願いしましょう。成功したらクレアも一緒に出掛けましょうね」
「はい、楽しみにしております」
その後も二人は、たわいもない話しをしながら街に着くまでの時間を過ごした。
***
――アンファングターク王国城下街。
大小様々な建物が立ち並び、街には活気が溢れていた。少し見渡しただけで果物屋にパン屋、仕立て屋と色々なお店がある。老若男女が行き交い人々が伸び伸びと生活している様が伺える。
――うわぁ! 見たことないモノだらけ! あっ、リンゴみたいなのもある! あっちの仕立て屋にある布は、なんか光ってる!
紗夜は、あちこちに顔を向けた。
「それじゃあ、私はこちらで待機しておりますので、サヤお嬢様のことお願いします」
「はい、用を済ませたらすぐ戻りますね」
その間にクレアと御者が話しを済ます。
「お待たせしましたサヤ様」
「ハッ! 珍しいモノばかりで思わず目移りしてしまったわ」
紗夜は、気を取り直してクレアと本屋に向かった。
喧騒から外れた少し奥まった場所に、その建物は建っていた。看板らしきものには、魔法なのか、本が永遠と捲られていく様子が表されている。
クレアが引き戸をゆっくり開けると、そこはまるで別世界だった。
「ワァー!」
紗夜は、小さく感嘆の声を上げた。
吹き抜け3階建ての広い店内は、どの階にも壁一面に本がビッシリと並んでいる。店内の左右には、それぞれの階を繋ぐ為の階段が真っ直ぐと伸びており、照明の明かりは抑えられているのか、淡い光が店全体を照らしていた。
――映画の中にいるみたい!
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
眼鏡を掛けた男性店員が紗夜達に声を掛けた。
「こんにちわ。初めて来たのですが、この国や世界の歴史書、世界情勢を取り扱っている本は、どの辺りにありますか?」
――さすがにこの量の中から目当ての本を見つけるのは、至難の業だからね。聞いた方が早いわ。
「それらの関連本は、3階ですね。ご案内しますのでこちらにどうぞ」
紗夜とクレアは、店員に案内されるまま階段を登った。案内される道すがら紗夜は、本棚に並んでいる題名を流し見ていた。
――『愛の魔法料理』、『魔法武具大全集』、『魔法で体力づくり』。魔法関連の本が多いなー。
『僕の兄が魔法で姉になり女神と結婚した』
って何この題名! 内容物凄く気になるんですけど!
後でまた確認しようと紗夜は、本棚の場所を覚えてから店員に置いていかれないように歩みを進めた。
案内された場所には、様々な国や地域に関連する書籍が並べられていた。紗夜は、目ぼしい本を見つけては、パラパラとめくった。
――へぇ、この世界は、精霊魔法が主なんだ。そういえば、ソルラント兄様から借りた本や説明書に、アンファングターク王国は精霊の加護を受けているって書いてあったなぁ……。
紗夜は、いくつか気になった本の中から五冊ほど見繕った。その際、先に目を付けていた例の気になる本もきちんと含むことを忘れない。
会計を済ませると紗夜は、それらを両手で抱えた。
「サヤ様お荷物でしたら、私が持ちますので……」
クレアがドアを支えながらオロオロする。
「ごめんなさいクレア。少しだけ私に持たせて、お店を出たらちゃんと渡すから」
――自分で持っていたいけど、それでクレアの立場が悪くなるのは嫌だからね。
あとは、帰るだけと紗夜が店を出る。少し後ろで、クレアが丁寧にお店のドアを閉めた。クレアが紗夜に近付こうと足を踏み出そうとした瞬間、耳をつんざくような悲鳴が聞こえた。
紗夜達は声が聞こえた方向に顔を向ける。すると、小汚い格好をした二人組の男が走って来ているのが見えた。その二人組は、ちょうど紗夜が立つ位置に向かって来ている。
――手には、抜き身のナイフが握られていた。
「どけぇぇぇっ! 女ぁぁぁっ!」
「っ!」
「サヤ様っ!」
紗夜は、動けなかった。咄嗟のことに声も出ない。まだドアの前にいるクレアが、紗夜の名を呼びながら必死に手を伸ばす。紗夜にはその声が遠くから聞こえて来るように感じた。
紗夜は、来るべく衝撃に身を縮こませて目をギュッと瞑った。
しかし、待てど想像していた衝撃は訪れなかった。
「やはり早急に対策案を練らなければな」
硬質な男の声が聞こえた。声に導かれるように紗夜は、恐る恐る瞼を開いた。
初めに目に映ったのは、紗夜を守るように立つ広い背中だった。フードを被った彼は、片手でナイフを持つ男の手首を捻り上げていた。
「この国で好き勝手出来ると思うなよ」
――この出会いが紗夜の運命を大きく変えるとは、この時は想像もしていなかった。