笑顔の仮面を剥いだ私は不幸を望む。
少しずつ、何かが削れてゆくような感覚はあった。
ざりざりと荒石で削られ、血が流れて出てゆく感覚が。
痛くはない。ただ喪失感があるだけ。
ひょっとしたら痛いという感覚は麻痺し、痛かった記憶は消されてしまっているのかもしれない。
笑えば笑うほど喪失感は増す。
笑顔はちっとも心の溝を埋めてはくれない。
鏡を見れば私と同じ肩まである黒髪と、柔らかい生地で出来た花柄の桃色のワンピースを着た女性が立っていた。その女性はどんな表情をしているのかは分からない。
涙を浮かべているのかもしれない。無表情なのかもしれない。怒っているのかもしれない。彼女の感情は分からないが、満面の笑顔が描かれた仮面をつけていた。
人の良さそうな笑み。
全てを受け入れてくれるのではないかと思える聖母のようなやさしい笑み。
都合の良い笑み。
背筋に汗が伝う。この笑みに抱く感情はきっと皆が私に対する感情だ。
手を顔に這わせるようにゆっくりとぴっとりと触る。
鏡の中にいる仮面の女性も同じように触っていた。ふるふると小刻みに震える青白い手で。
触れた感触は温かく柔い肌の感触ではない。冷たく硬い陶器の感触だった。
「え? なんで……?」
仮面を外そうと耳の後ろを触って気づく。あるはずのゴムがない。それどころか、顔とお面の凹凸もない。まるで、顔がもともと仮面であったように、こめかみにあるニキビ以外何も凹凸は無かった。
「何してるの。もう朝ごはんは出来ているわよ」
お母さんの声がドア越しに聞こえた。
仮面を早く剥がさなければ。ふと浮かんだ案は爪で仮面を削ることだった。冷静に考えれば、爪でお面を削るなんてえらく時間がかかると分かることだが、焦りと驚きで真っ白な頭では何も考えられなかった。
ガリガリと爪で削ろうとするが、鏡の中の仮面には何一つ傷は付いていなかった。
「どうして削れないの……!?」
一層激しく爪を立てて削ろうとするが、やはり少しも傷つけることは出来なかった。
「痒いの? 痒いならムヒをつけたら?」
お母さんは少し開けたドアから顔を出し、言った。仮面について何も言わなかった。まるでずっと前からこの顔であったように。
「ねぇ、私の顔……」
仮面をどうしてつけているの?と言葉を聞きたくて問うた。
(気付いて。お願い、このお面に気付いて!!!!)
私の絶望はすぐそばまで来ていた。それに怯え、仮面の下で大粒の涙をぼろぼろと流していた。
「掻いたところが赤くなっているけど、血は出てないよ」
絶望は私の足を掴み、そして私の体をごくりと飲み込んだ。
「ううん、なんでもない」
《おかあさんを かなしませたくないから》
ふと声がした。
胸の奥深いところで小さな女の子の悲しげな声がした。今の私とは違う高くて拙い声。でも、なぜかこれは自分が幼いときのものだと分かった。
《がまんしなくちゃ。そうすれば、おかあさんは きっと よろこんでくれる》
今の感情に近い。そうだ、お母さんを困らせてはいけない。お面のことは気にしないで下に行こう。そして、いつも通りに朝ごはんを食べよう。
布団から抜け出すと、青のスリッパに足を突っ込み、階段をパタパタと気持ちに似合わず軽い音をたてて下りた。
「お早う、あみちゃん」
お義父さんがご飯を口にいれようとした箸を止め、言った。
「お早う、お義父さん。顎に納豆付いてるよ」
私が9歳の時にお母さんが再婚した。お母さんがお義父さんと付き合っていた頃はお母さんがお義父さんに取られてしまうと思って、お母さんが出掛ける度に行かないでと、すがり付いて困らせていた。今はもう幼い子供ではないから、そんなことで困らせたりしない。
定着している、右奥の席に座り、箸を持つがそこであることに気づき、戸惑った。
口があるところを左手で触っても唇の凹凸が無い。だからといって、仮面を外すことも出来ないので食事をとることが出来ない。
「気持ちが悪いから朝ごはんやめておくね。ごめんなさい」
「そう? せめて野菜ジュースだけでも飲んでおいたら?」
「体調が良くなってきたら飲むね」
嘘を付くことの罪悪感がザリザリとヤスリのように容赦無く心を削った。
部屋に戻り、姿鏡に映ったら自分はやはり仮面をかぶったままだった。
「そもそも、いつ仮面をかぶったんだろう? 夢遊病なのかな?」
どうすることも出来ないと分かると焦りがどこか遠くに感じるということを知った。先程とは違い、妙に冷静であった。
「この仮面って呪われたものだったりして。学校の帰りに神社に行こう」
ふぅ、とため息をつきながら鏡に写るお面を見る。目線を少しずらすと、思ったりも時計の針が進んでいる。大きなリボンをつけたら鼠の可愛らしいキャラクターが描かれている赤い時計があった。
「あ、もうこんな時間! 早く準備しなきゃ遅刻しちゃう」
小学生の頃から無遅刻無欠席であった私は皆から真面目だと言われる。当たり前であることを当たり前に行動するあみさんは偉いね、と先生に誉められた。髪に熱ダメージを防ぐクリームを塗り、少し大きいクリップで髪を小分けにしていく。そして、一房髪をとり、コテで丁寧にはさんでまっすぐにしていく。それを繰り返し、鏡で後ろまで綺麗に出来ているかを確認する。最後に毛先を丸めて完成した。
最後に化粧にとりかかろうとしたが、仮面を被っている顔に化粧を施すことが出来ない。
「学校に行けば誰か気づいてくれるかな。たくさん人がいるんだから、誰かしら霊感があるよね」
びっくりするよね、と苦笑いする。勿論鏡に写った私は苦笑いなんてなく、満面の笑みを浮かべていた。
ピピ……
一時間毎に鳴るアラームにゆっくりしている暇は無いということを思い出す。いつも出ている時間より5分押している。電車に間に合うだろうか? スニーカーに足を突っ込み、手荒くドアを開けて駅目指して走る。
残念ながら、駅のホームに通じる階段を駆け下りている最中に電車は無情にも行ってしまった。
汗がじっとりと額を濡らす。髪がうなじに張り付き、気持ちが悪い。右ポケットから小さなタオルハンカチを出す。友達から誕生日プレゼントで貰ったもので、白い生地にパステルカラーのピンクや青などのハートが描かれている。ふわふわの肌触りの良さやデザインの可愛らしさが気に入っている。
スマホで電車の時間を調べる。到着時間は授業開始時間の15分前。寄り道をしたり、ゆっくり歩いていれば遅刻してしまうが、速歩きをすれば、なんとか間に合いそうだ。
いつも余裕をもって1、2本前の電車に乗っている。ギリギリの電車に乗ることなど今まで無かったため、不安で心臓がバクバクと大きく脈打っている。
焦りを感じるときに首を触る癖がある。
小指に冷たく固い感触。
(そうだ、私の顔には外せない仮面がついている。どうして一瞬でも忘れていたのだろう?)
ピキンッとひび割れる甲高い音が小さくした。
それと同時に、この仮面の嫌悪感が薄れていることに気づいた。
顔を両手でおおうと、小指にザリッと他と違う感触がした。鼻の上から頬にかけてあるひびに指を這わせる。
電車がやっと到着し、見慣れた3人が楽しそうに喋っていた。隣に立っていた男の人が迷惑そうにイヤホンをつけるくらいなのだから、結構な音量である。
(昨晩やっていたドラマの話かな? 格好良い俳優がいるって言ってたし)
残念ながらあまりドラマに興味のない私は全くついていけない話題だった。少し落胆しながら電車に乗り込むと、話している内容は全く違うとわかった。
「あみってさ、いつも笑ってるだけでつまんないよね」
「この間二人きりだったとき、話続かなすぎて死ぬかと思ったわ」
「お疲れぇ!!」
キャハハと甲高い笑い声が響いた。
楽しそうに話す三人の顔は醜く歪んでいた。私が悪口を言われることはなんら不思議でもなんでもない。何故なら、その場にいない人がターゲットとなって悪口が始まることがよくあるからである。
「あ……あみ、おはよー!」
誤魔化すように不自然に明るい声が耳障りだ。
なんでここにいるの?といったような責める目線は声と違って隠そうとしていなかった。
「この時間に来るなんて珍しいね。もしかして寝坊したの?」
いつもこの時間には来ないのに、と苛立ちの色が見え隠れしていた。
しょうがない、平和に学校生活を送るためには我慢するしかない。といつも笑って過ごしていたはずなのに何故か笑うことが馬鹿馬鹿しく思えてならなかった。
窓に映る私の顔には笑顔の仮面なんてついていなかった。
笑顔がスルスルと紐がほどけるように消えていく。
笑顔でいなければ、とまるで呪文のように唱えて我慢していた日々があの仮面をつくっていたことに気付く。
親が友がお面に気づくはずがない。良いこであろうとしたための心の仮面なのだから。必死になって良いこを演じて愛されようと努力した。
自分の今までの行動、感情全てが悲しくて虚しくて笑えてきた。
《きょう、わたしのたんじょうびなのに……。おかあさんは かれしと でーとに いっちゃった》
《テストで まんてんがとれたの。おかあさんとわたしだけで あそびたいな》
《お母さんは わたしのことも あいしてくれてる?》
《一人はさみしいから、悪口聞いちゃったけど がまんしよう》
《笑顔でいなきゃ……》
なんでこんなに我慢しなきゃいけないの?
お義父さんとの時間を優先して私をひとりぼっちにしてばかりのお母さんからの愛なんてもういらない。
私の悪口を言う友達に良い顔をする必要だってもうない。
窓に映る私の顔はまるで感情が抜けたように無表情だった。私はいつでも笑顔だった。私のこんな顔は遠い記憶の向こう側にしかなかった。
「私、本当は貴女達が大嫌いなの。悪口しか言わない貴女も、自慢話ばかりの貴女も、嘘ばかりつく貴女も、もううんざり」
3人がポカーンと口を開き、私を驚いたように見る。私の笑顔以外の表情に驚いたのだろう。
「あみの癖に生意気なんだよ! は? 私が悪口ばかり言ってる? 私の悪口に頷いていた、あみも同罪なんだよ!」
黒くセミロングの髪を掻き乱しながら叫ぶように言った。
真っ赤な口紅を塗った口からは唾が出てきて不快である。
「ふーん、同罪ね……。友達に彼氏のあることないこと吹き込んで別れさせて、いまその人と仲良くやってるなんてこと、私はやってないし」
「ちょっとどういうこと!?」
茶髪のボブは可愛らしく声を作るのも忘れて低い声で睨み付けた。
お洒落に人一倍気を使い、可愛らしく作った口調と声に男からの人気はかなりたかかったが、男関係に関する自慢がかなり多かったため、女子からはよく思われていなかった。
歪な関係の私達のグループ。
道化のようにケタケタと笑い、愛されようと必死に感情を抑えていた。きっと、被っていた仮面は私の心を隠す仮面なのだろう。こんなにも必死に愛されようとした眩い世界が仮面をはずせば、灰色のひどく退屈な世界だった。
あーあ、本当に馬鹿みたい。私が欲しかったものは何の価値もないただの塵だった。昨日まで楽しそうに話している4人のグループの姿は無かった。
その醜い人に愛されようとしていた自分が愚かで可笑しくて、悲しくて嗤った。
嗤った。
嗤った。
嗤った。
愛されようと必死になっていた幼い自分がどろどろに溶かされていく。
私は元々大人しいわけでもないし、優しいわけでも、ましてや善人でもなんでもなかった。ただ、幼少期に愛情をあまり与えて貰えなかったせいで、愛情を求めるが為に都合の良い少女を演じる癖がついてしまっていた。
冗談にしてはあまりに酷いことを言われても、常に笑顔、決して表情を歪ませることはなかった。それはまさに仮面を張りつけるようであった。
そしてその笑顔は心にまで蝕んでいた。本心を隠しすことを繰り返しているうちに自分の本心を見失っていた。しかし、それはもう過去のこと。
目の前に繰り広げられる光景に心を踊らされた。つい先程まで仲良く私の悪口を言って楽しそうにしていたのに、今やお互いを罵りあい、そして暴力にまで発展している醜い姿がとても気味が良く、高笑いしてしまう。
乗客は好奇心や困惑、そして迷惑そうな顔でこちらを見ているがそんなことはどうでもいい。只、私が楽しく、気分がよければそれで良い。
新聞紙をぐちゃぐちゃと丸め込むように、人間関係もぐちゃぐちゃにすることがこんなにも楽しいとは思わなかった。もう2度と修復出来ないほどに引っ掻きまわしてやるのだ。あらゆることを我慢して曖昧な愛情を貰うよりもずっと簡単で心が満たされる。
私がしていることは正義ではない。偉そうに元々壊れかけていた関係を壊してあげた、なんて馬鹿ことは言わない。
私がしていることこそが何よりも醜いのだけれど、ついこの間まで楽しそうにしていた人達の顔が醜く歪むことに快感を覚えてしまう。。
こんなに愉しいのなら、愛情なんてさっさと諦めれば良かった。
次は何処を壊しにいこうかな?
嗚呼、そうだ。最も愛しくて最も憎いあの人の関係を壊そう。
待っててね、お母さん。
きっと今頃お義父さんと新婚夫婦のように愛し合っているんだろうね。でも、私知ってるの。私はお母さんを誰よりも愛していて、見ていたから。貴女がお義父さんを愛しているのは、お義父さんが────。