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君と巡る、夜の彼方

作者: 末尾 いづる


 彼女は綺麗事が好きだった。

 そんな彼女に、私は一度だけ反発したことがある。

 

「綺麗事を繰り返してばかりだな君は。自分は綺麗だって言いたいのかい? 綺麗なことを考えて、綺麗に生きていることが気持ちいいんだろう。それはただの自己満足に等しい。私を、君の自慰に付き合わせるな」


 どうして彼女にそんなことを言ってしまったのか、その理由は忘れてしまった。

 けれど、その時、彼女の青い瞳が大きく揺れたことは鮮明に覚えている。

 

「……私のママはね、虫も殺せなかったんだ」


 しばらく黙り込んでいた彼女は、やがて意を決したように、ぎゅっと閉じていた唇をゆっくりと動かし始めた。


「家の中に虫がいても、殺さずにそっと捕まえて窓の外へ逃がしてあげるの。そんなママがさ、自分の子供を見捨てることができると思う?」


 彼女は続けた。

 彼女の母親は心臓が弱かったこと。そのため、医者にお腹の子を堕胎するように提案されたこと。そして、それを拒み、産む決心をしたこと。


「ママは毎日お腹の子に声をかけた。無事に産まれて生きることを祈って。その優しい声は、私の全てを包み込むようで……。そして、私は産まれた。ママの生命と引き換えに」


 彼女は心臓に触れるように、自分の胸に優しく手を当てた。


「私は、生命はとても尊いものだと思う。だからこそ、綺麗事を繰り返すよ。たとえ、それが偽善だとしても、自己満足だったとしても。それが、ママが唯一遺してくれた私の生き方だから。そして、私自身の意思でもあるから」


「……そう。勝手にすれば」


 


 あれから長い年月が流れた。彼女は今、どうしているのだろう。

 あの時のことを謝りたい。立ち去る私を寂しげな笑顔で見送る彼女の顔が、脳裏に焼き付いていた。

 でも、会うのはきっと無理だ。

 


 この世界は、終わりを迎えつつある。原因は火山の噴火、大地震、疫病、戦争。色々な不幸が絡まりあった結果だ。

 生活が脅かされている。それも、抗うことのできない大きな力によって。それに気づいた人類はどうすることもできず、ただ争った。荒く、乱暴に、そして必死に。

 仲の良かった隣人は敵になった。外を歩けば、害意の視線を向けられる。


「ほら、やっぱり。人の根っこは悪じゃないか」


 安寧が失われると、人々の見せかけの善意も消えた。

 


 ある日、噂を聞いた。隣町に治療を行ってくれる一人の女性がいると。



 この世界の終わりが始まると、それまでの人の営みも崩壊した。

 食料を扱う店は襲撃され、警官は暴動の鎮圧で銃を乱射し、医者は姿を消した。


 そんな状況で、他人の面倒を見るやつなんているわけがない。

 頭ではそう理解している。けれど、彼女の、最後の寂しげな笑顔が浮かんだ。

 


 私はすぐに隣町へ向かった。到着した頃には、太陽はすでに沈んでいた。

 噂に聞いていた建物を探す。幸い月明かりが視界を照らしてくれる。このあたりも昔に比べてずいぶんと荒れ果てた。買い物客で賑わっていた商店街も、今は閑散としている。 

 破壊された跡があるお店が視界に入る。つい、目を背けてしまう。こんな状況で、人助けなんてありえない。でも、彼女なら……。


 やがて、目的の建物に到着した。が、扉を開けてみても、中には誰もいなかった。

 噂は所詮噂に過ぎなかったのだろう。私は落胆した重い足取りで建物に入る。


「どなた?」


 不意に、背後から声をかけられた。

 透き通る美しい音色のような女性の声が、風のように私の背中と耳を撫でる。


 やはり、君は……。 


 私は声を出すこともできず、黙って振り向き、そして気づいた。ランタンの明かりに照らされた女性の瞳が黒色であることに。


「あなたは、診察希望かしら?」


 女性は私の顔を見て顎に手を当て、小首を傾げながら訊ねてきた。


「……いや」

「そう。なら、もしかして、泥棒かしら」

「それも違う」

「違うんだ。じゃあ、あとは……」


 しばらく考えるように眉間に人差し指を突き立て。


「あたしに、会いに来てくれたとか?」

「……少し、違うかな」

「少し?」

「君に会いに来たつもりだったけど、君じゃないんだ」

「なにそれ」


 まだ表情に幼さを残す女性は、また首を傾げる。


「君は、一体?」

「あたし? あたしは、ここで治療を行ってる医者かな」


 その女性、いや、少女は胸を張って明るく笑う。そして私を眺め始めた。

 彼女の瞳の色とは違う。なのに、どうして、その目は彼女と同じように、綺麗で、暖かい輝きを放っているんだ。


 黙り込んだ私をじっと見つめる少女は顎に手を当て首を傾げた。


「君のその仕草、誰かに似ているって言われたことない?」

「え? あるけど。……ああ、なるほど」


 少女は何か納得したように数回頷いた。


「あなたが探していたのは、ママのことね」

「ママ?」

「そう。独りぼっちになった私を救ってくれた恩人。いつも綺麗事ばかり言う優しい人。名前は……そういえば知らないなあ」


 心臓が跳ね上がる。間違いなく彼女だ。私には分かる。


「いや、それだけで十分だ。きっと私が探している人だよ」

「やっぱり。綺麗事って言葉だけで伝わるなんて、よっぽどだったのね」


 少女はどこか自慢げに笑った。

 しかし、その笑顔はやがて消え、聞き取るのがやっとなほどの小さな声で言った。



「でも、ママは、もういないよ」



 その時初めて、少女の悲しげな表情を見た。


「……そう」


 他には何も言葉が出なかった。今の世の中で、元気に生きている方が珍しい。おかしいことは何もない。なのに、私の胸の中には、しこりが残っていた。


「謝りそびれちゃったな……」


 私は上を見る。そこにあるのは、無機質な灰色の天井だけだ。

 しばらく立ち尽くしていたが、私は少女に向き直って質問する。


「君は、どうしてこんなことをしているんだい」

「こんなことって?」

「人助け。治療してあげてるんだろう」

「それは、ママの後を継いだから、かな」


 やはり、彼女は人々を助けることに尽力していたようだ。なんて彼女らしい。それを知って驚きつつも安堵している自分がいる。彼女は、やっぱり彼女のままだった。


「なら、どうして君はそれを続けるんだい。何も見返りなんて得られないのに」

「そりゃあ、あたしだってママのやってたことがおかしいって気づいていたよ」

「おかしい?」

「うん。だって、こんな世の中だってのに赤の他人を見返りなしに救うなんて頭おかしいでしょ」


 でも、と少女は続ける。


「ママは、最後まで人を救い続けた。自分のことも顧みず。最後まで、綺麗事を通し続けたんだ。そんなかっこいい姿見てたらさ、まねしたくなるじゃん」


 少女は、身を翻して私に背を向け、開いたままの扉から外を眺める。


「あたしは、綺麗事が歪んで見えるこんな世界でも、自分を貫きたい。だって、一度きりの人生だもの。他人を憎んで、蔑んで、妬んでやってる暇はないの」

「……君も、綺麗だな」

「あ、なにそれ。お世辞? それとも、もしかして口説いてる?」


 彼女は優しさと綺麗事のおかげで生命を授かり、優しさと綺麗事を守ってその生命を終えた。彼女に謝ることはできなかったけど、彼女から受け継がれた少女の意志はとても眩しくて、儚い。だから……。


「お願いがある。私に、君の手伝いをさせてくれないかな」


 彼女はしばらく唖然として固まっていたが、やがてクスリと笑みを浮かべた。


「もちろん大歓迎。よろしくね」


 少女を彼女と同じ寂しい笑顔にさせたくない。私がさせない。

 秩序も安寧も失われたこの世界で、少女と私は、優しさと綺麗事を守っていく。 


「ママに報告しにいかないと。お墓が少し歩いた場所にあるんだ」


 少女は外へ飛び出した。私も少女の後に続く。


「君の、その呼び方。ママっていうのは……」

「えっとね……。ママと初めて会った時から、ママって呼ぶように言われたんだ。それだけはどうしても譲れなかったみたい。なんでだろう」


 どうやら、彼女は、彼女の由来を少女に話していなかったようだ。


「ねえ、あなたは何か知らない? ママが『ママ』って呼ばれることにこだわる理由」


 少女が前のめりになって耳を傾けてくる。

 その様子が微笑ましく、私は思わず少女の頭を撫でていた。


「え、なにこれ、どういうこと。……ママ以外に頭撫でられるの初めてなんだけど」

 

 ぶつぶつ言いながら、困惑した表情を浮かべる少女。それすらも愛らしい。

 彼女は自ら幸せを掴み取っていたみたいだ。本当にどこまでも綺麗で、優しくて、そして強い人だ。

 

 夜空を見上げる。今日は晴れていて、星がよく見える。人間の文明が崩壊して初めて気づいた。夜はこんなにも明るくて、綺麗なのだと。


 

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― 新着の感想 ―
[良い点] 一人称視点にも拘らず一歩引いたような視点なのが大変良い雰囲気が出ています。彼女の綺麗事と私の思考とが対比として表れていて惹き込まれました。ラストも良い意味で私の未来に繋がりましたね。ご都合…
2018/01/16 18:13 退会済み
管理
[良い点] ストーリーと中身に「本当の美しさ」を詰め込んだような綺麗なお話でした。 退廃する世界の中でも「奇麗事」を貫き通す。 物語を客観的に描く事で、その美しさが増しているような気がします。しんみり…
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