うわきもの
彼女の言葉遣いは、さっきまでバイト先の厨房で聞いていた業務連絡のように淡々としていた。
僕の前に座って笑顔を張り付けた彼女の声には、ほとんど抑揚がなくなっていて、もう僕へ使うやさしさは余っていないようだった。
僕はいつだって君の中での優先順位が低いね、と、そんな風にいうと彼女はきっともっと機嫌を悪くするだろう。でもはっきりと顔には出さずにそんなことないわよというのだろう。
数日前に僕の大嫌いなあいつと君が笑いあって居酒屋から出てくるのを見たよ。
心の中で僕は語り掛ける。
その時の君の声はたぶん、今よりも数段階上で、楽し気だった。
僕よりもきっとあいつの方が、君に楽しさを提供していられるだろうね。
もう別れようか、その一言で僕らの関係はすぐに終わるだろう。彼女はいっそそれを待っているのかもしれない。
僕たちの間の料理がどんどんと冷えていく。
彼女はかわいらしい名前のお酒を飲むばかりで、料理に手をつけない。僕には食べきれない量並んだこの料理たちは、一体どこへ行ってしまうのだろう。
やっぱり、たくさん食べる人がいいよね
と君が友人と話しているのを聞いていたよ。僕が君の作った手料理を食べきれなかった翌日のことだったと思う。その時僕は君の料理を残したことを謝ったけれど、彼女の心はもっと深い何かで僕をきらったのかもしれない。
あいつは、よく食べるの?
そんな質問をして良いわけはない。
「どうしたの、機嫌悪い?」
僕にとってのベストな言葉はいつだってこれだ。彼女はきっともうこの質問にうんざりしているだろう。知っていて僕はただこれを言うことしかできない。彼女が気を遣って少しでも楽し気にしてくれれば、この瞬間をごまかしてくれれば、僕たちはまだもう少し命を伸ばすことができるのだ。
「いつも、それを言うね。」
想像していたよりも、丁寧に彼女が言葉を発したので僕は驚いて彼女の目を見つめた。
彼女も僕をまっすぐに見つめていて、僕たちが見つめあったのはずいぶん久しぶりの事だと気付いた。
「ん、いや、」
言葉につまる僕に、彼女はお酒をもう一口飲んで、やはり丁寧に話した。さっきまで黙っていた時に、彼女なりに考えていた言葉なのだろうか。言葉の隅々にまで余念のない、僕ごときでは何も覆せない、たくさんの優し気な言葉だった。
それらはどれもきらきらとした美しい言葉たちだったけれど、僕がそれを拾い上げてゆっくりとかみしめようとした途端、棘や毒やそんなひどく冷たく痛く変わった。僕にとっては、美しい君そのものこそ、猛毒のようだ。
僕は当然彼女が求めているものが何かを知っている。
僕たちはずいぶん前から、決して交わらない道を歩いていたことも知っている。
僕のワガママでずいぶん長いこと君を我慢させていたことも知っている。
いつも優しい君は、僕へ別れを告げることすらできず、ただ僕を見つめていた。そして僕はその視線ごと知らないふりをして、けれど君とつながっていることだけは離さなかった。
「これ、おいしい。」
彼女がしゃべり終わってしばらくたって、僕はそういった。彼女は曖昧に笑って、それでも箸を伸ばさなかった。僕への優しさはいつからなくなっていたのだったか、僕は覚えていない。
料理は冷めきっていて決しておいしくはなかったのだけれど、僕はただ夢中で口を動かしていた。食べていれば喋らずに済む、僕たちはまだ終わっていないという僕の惨めなあがきをおそらく君は理解している。
「私たち、もう、終わりましょう。」
僕が一人で大皿を二つほど平らげたころ、彼女は最大限優し気な声でそういった。僕は咀嚼していたものを飲みこんで、それでも彼女の顔を見れなかった。
「うん。」
やっとの思いで出た言葉はそれだけだった。さよならも行かないでも、全部、さっきの料理と一緒に飲みこんでしまったようだった。