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決行前夜  作者: ウオン・バット・ウ
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煉獄

    煉獄


 男は、どうにも寝付けなかった。

横になったものの、何故か、不思議と眠れなかった。心臓が高鳴り、目がパッチリと開いてしまっていた。

その内退屈になって来たので、ゆっくり起き上がると、砂糖をスプーン二杯程口に運び、図書館に向かう事にした。

そうか、こんな事で命を断てるわけがないんだ。この、特別な、優良種たる俺の命が、たかがラムネ菓子みたいなものを少しばかり多く食べたぐらいで。

男はそう思った。命は特別なものだった。生と死には明確な境界があった。


男はSex PistolsのMy Way を歌っていた。

元々は、フランク・シナトラが歌った曲で、死に瀕した男が壮大な声で男が歩んだ道を語る、という歌だった。

Sex Pistols ーいや、シド・ヴィシャスが歌ったものは、替え歌で、彼の人生をふざけた調子で歌い上げたものだった。この歌をリリースしたすぐ後に、シド・ヴィシャスは自殺した。

俺は、俺の人生を目一杯生きた。このフレーズを繰り返した。


 ひどく足元がふらついた。寝不足のせいだと思った。前夜から興奮していたのか、寝付けなかったのだ。

何とか図書館に到着し、ゴッホの画集を手に取り、耳を切り落とした自画像のページを開く。

飛び降りるしかないのだろうか。そうして、脳を外に露出させ、潰れたトマトのような姿を晒すしかないのだろうか。そうすれば、脳みそが蒸発し、気体になり、俺は世界の一員になれるのかもしれない。

男がぼんやり考えていたその時、強烈な吐き気を感じた。


児童本コーナーの脇にあるトイレに駆け込む。まるで、ドラマに出るつわりの妊婦みたいだな。そう思いながら、急いで便座を上げた。幸いにも個室は開いていた。

べん座におう吐した。初めて見る色の吐しゃ物が大量に出た。カフェオレのような色で、味は吐しゃ物そのものの酸っぱい味以上に、強烈な苦味を含んでいて、それがまた吐き気を呼び、また吐いた。

もはや世界は平行を保っていなかった。嵐の日の船ーそれのように、大きく、大きく揺れていた。


男は急いで図書館を出た。本にゲロをつけたら、俺はもう来れなくなるし、恥ずかしくて死にたくなる。

帰るまでに路上で二度吐いた。

男の顔が酷く醜く、また浮浪者のような風体をしていたためか、通行人は目もくれず、足早に立ち去った。立ち小便すらした事がない人間にとっては、酷く屈辱的だった。


男は家の玄関を開け、トイレに駆け込む。胃が踊っているのだ。心臓のように、この内臓が動いているのだ。

なんという、奇妙で、不快で、苦しい体験だろう。

体温が恐ろしく上がった。呼吸をする事すら困難になりつつあった。酷く喉が渇いていたので、水を大量に飲んだ。そうして、寝床となっている玄関に戻り、赤い毛布を乱暴に体に被り、無理やりに眠りについた。


男が覚醒した時に見たもの、それはまったく異常な光景だった。

男は玄関の隅に浮き、自分自身が赤い毛布に包まり、家の中にしまわれた自転車によりかかっている、その姿を確かに見た。

それだけではない。世界の全てが、横幅がおおよそ15センチメートル、縦幅が8センチメートルほどの立体的な空間に区切られていた。

その空間は一枚一枚中心に心棒を通したかのように回っていた。そうしてその空間の裏側が男の側に向く時、そこには色とりどりの小さな仏像が座っていた。

青いもの、赤いものが多く、ほとんどは青いものだったが、男にとって一番印象に残った仏像は黄色だった。それは目を大きくひん剥き、口を大きく開け、牙を覗かせていた。

男は思った。俺は本当に、取り返しのつかない所に来てしまったのかもしれないと。

そうして眺めている内、また意識は遠のいた。


再び、意識を取り戻す。いや、数度、数秒程意識を取り戻しかけた事、それはわかっていた。

もう、精神と肉体は完全に分かれていた。肉体側は完全に正常でなく、狂気の世界へと囚われていた。しかしその精神は、なんとかかんとか、その肉体から数度、意識を握りつかんでいた。

色とりどりの仏像も、区分けされた空間も、なんとか遠のいた。次は、苦しみが待っていた。

まず、精神のターンが回ってくる。精神は生きようとしているらしい。まるで夢の中に居るように、体の精密なコントロールは効かず、胃の痛み以外の感覚は感じない。

視界と意識が認識する情報の間には、まるでしわだらけのビニールが張ってあるようだった。視界ははっきり見える、ぼやけている所はない。しかし、はっきりそれが何であるかわからない。

精神は生きようとしている。死が恐ろしい物であると理解している。

トイレに駆け込み、おう吐する。そして、洗面台から水を大量に飲む。そうして、また玄関に戻り、赤い毛布を被り、無理に眠る。

それら一連の行動が、少し思うだけど体が勝手に動いた。まったくもって、正確な動きではなかった。まるで、テレビゲームのコントローラーを通して、自分が決められた動きをなぞっているようだった。


この一連の認識が、おおよそ、2分か1分毎に目が覚め、行われた。

男は考えた。これはひょっとして、俺はもう死んでいて、キリスト教の言う最後の審判の日まで、俺はこの苦しみを繰り返すのではないかと。

これではまるで、戯曲に出る、煉獄ではないか。

俺は良い事も、悪い事も、ろくにしなかったから、こんな目にあっているのだろうか。


あまりに何度も何度も規則正しく起きたものだから、男は大真面目に、もう百年近くはそうしているように感じた。

 何度も何度も、朝と夜が入れ替わる光景が、直接脳みそに映しだされた。玄関の向こう側の世界がどんどん変質し、人が滅びる世界を見せた。その妄想は益々、深まった。


 これは夢ではないのか?それとも、俺は死んでいて、死ぬ前の永劫の苦しみを、ずっと繰り返しているだけではないのか?


長く、長く、その苦しみは続いた。後、どれだけこの胃の痛みと、不快感を感じれば終わるのだろう。俺は、いつ、死ねるのだろう。


その内、男の精神は落ち着きを取り戻していた。奇妙にも思われるかもしれないが、その異常な体験も、本当に百年近く味わっていると思えば慣れてしまうのだ。

いつまで、続くんだろう。仮に死んでいなかったとしても、この状態が続くのは困る。ギターも、野球も、一生できやしない。まともにコードも弾けないし、バットも振れやしないぞ。

そうして、男は気づいた。

単純明快な、つまらない、ありきたりな答えを。

自分は死にたくはなかったのだ。

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