決行前夜
決行前夜
最初に、断りを入れておく。
この話は、僕の自分の体験ではない。
僕のある友人の話である。
その友人が僕に語った話である。
僕はたまたまキーボードが打てて、その話をまとめると面白いものが出来るかもしれないと思い、打ち込むだけの無知な生物にすぎない。
今はその友人は、どこかに消えてしまった。
彼の決行が成功したのか、または、つまらない仕事に就き、僕と会う暇がなくなったのか。
あるいは、すっかり本当に、姿が見えなくなってしまったのかもしれない。
男は石畳の上に座っていた。目の前には玄関がある。ここ数日の間、ほとんどの時間はここでどこを見るわけでもなくこうしていた。
そばに毛布があった。この絶望的な状況を救ってくれる何かが来た時、すぐに出迎えられるよう寝る時も玄関で寝ていた。そうしなければ、とても寝付けなかった。
ただ、ぼんやりと虚空を見つめているだけでも、腹は減る。極限まで不快な時とは、腹が減りきっている時だ。頭痛とめまいがし、思考はとてもまとまらない。まともに生存していくための活動を行えないのだ。
男は仕事を二ヶ月前にやめていた。一日八時間、週に五日出る。アルバイトで、時給は五年勤めて変わらず九百円だった。
遅刻も、病欠も、めったにしなかった。呼ばれれば、休みを潰して店に出た。
ある時、その企業の一度も見た事がない社長が従業員が見るビデオでハッパをかけた。
今、我が企業は苦しい状況にあります。しかし、共にこの企業で働く"仲間"として力を合わせ、この状況を乗り越えましょう。
男が着た事も、いや、見た事すらもあまりないであろう、高そうなスーツを着ていた。多分、男の月収と同じ程度の値段だろう。
その日の内に、一ヶ月後にやめる事を伝えた。
そうして、一ヶ月過ぎ、仕事をやめた。
つかの間の自由は男にとって、はじめて生きている実感を味あわせた。
しかし元々貯金もそれほどなかったので、二ヶ月ほどで金はなくなった。
自由になってから一ヶ月ほどで、そろそろ次の仕事を探さなくては、とは思い続けていた。そのたびに、あの社長が頭の中に蘇った。
一体どうして俺は、会ったこともないような人間のために自分の身を一日八時間売り、奴らのスーツ代をこしらえてやらなければならないのだろう?何故、奴らが生きていくために、俺は自分を捨て、人を王様のように扱わなければならないのだろう?
俺は一体、何のために産み落とされたのだろう?
男に親は居なかった。父親は幼い頃に亡くなっていて、母親はつい最近、自殺していた。
あの両親は、どうして俺をこの世界に産み落としたのだろう?
男は考えた。時間だけは余っていた。そして、ただ彼らは、何かを作り上げた気になりたくて、その結果を顧みず、コンドームを外しただけだったのだと結論づけた。
俺は、この世界に不要な存在だ。
ただ、生まれてしまったから、自分の動物的本能を満たしてやらねばならぬから、今ここで動いているだけだ。男はそう結論づけた。
二ヶ月がすぎた。金はほとんどなくなっていた。想像できるだろうか?この国では、外に出れば食べ物は溢れているのに。
何度も、何度も、盗みを働くか、強盗をしようと考えた。
一度、あてもなくショッピング・モールを彷徨っている時、財布を拾った。七万円入っていた。盗もうとも考えたが、結局見つけた店に届けてしまった。
その時、三割もらおうと一瞬、渡した人間の前に立止って、奇妙な間が起こった。みじめで仕方がなかった。
結局、一度もそういう事を行う事はなかった。
男は、善人ではない。俗に言われる優しさだとか、善意を唾棄していたし、そういう風に振る舞う事を罪だとすら考えていた。
全部嘘っぱちだからだ。
ただ、自分が周りの人間に良く思われ、自分の環境を自分にとって住み良くするための動物的本能。それを、まるで動物的本能を乗り越えた超越者であるかのように振る舞う事が許せなかった。
男は考えた。自分は、生きる能力ーこの世界を生き抜く能力が足りなかった。
仕事もそうだった。たた、人の真似をして、無理やりに表面を取り繕っているだけだった。
人付き合いもそうだった。人の真似をして、無理やりに表面を取り繕っているだけだった。
人間はパンケーキのようなものだ。
悪だとか、善だとか、振る舞いだとか。そういう内面を少しずつよくこねて混ぜあわせ、やっと一人の人間が焼きあがるのだ。
男にはそれがなかった。悪と善がすっかりわかれていた。粉と水に別れたままで、ただ出すべき客がきたために、無理に表面だけ焼き上げ、なんとか見た目だけは整えた。そういう、出来損ないのパンケーキだった。
男であるかどうかも曖昧だった。ホモセクシャルではないが、女性に性的な興味を示せなかったし、また、示されなかった。
少し付き合うとほとんどの人間にはそれがわかるのか、男の事を嫌った。残ったのは、男の出来損ないの部分を見て笑い、自分の出来損ないの部分に覆いをしてしまうような連中だけだった。
まるでウーパールーパー、ネオテニー。未成熟な完成。大人に、いや、人間にすらなれないただの生物。
そして、その総決算。なんとかかんとか、周りを騙して生きてきたツケを払う時が来た。
男はそう考えた。
自分はひょっとしたら、生まれる世界を間違ったか、生まれる容器を間違えたのかもしれない。そうも考えた。自分は、何も考えず、無知に、気だるげに、敵意なく、草を食むような生物。そういう生物の魂を持っていて、間違って人間に入り込んでしまったのかもしれない。そうも考えた。
くだらない戯言だ。空腹が、男の考え、想像、反省を、明後日に追いやる。
どんなにありがたい話でも、どんなに関心を持てる話でも、どんなに刺激される話でも、足場、つまり、それを認識する自分自身。それが危うく、いつ崩れ去るかわからぬ状況では、何の価値もなかった。
何気なく、テレビをつけた。電気も水道も、三日後には止まる予定だった。ガスは一ヶ月前から止まっていた。
画面には白い猿が映っていた。南国の島々を巡る環境ドキュメンタリーだった。
その猿がココナッツを取り、齧っていた。自然の、その島ではどこにでも生えていて、誰か他の猿も食べたかったかもしれないココナッツを。
俺は、あの猿以下なのだな。
そうして、男は自殺する事を決めた。