1-3
──その光景の前には、すべての魔族と人間たちは立ち止まるしかない。
雨が降りしきる中の、功申の将と大将ドゥーゲの対面だった。
「大将ぉ殿ォ、そなたは我らの手に落ちられた。存ずまでも無かろ──「人間が、魔族などの、下に敷かれるだと?」
「ッ!」
申の将がドゥーゲの頬を張ったのはその瞬間だ。
烈火の怒りによって一瞬で真っ赤な紅蓮に顔を染めていた猿の獣将に、張られたドゥーゲは口角から薄い血を垂らした後、嗤った。
──申の将とドゥーゲの問答はそう終わった。
「ニンゲンがァ…‥──ッ‥!‥「申の将、下がれ」── ! 」
──腰に差した曲刀を抜きはなってドゥーゲの首に差しかけて
いた申の将が、その辰の将の言葉に従い、猿の動きで跳ねて下がっていくまで。
そして最後に無事で残された将軍の姿を、男と少女ら、そして残された全ての兵士たちは息を呑んで見るばかりであった。
そしてドゥーゲは、従えた従卒の手を借りてゆっくりと立った。
堂々とした出で立ちと振る舞いで、宣告した。
自らが連合軍第二方面軍団司令官、ドゥーゲ・アルチェノフであることを。
自らは一度戦場から脱出した後、勇士を率いて再び戻ってきたことを、それが残された将兵を安否してのことだと。
諸君等が敵の手に落ちんとも連合軍本隊は未だ健在で、降伏をしてはないことを、──なにより、人類は、未だ継戦中であることを。
捕虜──いや、この場にいる連合軍兵士の全てから割れんばかりの歓声が上がったのは、ドゥーゲが黙って、一瞬した後のことだった。
雨は降り続いている。
現実感のない状況に、なにより将軍の言葉の意味に男は呆然としていた。
しかし背後の少女らは、周りの大勢とおなじように感激して絶叫を上げている。
そして兵士たちの全てが、熱狂といっていいほどの昂揚をしていたのだ。
──連合軍兵士たちの士気がよみがえった瞬間だった。
「…フフ、フフ、フハハ、フハハハハハハハハハハハハハッッ
!!!!!!!」
その喝采を横から剥いだのは、女の竜人、辰蛇の将の嘲笑である。
人間たちへと向けられたのは嗤いに
笑んだその令顔だったが、直後に阿修羅の形相に変わり──
「やかましい!」
竜の翼を広げ、辰の将は“覇”を放った。
霧雨る雨霧を波のごとき風紋にして打ったそれはボウ…というような音を膨らませながら暴風雨の衝撃波となり、直後にはこの場のすべてのものが凪がれ、突風に打ち払われていた。
これに、たちまちに魔族と魔物たちは残らず平服しておびえすくみ、人類の兵士達もまた怯んだ。
だが男は、降りかかる飛沫と風圧の中で見た。
ドゥーゲ大将だけが、かけられた風雨に臆することはなく、それどころか泰然と、不敵の嗤いを相手達へ向けていた事を──
ニンゲン!
砦の中庭に旋風が過ぎったのはその瞬間だ
った。
余りにも強い風に人間のすべてが目を閉じたが、風が晴れた次の間際、この場にいる全ての兵士たちが目前の光景に唖然としていた。
象徴的な構図だろう。
姿見は少年の、年若い鼠の獣人である子頭の将はニヤァリと顔を笑いに歪めたまま、目にも留まらない俊敏さでドゥーゲ将軍を掴み倒し、足蹴にしていたのだ。
「──グ、」
「よくも姐上に恥を‥──」
「が! ‥…ッ…!」
ざわめき、次に憤怒が兵士達に満ちた。
兵士達の大半を占める亜人達にとって、純血を持った人間、そしてその一人である将軍は天の上の存在だ。それが、こうして辱められている事に対して、まず困惑し、次に万端の憤りを露わにする者が全てで
あった。うたがいをはさむまでもないほどに、彼らにとって純血のニンゲンは不可侵の象徴なのである。
「ふん、‥ふぅん」
子の将は、その足下で餓鬼と化したドゥーゲ、それへの兵士たちの反応とを楽しむように伺った。本心からそれがたまらないのか、小さな体を震わせたままだった。
そして子の将は魔族の怪力でドゥーゲを蹴り倒して仰向けに転がせると、この場にいるすべての兵士に、きって聞かせるように啖呵を吐いた。
「みろ、“ニンゲン”! これが負けた、ということだァ!」
──その言葉を言われた時、兵士たちははっ、となって、黙った。少女らは戸惑い、男は痛感した。
ただ、鼠も気づかなかったが、そのことに
はドゥーゲは、関心のない顔で無表情だった。
──無礼るな、鼠 ──
あるいは、ドゥーゲは、怒髪天を突いていた。
激怒を越えて、冷徹に、鮮烈な鉄火をこの鼠に向かって吐きつけたのだ。
言われた子の将が顔を僻ませた様は醜いものだったが、やはり卑しい笑みで顔を歪めて、それは足下のドゥーゲに踏みつけた足をさらにめり込ませ、そのことによって老将が呻き、衆人の怒気が増した事に満足したのか、元の少年の表情へとすぐに取り繕っている。
しかし、そのうえドゥーゲは、再び声を発して言い始める。いや、経典の詠唱だった。
「──“我らが主神、人類にあまたの光をもたらす神たちのそのおことばが、我らに魔
族と戦えとつげた”」
この場の捕虜たちのすべてが、はっとなった。
聖書の一節をそらんじながら言う。鼠を押し払い、今度は一人で立ち上がりながら、確かめながらドゥーゲは言う。
「無抵抗こそが、恐怖なのだ。
私はそれを痛感させられた──
汝等の誇りと勇気、そして愛と献身こそが、魔族に対する最大の武器であり、そして有効なのだ。
先の戦いはそれの証明だった。その証拠として現在もまた、人類の持続は継続している──私は、それだけを伝えたかったのだ。そのために、諸君等に会いにきた。
だが、それだけでは私の仕事は終わりそうにないな。汝等の迷える顔を見て、確信した。故に私が導く。
思い出してほしい。汝等がなにのため、だれがために戦ったのか。
降伏も、にげだすことも、あまつさえ、服従? 懇願? 隷属?
──汝等は何故戦いを選んだのか。
──諸君等は何故戦いを選んだのか。
──────我らは何故自由を得たのかッ。
────────我らの戦いは不滅なのだ。それ故だ。
──────────たたかおう。ともに、
──────────戦いは、不滅だ!」
老将は立ち上がりながら、それだけを吼えていた。
役者になったかのように一字一句をまくし立てたドゥーゲの台詞は、しかしはっきりと、この空間のすべてへと響きわたった。
それは魔将軍たちからも表情が失せさせて、その他の魔族たちは慄く表情となり、逆転していた天地が再び戻ったその現象の光景に、いまこの場に居る、後戻りのきかない人類の兵士のものたちは狂おしい感動に心打った。
振りつける雨粒も、小さくなりかけていた。昏い黄昏に和らいだ雲の下、その隙間から徐々に差し込んだ天の光が、砦の中庭へと降り降りた。
──‥これで神の威光を信じないものが、この場にいるはずはない。
ただ、もしそれを信じていない者がいるとすれば…──あるいは、この場の兵士の者達が本当に鼠の言葉の意味を理解するよりも早く、老将の返答は直後であることに、ドゥーゲの意志はそれだった。
魔族たちは畏れ戸惑ったままで、人間たちも、しかしこの場には脱出の救いがない。
──神々の戦いの舞台に選ばれたこの地に救済は降りなかった。
このまま永劫の時間が、ここで消滅しようかの様である。
──ん?
男がその違和感に気づいたのは風が止み、なおも散漫と降り注ぐ氷雨を避けようと腕を払った時だった。
音もなく、変化していた。
いつしか魔族達が一斉に、魔将軍も雑兵も、雨に打たれる中、境無く不乱に、地へと儀礼をかしづいている。
そして砦の楼閣のひとつ。その露台に、誰かの姿がそこにある気がした。──雨霧の向こうで、見えるはずがないのに、
その人物は、遠い高見から、この砦の中庭を劇場として見下ろすようであ
る。
その人物は、この壮大な演目に躍ろいたようであった。
そして霞みの向こうのそのひとは、自分の望む演題を待っているかのようだった。
わからないが、なぜかそんな気配が男にはしていた。
「…──興を興せ」
「御意に」
その時、──短いやりとりであったが、それだけを女の竜将は言った。
男の疑いと戸惑いをよそに、冷静を勤めんとする表情──まるでありえないことに、自分の傲りを率直に改めようとしているようにも見えた──をしていた辰蛇の将は、表情を元の怜悧に戻してから、その傍でかしづく戌戒の将に命じた。
「構えぇ、剣っ」
辰蛇の将は、続いて号令を放っていた。それに答えて、無数の剣の音
が続き、ひらめいた。魔将軍らとその配下たちが、剣などの武器を構え、この中庭を円陣で包囲したのだ。
「エイ、エイ、エイヤエイヤ、ヤイ、ニンゲンめ、図に乗るなぃ!」
戌の将は、獰猛な白犬の特徴を持った獣人の牝だ。そしてまだ年若く、健康だった。
その戌の牝が口上とともに見栄を切りながら、一直線にドゥーゲの元へと歩いてゆく。
そしてその目前に立った時、戌がうぉおおぉおおぉおおおおぉんと遠吠えした後、笑んで吼えた。
「“ニンゲン”! オマエたちは何故負けた。負けたのならば、その証を立ててみせい」
戌は続けた。しかし、全ての理解をするドゥーゲもまた、嗤っていた。
「よく聞けェぃ!
特別に恩寵のさずかられることを我らの貴き方が望まれた。故に与えるのだ。助かりたいのならば、“生かしてくれ”、“自分たちは負けた”、とすがりつけ。そうでなくば、死に腐れ。いいかぁ!」
「いらん」
ドゥーゲは言った。
──なんと!
戌の将は即答であったことに愕然して己の頭を疑い、次に己の耳を疑って、不審がったが、そこに子の将が答えてしまった。
「ふぅん、」「あ、」
鼠は首肯した様子で、確かめた。
「すると、だ。君たちは我らの軍門には下らない、と?」「お、おい、鼠…」
「当然だろう。魔族にはそうだ、私はそうとも、な」
「へぇ、」「おい!」
満足した様子で、鼠は
促した。戌はますます困惑したが──
「…なら、こうしよう。──“斬り合え”」“「「イェッス・サー」」”
「ッ」
ぶすり、
「──ひっ」
直後、人類達は絶叫に呻いた。牝の戌は唖然と悲鳴した。
鼠の目が妖しく仄明らんだ刹那だ。衆人環視の目前の捕虜二人が、魔族から差し出された二振りの剣で、互いの心臓を刺し貫きあったのだ。
その捕虜達はドゥーゲの直前にいた従卒で、その血が噴出した時、ドゥーゲはそれを浴びた。
「──き、キサマァぁっ!?」 「こうするのが手っ取り早いのさ戌、だから、わかったろう? 」
──天地は再び魔族のものとなったのだ、鼠はそう嘯いた。
人類たちは激怒したが、魔族たちもそうだった。果たして辰の将は、露骨に不快と嫌悪の表情になっていた。その行動は興の外である、と、
「ふっ、」
しかし鮮血を被った老将は、皮肉の笑みを湛えている。魔族などこの程度だ、と。それで鼠は顔を歪めた。
そのドゥーゲは、それから男も、またこの場にいる捕虜の中でも士官以上の者たちの大勢であれば即座に看破していたからだ。今のこれが、目前の子の将が強力で高等な魔力による精神操作を用いて為したことだと。
それ故に、男も含め、彼ら彼女らの捕虜たちのほとんどは、目前の魔族めらを絶対の絶後に許しがたんとする感
情と、それから、己達の死の如何は、最初から敵に堕ちていたのだという冷酷な現状の二つに打ち浸させられた。
わかっていないのは少女たちのような年少のものたちで、おびえながらとまどい、泣きじゃくりながら茫洋としていた。
だがさっきの感動が続いている上での今だったから、奴らは許し難いという総意が結論に導き出されるものとなった。
再び、男も、少女らも、たしかに兵士達は畏れた。
だが、ドゥーゲが焚き、我ら窮鼠たちの拭い切れぬ怒りによる憎悪と憤慨とが合わさったことにより産まれた種火がたった今灯っていた。
その種火はろうそくの火のように、小さな炎が爛々と大きくなるかに引き替えに、漂う場の空気から、目前に
ある生への希求が燃焼されて急速に薄れていく気配が、今しっかりと姿を現していた。
しかしその事に気づくのが遅れた男は、その違和感を後から感じることとなり、茫洋を続けるしかない。
「──ぃ、‥い、いいかァ! これが共食いであるぞ、多すぎる己等がの口減らし。そ、それがいい! よろしかろうっ、そ、それがよかれば‥──」
「よろしかろうよ、」
「な‥──」「そうか、」
──そのときのドゥーゲの顔は壮絶であった。
唖然を越えて恐怖を感じた戌の将を遮ったのは鼠だ。
「そうか、そうなのなぁ。ならばどうだろうな将軍、配下に手本を示してはいかがかな? まずは自分が、手下に斬られるさまからは
じめるのサ。どうかなぁ!?」
「それでもかまわんが、こうするのさ。貴様、神は信じるか?」
「神は死んだ。厭、これから殺す。我らが、貴様達の神を殺す。」
「だろうなぁ、‥おい、」
子の将は硬直したままの戌の将のその腰につけられていた大振りな刀を横から抜き放ち、顔に表情のないドゥーゲの目前に突き立てた。そしてドゥーゲはそれを抜いた。そしてのこっていた従卒を一瞥し、その部下らを立たせた。
「“連合軍の敢闘精神を、魔族めらにいまこそ見せつけてやる時だ”。‥おまえたち」
「「「はぁ、はっ‥?」」」
「気を付け、立てぇェェぇえぇェェぇい!!!」
「「「はっ、はぁっ!!!」」」
「 ‥──エイヤー!」
ぶさり、
「な、」
将軍がその口から放ったなにごとかの一字一句を男は理解していたが、しかし目前で繰り広げられた直後の光景は、あまりにも不条理だった。
「「グワアアァア!!ッ──」」
どさり、
断末魔が聞こえた瞬間だった────鮮血が迸って、血が降った。ドゥーゲ将軍は子の将から与えられた剣を振るい、その兵士たちを斬り殺したのである。
魔族たちは、目前の光景に呆然としていた。
ここまで四人分の血を被ったドゥーゲが、おそろしいなにかのように見えてならなかった。