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滴る雨の中。寅の顔の獣人が牙を剥いて言った瞬間、その毛並みに付きそぼった雨粒の全てはしぶきと化していた。
…──“此度の戦、誠に哀れだ。我らを排撃し、追いつめ、殲滅せんとしたあのニンゲンが、もがき、あがき、抵抗し、なんとか自分たちは助かろうと、多くのモノを生け贄にして、そして戦おうとした…──。
だが、負けた。キサマたちは、負けた!
──…その意味は、お主たちは当然に承知しておるだろう──”
寅の獣人──寅轍の将の宣告は、捕虜たちを睥睨し、吼えた所から始まった。
金色の眼を憎しみに剥いて、寅の尾を怒りに立てて、恨みにまかせて覇気を帯びたたせ、砕かんばかりの歯ぎしりを込めて、それから…──ニンゲンへの呪いと恨みを、寅轍の将はありありと披露した。詠唱した。吐き突けた。唾棄した。まるで降り注ぐ雨の全てが、寅の将の憤念が天に流させる涙のようであった。
そして、捕虜達へと言った。…決定的なさだめ。天運の全てが、自分たち魔族のものになったのだと。そして、暗明の差し引きが、人間と魔族とを分かったのだ、と。
だが、はっきりしている事が一つあった。そんなものに男の興味はない、ということだ。
よしんばあったとしても、この口上は聞き飽きている。所詮は是非の上下が入れ替わっただけである。
そんなことより…──
「………──」
捕虜達の表情を伺った。
怯えるもの、憎しみを露わにする者、あきらめる者、呆然のままのもの…
皆は相手への、恐れるものへの感情を露わにはするも、自らに希望をもつ者は皆無だった。
それはもちろんだろう。
これから始まるだろうことは、憎悪と恐怖をもって、人類の間では広く知られた魔族の伝統だ。
仮に知らない者たちも、自分たちの種族のなりたちは理解しているのだ。
ならば、畏怖するしかないだろう。男自らも、本音を言えば恐ろしかった。
男が圧迫から開放されたのはそのときだ。
寅轍の将の布告が終わりかけた頃、捕虜を押さえていた魔族たちが一斉に制圧から解いたのだ。
だが、捕虜達の表情が一様に恐怖に歪んだのがこの時だった。
これは良き事の前兆などでは決してない事を、連合軍の先任兵士以上ならば全員が具体的に知っていた。
なぜなら、今から魔族達がなにをするかなんて、決まっている。…──戦果の分配だ。
‥──女だ! 女は我らの仔を殖やすのに要る。女を連れて行け!
…──男は如何様に使いつぶせ。それぞれが好きにせぇい!!
……──子供だ。子供は旨い。今晩の晩餐にしろ!!!
………子供の女は使いでがある。残せよ!
再び以上の阿鼻叫喚だった。
始まったそれに、地獄の開始かのように兵士たちは泣き叫び、怒り喚き、しかし…それ以上に無力であった。いくら慟哭しようと、無駄であった。なされるがままに、されるがままでしかない。
首根っこを押さえていた魔族が捕虜を連行する。連行される者たちは、連合軍の兵士達だ。その兵士達は壮年から、幼子までいた。男女の境もなかい。だが魔族達はそれらを、ねこそぎ剥奪するのだ。
勢いのままに狼藉を振るわれ、絶望と血潮に沈んでいく者もそこかしこに現れた。だがそうした累に出た魔族たちは後ろから味方の督戦に切り捨てられ、砦の中庭には兵士と魔族の死体が平等に散乱していくこととなった。
たちまちの内に捕虜の四分の一が片づけられ、中庭の向こうへと消えていった兵士たちは、十二将のそれぞれの持ち分である魔族の輸送隊へと積載されるまでが手筈だろう。
「‥……──ッ゛っ、」
男はまだ連れて行かれていなかった。
背後の少女達もそうだ。おそらくは、捕虜を確保した魔将軍らの位に応じて、連行の順番を決めているのだ。魔族らしい主義と制度だった。
その目で男が諸悪の根元をみたとき、遠い雨霧の向こうの魔将軍達は嗤っているように視えた。
いや、よしんばそうでなかろうとも、文字通りの悪魔に他ならない。
十二の表情、十二の顔、十二の悪魔、男は脳裏にそれを刻みつける。
だが…
男は無力だった。
なにも出来ず、自軍の兵士達が拉致されるさまをみて、愕然となった。
彼は、収奪される兵士達の向かう先を知っているのだ。だからこそ、呆然とする顔の下で、腹の底で下限のない憤りと責め立てられる思いが湧いて出てきていた。
彼らが何故、我らの戦友になったのか。何故故、我らと同じ戦いに導かれたのか。
やめろ!
…──男は士官だ。連合軍の士官。それ故、絶叫をこの時していた。
叫んだ男をみて、泥水の中の少女たちもまた呆然とした。
…──長年に及ぶ戦乱、その蓄積された分析と記録は、連合軍捕虜が向かう先をも明確に予言する。魔族勢力の本土だ。
魔族の殲滅を掲げる人間側の連合軍は魔族の捕虜を取るのに積極的ではないが、魔族側の、帝国軍…──正式名称はそれであるが、人間側では宣撫のために魔族軍と蔑称されるのが通常である──…は、人間の捕虜を取るのに勤しんでいる。もっとも今目前の光景がそうであるように、人道的というものはない。
魔族軍が捕虜を取るのには理由があり、それは国家の殖民と殖産に有効だからである。
疲弊した人口を人間の婦女子を用いて増殖させ、荒廃した国土を人間の青年男子を用いて回復させる。子供は男も女も、食用にされるか、愛玩にされるか、およそ半分の確率とされる。
なぜそう言い当てられるのか、──生きた証人たちがいるのだ。
人間側に元々与している異種族の人類とは別に、魔族側で生まれ育った魔族と人間との混血が、魔族勢力から逃れてくることが永きにわたり、多数頻繁に、現在も継続している。平穏を望む彼らは人類勢力側に亡命して、その一部となる事を望んだ。そのため、本来は難民という正当な身分を持つ。
魔族内で悲惨な排斥にさらされて、というのが無二の理由だった。
彼らは帝国の皇帝から“雑種”と賤称されて、帝国臣民にはなれない。魔族からは家畜として扱われて、あらゆるときにおいて魔族というシステムを維持するための補給消耗品として用いられ、こちらでいう人権というものはない。
だが、大抵の場合、人間側においても処遇は劣悪であった。連合国市民としての階級は三等以下で、“魔族ではないが、人間ではないものたち”、つまり亜人と総称されて、現在では、およそあらゆる時に純血の人間の身代わりにされる。
亜人たちのおおよその見た目は、人間と変わらない。人の心を持ち、愛の感情を持つ。だが、魔族の異能を持ち、その特徴を身体に持つ。それ故にニンゲンに頼られ、それ故に排除された。
この由来に、理屈はある。
魔族が人間の婦女子を浚った後、もしくはその逆としても、繁殖による増殖では当然混血となるが、人間と魔族との血の強さは、およそ魔族側に濃くでる場合が大抵だ。それゆえ、真に人間としての心はともかく、魔族としての能がその身体に強く、象徴的に現れる。
即ち、魔族が己達の種族の同一性を最低限保つことは確保されているが、人間として見なした場合は、確実にそうではない。
そして種族の同一性を生物的特徴によって保てている筈の魔族側でも観念的倫理もしくは論理によって排除され、そして人間側に逃れたとしても、万難が待ち受けている…──
万難の象徴、それは今の連合軍だ。
純血の人間種たちは貴重な精鋭階級として直接の戦争の場に降り立つことはなくなり、士官以上から将校、将軍、そして指揮を司る組織の中枢首脳部を辛うじて勤める位でしかなくなった。
代わりに現場の兵士職が、人類社会における、亜人のたどり着ける最大の居場所となっている。
初めは魔族にあらがう人間たちの大義と理想と自由の象徴として、華々しくその一翼に加わった筈だった。
だが激しい戦闘を重ねていく内に既存の人類兵士たちの損耗は累積され、それとは間逆に、魔族領から逃れてくる難民‥亜人達は途絶えることなく、数を増していく。
…──なにより、人ならぬ魔族の異能を受け継いだ亜人はふつうの兵士以上に強力で、生き残り、次々と戦果を残していった。
そして兵士になる人類種よりも兵士になる亜人の数が上まった時から、純血の人間が戦争に加わらなくとも済むようになり、亜人と人間との明確な階級化と階層化が加速された。
「あっ‥‥──あぁ あぁあああああ ああああっ‥‥」
「いっ、嫌、いやだ、あっ──」
「ぎゃぁああああああああああああああああああっ!!!!!!!!」
結果は承知の通りだ。
現在、連合軍の七割以上の下士官/兵士の現場兵員は亜人種が占めている。
だがそのことに、彼らは誇りを持っていた。
自分たち人類の、同じ人類を守護する力なのだという自負がその源だ。
今男がいるこの場の、捕虜のほとんども、亜人だった。
最後の戦いの終わりの日、敗走する本部部隊の撤退の為に発令された遅滞作戦。敵を遅らせ、滞らせる為の作戦。その殿を命じられ、そのまま残留し、最後まで戦場で戦ったのが彼らだった。
はっきりと、愚直に最後まで命令を信じ切った。仲間たちを一人でも多く脱出させるためと、忠実に実行した。その生き残りが彼らだ。馬車に同乗していたあの少女たちも、そうだった。
その彼らは今から、魔族の消耗品として使用される。
亜人達には希望がある。
無事に軍歴を勤め上げれば名誉市民として一般の人類市井へと迎えられ、それからはいかなる差別が向けられることなく、ふつうの人間として生きていける…──連合軍軍組織と構成各国家の改革によってなった、亜人種の兵員が共通して受けることのできる名誉報償としてだ。
その恩恵をすべての彼ら彼女らは常に、絶えず渇望してきた。その希望を胸に、誰よりも勇敢に戦うのだ。
だが、それを獲得できた者は軍の歴史上皆無でしかない。
なぜなら、生き延びられないからだ。
階級と自らの所属階層に甘んじて指揮する部下に対する敬意を失い、なにより現場がわからなくなった上層部の人間は亜人の兵士たちを明確に使い潰す。あるいは使い切り、使い捨てにするようになり、しかしそのことも原因して連合軍の破竹の快進撃が始まったことで、いよいよ亜人に対する容赦の一切は棄てられたからだ。
無茶な作戦は常態化し、無謀な命令指示は常に亜人の兵士に下され、代償は彼らの血によって購われ、そして形ばかりの勝利を得、振り出しから繰り返し、それが慢性した事で組織は硬化を起こし始めた。
魔族と戦い、人類を守護する盾、人類連合軍…──その実像はいつしかそうなりつつあった。
だが、いやだからこそ、その連合軍の士官である男は知っているつもりだった。いや、思い知った事だ。
男が士官学校を満了し、任官されたのはそんな時だった。だからこそ、何度も教えられた。経験した。その末に学んだ。
士官が得られる成果は、なによりも、実役に従ずる兵士の奮闘と努力と献身、…──犠牲の元に始めて実現し得て、なされた物であるのだと。
そして、その組織の血肉こそが何たるか。
男がその目で見てきた限り、最大の犠牲がもたらされるのもそうだった。
神と悪魔、冥界と天国がひっくり返ったとしても、最後方で作文とふぬけた野心とやらに勤しむ将軍どもの功績ではあったとしても、戦果や成果では断じてなかった。
だから、士官としての男が最善のために励んでいたことがある。
部下を敬すること。部下が努力するとき、自分は最大の努力をすること。
最後に、自分はこれらの順序の主従を違えないこと。
前提的なことばかりであったが、真摯だが不器用な男が誠実に果たしてきたことでもあった。
そうして勤めたその実績も、自らに佐官の序列を反映させる程に。
だけども…──、自ら一人だけが捕虜となり、生き残ってしまった男の感情は“無念”だった。
自分は生きていた。
あの晩に自分が死ななかったのは、男は間違いだと思っている。
同じ飯を喰らい、同じ床で夢を見、そして同じ任務へと共に何度も自分と共に従じてくれていった、自分の部下たち、‥──戦友達。
その亜人達は、他の何者でもない男、その自身が指揮した“任務”によって、殉職した。
なぜ、自分は生きている。
もういい、余計な言葉も、修飾も棄てよう。
後悔だった。部下たちが死んだ。彼らは自分の指揮によって、死んだ。そして自分はなぜか生きている。男の後悔はそれだけだった。
(‥…‥──…‥…)
ようやくそこまでたどり着いた。
いまさっきの瞬間、奈落のような彼らの断末魔を聞いた瞬間から男は目を閉じていた。その必死に閉じている筈の瞼の裏が温くなっていた事にも気づいていたが、糸で縫い合わされたかのように開けることができない。
あの日目の前でみた部下らの断末魔と悲鳴に重なって、それがよみがえっている。
──同じ犠牲が、繰り返されようとしている。
もし目前の光景を見てしまったら、正気ではいられない予感があった。…それからの防衛本能だろう。
堪えようと、男はさらに目を瞑ったときだった。
「‥ん?」
「おい、ここに将官首が一匹おるぞ!」
閉ざされていた男の眼は、まだこの時も伏せられていた。
だが閉じていた男の意識を確かにのぞかせたのは、そんな魔族の声が中庭の片隅に上がった瞬間である。
「‥──ほぉう? こりゃ驚いた、姉御、いや、辰の将!! こいつは、ニンゲンの首領首ですよ!」
「‥…」
「功申の将、みせてみろ。………‥‥‥‥──ふっ、ハハハハハハハハハハハァッ!!!
…‥──お初にお目にかかる。人類連合の将、ドゥーゲ将軍」
「──魔族か、」
ドゥーゲ将軍?
なぜ今作戦の第二方面軍司令の老将が、こんな場所で、捕虜に?
いや、だいたい、もしくはあっても、そんな、確かに、
──もしや、いや認めたくはない。だが、そんな、そんな!
…──殿は失敗したのか?
…‥閉じられていた男の瞼が、驚愕によって開かれていた。
間違いなく将軍だ。
従卒の人数から装いまで、あの日最後の、はっきりとした男の記憶に合致している。
そして男の目は絶望によって開け放たれ、次いで、とりかえしがつかないのだという底のない無力感で顔は真っ青になった。
自分たちが、かけがえのない部下たちが最期に救った筈の自軍の将。それが捕らえられていたのだから…‥