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「…──…‥」
疲れた、というのが実直な男の感想だった。
顔は血を滲ませながら真っ黒に汚れきり、その表情は、悶え苦しむにも疲れ切っていて、怒りを浮かべるにも冷め切っているようでいて、開ききってぎょろりとした目が、黒い顔の上でひたすらに浮き彫りになっている。
修羅僧の様なそんな形相であるが、男の心は呆然としていた。
厳めしい壮絶な顔面であっても、誰に捧げるべき経典はここにはなく、祈りをささげる相手を遠い場所に置き去りにしてしまった男は、ただ、じっと、潮の底の貝のように目の前の虚をみつづけるしかない。
そうして目の前をみるしかない男は、しかし、それでも念じた。
ただそうして、目を閉じて瞑目するのも忘れて、にわか坊主のたぐいになることもなることも忘れて、ひたすらに祈らんとした。
男は老人になりかけていた。
だが、年寄りではなかった。人死にの激しいこの戦乱の世界においても、年寄りと呼べる年相ではまだない。
しかし、その生まれ持っての形相が、腹の本音を何倍にも大写ししやすい形作りときていた。自らの仕事にそぐわないそれ故に、おおよその損を男にさせてきて、若造でいるにはあまりにも年を食わせすぎてきてしまっていた。
つくづく運が無く、そして、ついぞこのようになったのが男だった。
その男が、意識の焦点をゆっくりと動かした。
遠い時間の果てに向かっていたものを、自分のいる現在の今へと回復させて、たどりついたのがこの刹那だった。
「……──…」
がた、がらん、がたがた…
今、男が乗せられている幌付きの大柄な馬車の荷台には、男と同じように手枷と足枷を填められて、そして怯えに震え、不満と拒否を怖がる表情の人物たちが乗せられている。
並べられたその有様は、まるで市場の果物売りが不出来品を纏めたかのような様子で馬車の中に押し込められた物だ。
がたごとと揺れる荷台の上でずたぼろの手足に着けさせられた枷の鎖をならさせながら、男自身も出荷の途中にある。
ただ、同便のそれらは他人で、別人達だ。
男とつながりがあるものは、探そうとする以前に、ここには存在していなかった。
男との差異もそうだが、それらは男の望んでいた者たちとも違っていた。
顔立ちは一様に整っている人間のものであるも、男とは種族がちがった。ただ、それは男の知るものたちと同じであった。
顔つきの元々も、どうやら大勢の方は男の顔よりも陰気な物ではなかっただろうが、それも違う。
年少の者たちであるのは男は察している。
水平に目を伺おうにも、頭の高さも肩の高さも、みな男より低いのだ。
しかし、それは年のせいばかりとも言えぬ道理であった。なぜなら…──男を除いては、若い女、いや…少女…ばかりがこの馬車の貨物だからである。
白い翼を持った翼人、
人の物ならぬ耳と尾を持つ獣人の勢、
その身に神性を宿すと伝えられるエルフの民、
愛くるしさだけでなく強かさと賢さをも併せ持つ妖精、
秀でるものをそれぞれに持つとされるが、今は何も武器を持たぬ小人達…
…──そして、只の人間も。
自分のその他が子供だけしかいないという様相に、男はこの戦いの結果とその因業をいまさらに承知するしかなかった。
それ故に顔を鈍く歪めたが、様子をみた少女たちがわからずに怯えかけたのをみて、男は無理に柔らめていた。
一様に共通しているのは、男も、それ以外の人間たちも、元は華美で勇壮な格好の装い…軍服を身にまとっていた、らしいことにある。
只、今はその全てが、バラバラにほどけかけて破れ、土と埃と泥にまみれて、それから所々に血のこびりついた、ちぎれかけのクズ布のボロきれでしかなかった。階級章も装飾も仕立ても手入れも、本来それらの示す、だれのどちらが偉くてどちらが下だったか、なんてわからないほどに。
だが、それが、同じ戦いの時を同じく過ごした、彼と彼女らのただ一つの共通点だった。
この馬車も、実をいえば男やその仲間たち、それとは別の今、この馬車に乗せられている者たちを運んできたそれらのそのひとつ、軍用のそのものであった。
ただ、馬車の先導を取る兵士は、いない。
馬車を引く馬車馬の首からはさらにその先へと綱が延びていて、一頭の、馬ではない、人間が乗れない怪物へとつながれている。
先行しているのも後続のも、同じように曳かれていく馬車は数え切れない。
そしてその怪物は、人間ではない異形の者が手綱を握っている…
しとしと、しとしとしと…
すすり泣く声にも似ていたが、あるいはそのものだったろう。
止むことのないように思える雨が、馬車の幌をたたき始めていた。
それは音の嵩を増すことによって、この場にいるすべての負けた者に皮肉と冷笑の時間を形作っていた様だった。
がたん、ごろん、がた、がらん……
「…‥───ッ!」
がたん、という揺れの音とともに、作りは柔くないがしなやかと言うものでもない馬車が弾んだ。
そのときの揺れの勢いによって体の様々の傷口が開き、男は恐ろしいまでの深い形相でぐっ、と痛みを堪えた。しかし、不幸と言えるかであるが、次の瞬間には顔面だけ魔族が、人間だけの馬車に一匹まろびでた。
少女達は動転して、おもわず、馬車の中の一同はうわずった声で震え上がった程だった。
されど災難は尚も続いた。
着地の間際、泥道に轍が食い込む刹那である。
するとその振動と衝撃によって、男と同じく乗せられている人間たちは、そう小さくはないが馬車なりの程度の大きさである荷台の上で押し合いへし合いになった。
少女、いや子供の一同は互いが互いにぶつかり合い、打ちのめされて、途端に悲鳴で喘ぎ、嗚咽し、己達の不幸への嘆願に耳をつんざきあった。
だが、男もまた不幸である。
尚も続いた揺れの時、開いたばかりの腹の傷口に、悲鳴とともに衝撃で飛んできた目前の子供どもの頭によって、頭突きを連発して喰らわされたのだ!
頭突きを見舞った少女達の方もたちまち頭を押さえて転がっていたが、これには男もたまりかねて口角から泡が吹くほどで、唸りながら沈没していた。
………
“り、…たちゃん、ど、どうしよう”
“ご、ごめんなさい! ごめんなさい、ごめんなさい…だからおきてくださぃ、お、おねがいです。──か、かみさまぁっ!”
ぬ、う、
“あっ”
揺れが止んで再び轍を刻む音が戻った頃、少女もとい子供の一同は泣き出さんばかりに恐れつつも男の様子を伺っていた。だったが、擱座から復帰した男の形相を見て、やはり怯えるしかない。
男の方は、まあ無事である。
だけどもこの子供どもの倍以上は年嵩を重ねてきた顔面だけ魔族の男にしても、この時ばかりは己の情けなさに甘んじて、相手に如何に悪意がなかろうとも理不尽が吹き出した。
だから立ち上がり、怯えすくむ一同を前に言い掛けた途端‥──それを止めていた。
自制でも矜持でもない、只単に、呆然となったのだ。
自分らは、戦った。
今はもういない部下らは、三日三晩不眠不休で戦った。
それへの報いが、その成果、結果が、自らの今、この一瞬であると?
──ふざけるな!
男は己の努力に真剣な人物だ。今、こうしてここにいるのはそれが原因だった。
いつしか再び暗黙が馬車の中に充満したころ、素面になって立ち尽くしたままだった男は再び座り、その他から背いた。
そして‥今度こそ魔族のようにうなり声を遠く、高く散らした。
少女の一同はわからなかったが、悲しいと思う声色であった。
* * *
やがて、馬車の引列は城壁の前へと導かれた。
つい三日前まで人間軍の砦だった建物だ。
赤茶色の防壁と城郭のそれらは、人間勢力と魔族勢力との境界…最前線地帯で、もっとも魔族側に近い人間側の橋頭堡として連合軍の象徴とされてきた物だった。
それを今や魔族達は占領していて、これからは自分たちの拠点とするのだろう…‥大勢の魔族の雑兵や魔物達が破壊された箇所の修復に取りかかり、砦の楼閣に自ららの旗を掲げ、そして──我が物顔でのしのしと動き回って居るではないか!
「そ、そんな…‥ぁ」「う、うそだ!」「‥ぁ、ぁあぁああッ!」
馬車の中は慟哭に染まった。
少女の一同が愕然となったのだ。あまりにも決定的なそれに、目を見開いたまま嗚咽と号泣が始まったのもいる。
まだ痛む腹を押さえながら、復活していた男であったが、今度はどうすればいいのかがわからなかった。
ただ、その時に声が聞こえた。少女達は顔を見合わせあったが、男は苦しみの表情になった。
同じ光景を見た馬車の虜囚でも、他の馬車では事情が違ったのだ。怒りと憤然の声が思わず上ったのだろうか、どよめく声が聞こえてくる。
続いて、枷されて動けない身体ながら馬車の上で激しく暴れ出し、魔族に一矢報わん、とするのか、がたがたと馬車が揺れる音と怒号が聞こえた。しかし、それらの戦意は、馬車達が城門をくぐり抜けた次の瞬間には瓦解した。
…──あ、あれは!
防壁内の中庭。そこに雑然と並べられる馬車達を前に、砦の中から“奴ら”が現れたからだ。
それは、この戦争でもっとも人類の生き血を啜ってきた十二体のバケモノども…魔将軍たちだ。それらが待ち受けていたのだ。
「‥──引っ立てぇい!」
魔将軍の一人、竜の翼を生やした女魔族の身体をした、辰蛇の将が号令を上げた。
すると待ちかまえていた大勢の魔物たちが馬車へと殺到し、乱暴も強引もなく人間達を引きずり出した。
男の乗る馬車も同じだった。
同乗の少女達は、怯える瞬間もなく魔族達に掴み絡められていた。
男の方は、放られるように叩き出されていた。
そして男も少女たちも、ただやられるがままに、地面へと投げつけられたのだ。
阿鼻叫喚が飛び交った。
他の馬車も同様に…──抵抗を試みた者は即座に首をはねられていった──…引きずり出されていき、そうして、すべての兵士の捕虜が十二の魔将軍とその配下たちの前へと首を並べさせられていた。
その時には、喚き叫ぶ声は失せていた。
なぜなら、水泥の感触は冷たかったからだ。
魔物の一匹に首根っこを掴まれ制圧され、他と同じく、男は押さえ込まれている。それでも、半分の頭と眼をくばって見渡して、この中庭に集められた兵士の捕虜の数のおおよそを見積もっていた。
…──ざっと数えて、千よりは少ない。だが六百よりは多い──…
意味は、ある。職業病というのもあるが、あの戦いの意味を知りたかったからだ。
そしてあれだけの殲滅戦だったのに、百分の一以下とはいえ、予想以上に生き延びた者は多いようだった。しかし、それが幸運ではないことを男は承知していた。
少女達のことに考えが及んだ時、背後の気配を探った。
自分と同じように制圧されているからかふうふうと喘ぎ啜る様な声が漏れているが、それでも大事には至っていないのだろう、息の根自体は全員分健在だった。
男は、再び前を向いた。
(続く)