9:行動指針
俺がこちらの世界に来てから初めて朝焼けを見たのが、戦いの最中だったと言うのは、なんとも皮肉なものだ。
真剣な戦いの最中ではあったけれど、真っ暗だった空が遠くの山との境界から少しずつ明るくなっていった。
空が青紫色からローズピンクへと変わり、やがて明るい青へと変わって行く様子は、とても美しいものだ
緊迫した戦いの中でも明鏡止水な境地に入っていた俺は、それに気付く余裕すらあった。
それは殺伐とした戦いの中で見るのでは無く、出来ればじっくりと眺めていたいものだった。
すっかりと明けてしまった空を眺めて、俺はそう思った。
そして、俺は何事も無かったかのように、結界の中へと戻る。
俺はみんなが目を覚ますまでの間に、こっそりと小麦粉を練ってパン生地を作っていた。
材料は、すべて俺のアイテムBOXに入ってるから、手順さえ間違えなければ問題は無い。
この3週間で身に付けた生活の知恵の一つが、このパン作りだった。
こっちの世界にも、製粉度の高い質の良い小麦粉があるのかは知らないけれど、基本的に粉末のイースト菌と小麦粉さえあれば味は別として、パンは俺にだって焼くことが出来る。
自分で作るまで知らなかったけれど、俺が元居た世界で食べていたパンには、驚く程の量のバターや相当量の塩や砂糖が入っていたのは、かなりの驚きだった。
それを見る限り健康という二文字は、美味しいと感じるパンの中には存在していなかった。
元居た世界で紫織が話していた事だけれど、お菓子と言う物も信じられないくらいの量の砂糖やバターや塩などを使うらしい。
自分でお菓子を作っていると、それだけでお腹一杯になっちゃうとか、そんな事を言っていたっけ……
たった3週間の経験だけど、自分で作ってみると色々と判る事がある。
材料に塩や砂糖を練り込む物は、表面に振りかけて味付けをする物に比べて相当多い量を入れないと、まともに味がしないのだ。
イオナたちが居た頃のこっちの世界は、イースト菌なんて物は存在していなかったそうだ。
だけど想定通りに72年も経過しているとするなら、流石に文化レベルだって相当に進化している事だろう。
アイテムバッグからダッジオーブンを取りだして火に掛けると、充分に熱してから、中にたっぷりのバターと塩と少しの砂糖を練り込んで充分に寝かせたパン生地を入れる。
そして、重いダッジオーブン独特の蓋をした。
コーンスープがインスタントの粉末なのは、我慢して貰おう。
一応、フリーズドライのコーンも入ってる事だし……
ポットに水を魔法で満たして、遠火に置いてあるダッジオーブンの隣に置いた。
ここなら少し火が強いから、パンが出来上がる頃には、お湯も沸いている事だろう。
なんか、雰囲気的に魔法でお湯を出すのは無粋な気がしただけで、特に意味は無い。
なんとなく、ホーローのずっしりとしたポットでお湯を沸かしたい気分だった。
俺は立ち上がって両手を大きく上に挙げると、ひとつ大きく伸びをした。
今日こそは、いよいよ街道に出て近くの村へと行くのだ。
あのダークエルフは別として、普通に暮らしている異世界人との初めての遭遇まで、あともう少しになった。
一気に色々なことが、これから動き出すのだろう。
「和也よ、おぬしまだまだじゃの」
「和也兄ちゃん、これ焦げてるよ…… 」
「そうかしら、焚き火の火加減は難しいから良く出来た方だと思うわよ」
「まあカズヤにしては、上出来なんじゃないかしら?」
「ウン!美味しいネ!」
「ゼンゼン問題無イな」
俺の作ったパンの評判は、残念ながら芳しくはなかった。
確かに、オーブンのように火加減を機械が調節してくれる訳では無いから、俺の場合は魔法に頼らない火加減の調整は、まだ偶然に頼る事しか今は出来ない。
今回は、それが裏目に出たという事だと思う事にした。
火加減のノウハウさえ判れば、魔法でどうにでもなるのだから、今ここで気にする事じゃない…… はずだ。
気にすることじゃ無いのは判っているけれど、やっぱり料理は本気で美味しいと言って食べてもらえないと、思っていたよりもショックが大きかった。
今まで作って貰った料理に対して好き勝手を言ってきたけれど、これからは反省しようと思う。
「ふむ、食べられるものが出来ただけ上等じゃカズヤよ」
俺の隣に座っていたバルがボソリとそう言って、焼き過ぎて堅くなったパンを濃いめに仕上がったコーンスープに浸けて、パクりと口に入れた。
慣れない事はするんじゃ無かったと半ば後悔をしていた俺にとって、バルのその言葉は救いに聞こえる。
「ふむ、なかなか美味いぞ!」
続けて好意的な感想を述べたバルの様子は、俺を気遣った口先だけの嘘には見えなかった。
それを見て、みんながコーンスープに出来損ないの堅いパンを浸けて食べ出す。
「うむ、焼きすぎのパリパリ感が逆に丁度良いのぉ」
「あら、本当ね」
「和兄ぃ、これ美味しい」
「ふーん、嫌いじゃ無いわねこれ」
「ウン!さっきより、もっと美味しいネ」
「美味イね。」
幼女バルさん、イケメン過ぎ!
ちょっぴり落ち込んでいた俺は、その気遣いがとても嬉しかった。
「サンキュー!バル」
俺は、嬉しくて思わずバルの頭を撫でてしまった。
プラチナブロンドのストレートヘアが、サラサラして心地よい。
みんなの注意がスープとパンに向いている時、バルが俺にだけ聞こえるような小声でボソリと何かを言った。
それが何と言ったのか聞き逃してしまい、俺は頭をバルの方に寄せて聞き直す。
「今朝は、夜明け前から物騒な事になっておったようじゃな」
俺はビックリして、バルから頭を反射的に離す。
改めてマジマジとバルの顔を見ると、朝日を浴びて絹糸のような繊細なプラチナブロンドのロングヘアーをキラキラと輝かせた幼女の顔は、何事も無かったかのようにこちらを向いておらず、その顔は手にしたスープカップに向けたままだった。
「お前、もしかして起きてたのか?」
俺は、再びバルの顔にくっつきそうな程に自分の顔を寄せて、そう聞き直す。
バルは、俺の方を向きもせずに、パンを食べることに夢中になっているような仕草で、器用に返事を返してきた。
「あれ程の気配、音を遮っておったようじゃが、気付かぬわしではないわ。 いざとなれば、わしがみんなを守ってやる。 カズヤは余計な心配をせず戦わねばならぬ時は、遠慮無く戦えば良い」
俺はバルが戦闘に気付いていた事に驚き、そしてみんなに黙っていてくれる彼女の心遣いに感謝した。
それと同時に彼女の秘めている力に対して、俺は底知れなさをも感じていた。
「コホン!」
「エヘン!」
バルに向いている俺の注意を引き戻すようなタイミングで、突然二つの咳払いが聞こえて、俺はバルに寄せていた顔を反射的に戻す。
そして恐る恐る音の聞こえた方を向くと、アーニャとメルが氷のように冷たい視線で俺の方を見ていた。
思わず、俺は何も悪くないのに反射的に目を逸らしてしまう。
どうでも良いけど、俺は何か誤解をされているようだ。
なんだかアーニャとメルの視線が妙に冷たくて痛いけど、それは気のせいだけでは無いだろう。
バルはと言えば、そんな事には委細構わず、マイペースでコーンスープに浸したパンに齧りついている。
俺は理由も判らず、ゴクリと音を立てて唾を飲み込む。
そして、何かを誤魔化すように左手に持ったコーンスープに右手のパンを浸し、無言でそれを口に入れて咀嚼するしか無かった。
そんな俺たちの会話が一段落したところで、イオナが真面目な顔で口を開いた。
全員がこれから話される事を予想して、静かに居住まいを正す。
「さて、今後の予定じゃがの、まずは街道に出て近くの村を目指すことになるじゃろう」
イオ爺、いやイオナが今後の行動指針とでも言うべき事を話し始めた。
理由は伝えられていないけれど、最初に近くの村へ行く事は、当然全員が知っている事柄だ。
バル以外の全員が食事の手を止めて、イオナの次の言葉を待っている。
バルはあい変わらずのマイペースで、パンをはむはむと囓りながらイオナの方へと、透明感のある大きな瞳だけを向けていた。
「ここからは人目があるやもしれんでな、歩くのに和也の加速スキルを使うのは無しじゃ」
確かに、言われてみればその通りだ。
もしも、動画の早送りのような速度で俺たち8人が街道を歩いていれば、嫌でも人目にもつくだろうし、不審の目で見られてしまうかもしれない。
「擬装用の荷物を持った上で長時間の徒歩移動になるでな、疲労軽減の為に低レベルのブレスは掛けてもらうとしよう」
これは、事前にキャンプを出る前に説明があったから、みんな頷いている。
だけどこの3週間余りの訓練で、相当に俺たちは体力が付いたと感じているから、多少の負荷は気にならない気もする。
「俺たちが今のままでは、この世界の旅人にしては軽装過ぎるって事だよな?」
一応判ってはいるけれど、念押しのために質問を投げてみた。
普通は俺たちの所持しているアイテムバッグのような、大量収納が利く便利アイテムは、そうそう有る物じゃないだろう。
「そうじゃ、仮にわしが知っている時代から72年経っているとしても、未舗装で荒れた道路の様子からしても、まだまだ旅の主流が自動車になっているとは思えんでな」
「おっけー判った。 野宿する用品が入った荷物を、重そうに持ってる風にすれば良いんだよな」
「まあ、野宿自体が一般人には危険過ぎるでな。 それなりの冒険者パーティでもなければ野宿などやる者もおらぬかもしれぬが、そこは状況を見て判断するとしようぞ」
全員が、無言で頷いた。
イオナやレイナだって、仮にこの世界が元居た世界だとしても、久しぶりなのだ。
だけどこの世界の事を知っているのは、お姫様で野宿などしたことの無いメルを除けば、イオナとレイナしか居ない。
だから、ここは二人の判断を頼るしかないのだ。
イオナが言うには、近くに見えた村まで目測でおよそ40km~50kmだから、歩いて二日は見なければならないらしい。
マラソンならトップクラスのオリンピック選手が2時間半から3時間以内で走りきる距離だろうけれど、俺たちが徒歩で適宜休憩を入れながらとなれば、最低でもそのくらいは掛かるのだろう。
果たして二日目の夕方に着くのか、それとも行き着けずにもう一泊して、三日目の昼に着くのかは判らない。
そういう事は、これからのペース次第なのだろう。
「この先にある村へ行く第一目的は、この世界の事情を知ることじゃ。 まず今が何年なのかを知る事。 次に、わしらの知っておる常識との違いを確認せねばなるまい。 最後に、わしらの居た時代のお金が使えるのかも、知らねばならぬじゃろう」
イオナが最初に大きな町では無くて、近場の村へと向かう理由を話し始めた。
それに対して、俺が疑問点を問い直す。
「お金は使えないと困るから判るけど、常識なんて何年後だって、それほど大きく変わるもんじゃ無くない?」
「基本的な常識や習慣は、住んでいる場所によって大きく変わるものじゃ無いかもしれないけど、国によって法律やルールは違う事だってあるわね。 それにもし72年も経過していたら、その常識だって少しは変わっている可能性があると思わないとね」
イオナが答える前に、レイナが代わって俺の疑問に答えてくれた。
だけど、それでも俺の感じる疑問は解けなかったので、重ねて聞き返す。
「例えば?」
「そうね、私たちの居た時代なら、盗賊は問答無用で殺して良いというのが常識だったけど、もしかすると日本に居た時のように人殺しはダメだっていう事が常識になっていて、それを私たちが知らなかったらどうなるかしら?」
「下手をすれば、こちらが捕まって処罰されかねんの」
レイナの例え話に、イオナが補足をしてくれた。
確かに、知らないうちに犯罪者として追われるような事には、俺もなりたくは無い。
社会の暗黙のルールとか法律とかは、この世界で生きていく上で、知らないでは済まされないだろう。
そしてそれは。俺の身に長い事染み付いている日本のルールが、こっちの世界では通じない事も予想して動かなければならないと言う事だ。
「わしらが転移した72年前の日本は、近所で悪さをする子供を見つけたら、自分の子供でなくとも、その場でゲンコツをくれて遠慮無く叱ったものじゃ。 しかし、その72年後はどうじゃ? そんな事をすれば児童虐待や暴行傷害で訴えられて、警察に捕まるのはこちらの方じゃの」
「判ったよ、事情が判るまでは迂闊な行動は控えるべきだね」
「そういう事じゃ」
判りやすい例えに、俺は納得した。
俺の暮らしていた日本ですら、時代によって世の中の常識は変わっているのだから、イオナたちが知らない常識が有っても不思議では無い。
イオナとレイナが、俺の居た時代の日本に転移してきた時にそうだったように、そして今朝のダークエルフが喋ったように、こちらの世界でも恐らく日本語は通じるのだろう。
前の世界でイオナの話してくれた仮説が正しければ、この世界は時代が違うだけで、同じ日本がベースになっているのだから。
「さて、第二目的じゃが、わしらは村で冒険者ギルドに入る事になるのぉ」
「マジか! つか、冒険者ギルドって…… 俺のやっていたロールプレイングゲームそのまんまじゃん」
冒険者ギルドという懐かしい名称がイオナの口から出て、俺はすぐさま食い付いてしまった。
だって俺にとって一番馴染みのある、いかにもゲームっぽい名称だから、逆にリアル感がなさ過ぎる。
「たしか、和也がやっていたゲームの設定にも同じ名前があったわね」
「てか、アーニャ! お前そんなことも何で知ってるの?」
「ねぇアーニャ、ゲームって何の事なの?」
「調査対象の事は、みんな調べるのよ。 洗いざらい全てね」
メルの問いかけに、ニヤリと意味深に笑いを漏らしながら答えるアーニャの返事に、俺はちょっとゾクッとした。
アーニャ達は、曲がりなりにもプロだ。
当然、俺が取り込まれたゲームの事も、その前にやっていたゲームの事も、調べ尽くして俺に接近してきたのだろう。
そう思えば、納得も行くと言うものだ。
「和也の居た時代の常識から考えると真面目な名称には思えぬかもしれぬが、冒険者ギルドと言うのは歴史の在る国家よりも古い、由緒のあるとても真面目な名称なのじゃよ」
「そうね、国家から独立した存在というだけで煙たがっている権力者も多く居るけれど、冒険者ギルド設立の歴史は多くの国家の設立以前にまで遡るらしいわね」
「うむ、いっそ謎に包まれておると言った方が、むしろ早いかもしれぬな」
「1000年を超える歴史を持つ古い王家には、代々冒険者ギルドとは敵対するな、そして深く関わるなという言い伝えが有るとも聞きますね」
謎に包まれていると言うイオナの言葉に対して、いつものようにレイナが補足を付け加える。
歴史のある古い王家よりも更に歴史が古いとか、それは単純に凄いんだなと思うしか無い。
って言うか、そんな物を誰が設立したんだろう?
そんな単純な疑問が、俺の心に浮かんだ。
「我がエスタシオ王国にも、そのような話があると聞きました」
「ほう、そう言えばメルちゃんの国も建国から1000年以上経っておるのかもしれぬな」
「我がエストリア王国を始め大陸北西部にある国家の多くが、群雄割拠の時代に大きな動乱を収めた六英雄達が建国した六国神話を起源に持つ、そんな古い歴史を持っていますからね」
レイナがメルの言葉を肯定するように、自分自身の出身国でもあるエストリアを引き合いに出して言った。
そう言えば、レイナはイオナと駆け落ちをするまでは一国の王女様だったと、元の世界の和歌山の実家でカミングアウトされた時に聞いた話を思い出す。
「何にせよじゃ、この世界で国家からの庇護を受けずに活動するには、冒険者の身分が必要だと言う事は、恐らく変わっておらぬじゃろう」
この世界の話になると、アーニャ達と俺とバルを含めた4人は聞き役に徹するしか無くなってしまう。
メルにしても、ずっとお姫様生活だっただろうから、それほど世間の常識ってものは知らないんだろうと思う。
「でも冒険者ギルドに入るんなら、もっと大きな街の方が目立たないんじゃないのか?」
俺は、何故小さな村からなのかが理解できなかったので、イオナに訊ねてみた。
「最初に大きな街では無く、小さな村へ歩いて行くのには理由があるんじゃが、みんな聞きたいかの?」
イオナはみんなの顔を順番に見回しながら、真面目な顔をして問いかけてきた。