70:悪夢
メルは夢を見ていた。
夢の中で、彼女はとても焦っている。
今日は、深い峡谷と高い山を隔てた南の隣国であるダイトクア教国よりの使者を招いて行われる、ごく内輪だけで催される晩餐会の日だった。
二番目の姉であり神殿の巫女でもあるアンジェリカに対する婚約者候補の一人であった、ダイトクア教国の第三王子がお忍びでエスタシオ王国を訪れているのだ。
ダイトクア教国は大陸で深く信仰されている六神と呼ばれている神々の中でも、黒の神であるダイトクアを国名にする程の熱心な国であった。
メルの祖国であるエスタシオ王国は、六神の中でも白の神を深く信仰している。
六神と呼ばれている神々には他にも、黄、青、緑、赤と別に四神が在り、それぞれが名目上では同格とされていた。
神殿は等しく六神を祀り信仰する場であったが、どうしても地方や国によって主要な信仰対象としての神は異なってしまう。
その理由は、大陸それぞれの国によって別の建国神話が在り、人々を助け導いた神が異なる色だからに他ならない。
白の神に導かれた民は白の神を中心に信仰し、青の神に導かれた民は青の神を中心に信仰するというのは、助けられた人々の心情としては当然だろう。
主に大陸北西部の始祖六国を中心とした国々では白の神を中心とした信仰が盛んであり、北東部の青の神、南東部の国々を中心とした赤の神、そして南西部に根強い黄の神、西部の緑の神と信仰の中心となる神の分布は偏りを示している。
その中で唯一黒の神を熱狂的に信仰するのが、大陸西端に広大な国土を持つダイトクア教国であった。
それは言うなれば、一つの大陸を六つの神がお互いに重ならないようにテリトリーを分担しているとも見える。
神にそのような意図があるのかは不明だが、結果として棲み分けが出来ていた事になる。
ダイトクア教国は、大陸北西部にある始祖六国とは高く険しい山脈に隔てられており、行き来は簡単では無い。
歴史ある始祖六国との国交は、山脈と山脈に挟まれた峡谷を隔てて地理的に国土を僅かに接しているエスタシオ王国との間くらいにしか、実質的には無いと言えた。
レイナの祖国であるエストリア王国は大陸の北西部の西端に近い位置にあり、海沿いの小国群を隔ててはいるが、距離的にはダイトクア教国とは近い位置にあった。
歴史のある始祖六国とは、他のどの国も国交以上の関係を結ぼうとしており、新興国家とも言えるダイトクア教国に於いてもそれは同じである。
エストリア王国のレイナ姫への婚姻話や、エスタシオ王国でメルの姉であるアンジェリカへの婚姻話も、その政治的な活動の一環と言えた。
建国から瞬く間に狂信的な神聖騎士団を所有する大国となったダイトクア教国と直接国境を接しているエスタシオ王国にとって、何度も持ち込まれる縁談話を断る理由も尽きていたというのが、アンジェリカとダイトクア教国第六王子バルガスが見合いをするに至った理由でもあった。
それがメル王女の一二歳を祝うパーティの席であり、バルガスは美しいアンジェリカを一目で見初めていた。
それ以来、しつこく何度も事あるごとにアンジェリカを嫁に寄越せと、エスタシオ王に要求していたのだった。
しかし、アンジェリカには想い人が居た事が、事態をより面倒な事にした。
断り切れない縁談を進められ進退窮まったアンジェリカは、両親である国王と王女に想い人が居ることを涙ながらに告白したのだった。
その男の名はコーネリウス。
エスタシオ王国西端にあるタンザー辺境伯の息子であり、騎士団親衛隊の一員でもあった。
エスタシオ国王も親としては娘が可愛いし、幸せになって欲しいと願っている。
ダイトクア教国というのは隣接する強国ではあるが、その黒き神への狂信的とも言える信仰心や強固な身分制度に基づく専制政治体制について、リベラル寄りであったエスタシオ国王が乗り気では無かった事も、事態を悪い方向へと向かわせることになった。
現エスタシオ国王も、北の隣国であるペトロフの姫との婚姻話を断り、想い人であった幼馴染みのミクリエラと結婚した経緯もあって、アンジェリカの立場に必要以上に感情移入をしてしまう事になる。
そして、政治的には娘を嫁がせて強大な隣国とは姻戚関係となるべきであったが、始祖六国の一つであるとの国家としてのプライドも、新興国に娘を嫁がせることを邪魔した。
婉曲に一旦は進みかけた婚姻話を断ったエスタシオ王に対して、意外なことにダイトクア教国は理解を示す態度を見せた。
下手をすれば、こじれて戦争にもなりかねない事案である。
当然、エスタシオ国王は驚いたが、自分が想うように相手も想ってくれたのだろうと考える程度には、育ちの良いお坊ちゃまだった。
自分の隣人がそうであれば善い人で終わる話だが、これが国王であれば善い人では済まない。
通常であれば、そのような国王は宰相が補完をするものである。
しかしヤムトリアの宰相は、ある意味で有能過ぎたと言える。
彼はダイトクアと結ぶことの重要さを理解し、裏でダイトクアと手を結んでいたのだった。
同じような改革政策を摂りながらも、貧乏貴族出身で人の裏側を嫌と言う程見てきたヤムトリア国王とエスタシオ国王の一番異なる部分はそこである。
ダイトクア教国が提示してきた条件は、最後にバルガス王子がアンジェリカ王女を交えて、エスタシオ国王一家と内輪でお別れの晩餐会を開いて欲しいと言うものだった。
そんな事で済むのかと戸惑うエスタシオ国王に、伯爵であり宰相のホルツは言った。
「これは応えるしかありません。 すべてはこちらに非のあること。 このような内容で済んだのが僥倖でございます」
国交断絶や戦争をも覚悟していただけに、それは意外な条件提示であった。
しかし人の善いエスタシオ国王は、相手のアンジェリカ姫に対する強い想いを踏みにじったという引け目もあって、その条件を疑いもせずに呑んだ。
エスタシオ王国へやってきたのは、バルガス以下100名を超える黒い鎧の騎士たちだった。
国境からの連絡を受けてエスタシオ王国に緊張が走るが、バルガス王子の警護だと言う黒い鎧の騎士たちは、国境での武装解除を素直に受け入れた。
そしてその翌日、ついに晩餐会の時刻がやってきた。
メル姫は侍従の不手際が重なり、身支度に手間取って食事の時間に少し遅れて登場することとなる。
メル姫を待たずに晩餐会が始まったのは、エスタシオ側の不手際でダイトクア教国の王子を待たせるわけには行かないと、宰相のホルツが国王に進言したからだ。
バルガスに対して引け目のあるエスタシオ国王は、それを受け入れて晩餐会は開始された。
テーブルを囲んだ全員が食前酒のグラスを空け、スープを半ばまで飲み始めた時にメル姫が非礼を丁寧に詫びてテーブルに着いた。
そして、スープを二口ほど口にした処で異変が起きたのだった。
突然スプーンを取り落として苦しみ始める、エスタシオ国王を始めとしたメル姫の家族たち。
姉たちや兄たち、そして妹や弟たちが喉を押さえて床に倒れ伏し、もがき苦しんでいるのだ。
何事が起きたのか理解が及ばずに、近くに控えている宰相と、家族と同じように食事を摂りながらも平然と笑みを浮かべているバルガスへ視線を向けるメル姫。
これは毒だ、毒を盛られたのだと察して立ち上がる。
「運が良いのか悪いのか、薬を皆と同じように飲んでいれば少なくとも痛い思いはせずに済んだものを…… 」
治癒魔法で自らの毒を取り除こうとするメル姫に向かって、平然と毒入りであるはずのスープを何事も無いような表情で口に運ぶバルガスが、そう言って宰相のホルツに目配せを送る。
一瞬ビクリとしたホルツは、僅かに躊躇した後に意を決したように、ローブの裏側かに忍ばせていた鋭利な先端を持つナイフを取り出した。
「ホルツ、何故お前が…… 」
ヤムトリア国王が、大理石の敷かれた白い床の上で血を口に溢れさせながら、途切れ途切れの口調で呟いた。
眉をひそめたホルツは、吐き捨てるように言う。
「お前が、お前が無能だから、俺がこんな事をせねばならぬのだ。 善人は王には向かぬのだ。 お前の改革開放政策によって不利益を被る貴族が多数いる事を忘れたか! 俺は忠告したはずだ、やり過ぎは良くないと。 正義よりも不利益を被る者の立場を考えるべきだと言ったはずだ! これもエスタシオ王国が末永く続くため、国の将来を思っての事だ。 恨むなら、己の無能を恨め!」
ホルツは吐血して苦しむヤムトリア国王を足蹴にして、茫然としたままのメル姫に迫る。
逃げ道を探して出口を探すメル姫の目に、黒い鎧の騎士たちが入ってくるのが見えた。
彼らは、国内に持ち込まれなかったはずの剣を手にしていた。
それは、良く見ればエスタシオ王国親衛隊に下賜された、見覚えのある王室紋章入りの長剣だった。
メル姫は、高笑いを始めたバルガスを睨む。
バルガスはメル姫を見下すような目つきで、一つの事実を告げた。
「今日は特別な祝いの席だからと、王室親衛隊の連中を始めとして城内に駐留している騎士団の連中にも、俺から祝いの酒を振る舞ったのさ。 もちろん、城内での飲酒を許可したのは、そこに居るお前らの宰相だがな」
「すべては国のためですよ。 メル姫、私も辛いのだ。 大人しくなさい」
メルの下へと、静かに迫る宰相ホルツ。
その目は血走り、ナイフを持つ手は震えていた。
その震えは、直接手を下して人を殺す事への怯えでは無く、昂ぶる心を抑えきれぬが故の震えだった。
そして、老齢のホルツはメル姫に向かって昂ぶる己の心を口にする。
「メル姫、本当に美しくなられた。 大人しく私に身を預けるのなら、殺さずにおきましょう。 いつも、私はあなたを見ていたのですよ。 小さきメル姫が少しずつ女性らしくなってゆく姿を、いつもいつも…… 」
あまりのおぞましさに、メル姫の全身に鳥肌が立った。
刃物への恐怖ではなく、生理的な恐怖感からメル姫は後ずさる。
「たしかに可愛い顔立ちをしているとは思うが、お前も変わった趣味をしているな。 一人前の女としては、まだまだだろうよ」
茶化すように、バルガスがホルツに向かって言う。
ホルツは、キッと険しい顔をバルガスに向けて言った。
「これが、あなたに協力する私の条件の一つである事は、あなたも承知のはず。 それをあなたは呑んだはずだ。 私の趣味について、口を挟まないでもらいたい」
歪な笑顔を老境に差し掛かった顔面にこびり付かせて、ホルツはメル姫に迫る。
この場で死ぬか、生きて自分のオモチャになるか、どちらかを選べと言っているのだった。
それを面白いショーであるかのように、嘲りを浮かべた表情で他人事のように眺めているバルガスが、それを承知しているのかと問いかけようとしたメル姫の視界に入る。
それが事実であると知って、メル姫は意を決したような表情を見せる。
「いいねえ、その表情。 死を受け入れるのか、オモチャになってまで生きようと決めたのか、興味があるねえ。 実にいい顔だ」
バルガスがメルを揶揄するように、笑いながら言う。
メル姫は、悔しそうに白いスープ皿と銀のスプーンを両手でギュッと握り締めた。
「どちらも、お断りします!」
手にしたスープ皿と銀のスプーンを思い切り、メル姫は自分に迫り来るホルツに向かって投げつけた。
咄嗟に顔をガードしたホルツの腕をすり抜けて、スープ皿の角が鼻に直撃した。
顔を押さえて狼狽えるホルツの脇をすり抜けて、メル姫は倒れて居る国王の背後にある壁に向かって、ふらつきながらも走る。
僅かに口にした毒が、治癒しきれずに体を麻痺させているのだった。
「おいおい、そっちに出口は無いぞ。 恐怖で我を忘れたか」
背後でバルガスの笑い声が聞こえるが、それを無視して王家の紋章が刻まれた壁へと走る。
流石に、その迷いのない行動に何かを感じたバルガスが叫んだ。
「捕らえろ! いや、この場で斬り殺せ。 王家の血筋は一人も残すな!」
その指示に応じて、黒い鎧の騎士たちが一斉にメル姫を追って走り出す。
ふらつくメル姫の足取りは、決して速いものでは無い。
たちまち、バルガスの手勢に追い付かれてしまう。
メルの背中に切りつけようとした剣の軌道が、僅かにブレた。
「姫様、お逃げ下さい!」
来客用の入り口ではなく、王家側の入り口である王家の紋章の横から飛び出してきて、黒い鎧の騎士の足下にしがみついたのは、幼き頃よりメルの世話をしてくれていた侍従のエイハブと侍女のマリナだった。
戸惑うメル姫に向かって、マリナが叫ぶ。
「今のうちに、今のうちにお逃げ下さい!」
「すみません、今夜のことはホルツより聞かされていましたが、身内を人質に取られていて、姫様の身支度を遅らせるのが精一杯でしたっ!」
エイハブの言葉で、今夜の身支度が遅れた理由をメル姫は理解した。
おそらく、城の中はホルツが卑怯な手段で手を回していて、自分の逃げ場は無いのだろうと……
であれば、やはり逃げ場所はあそこしかない。
そうメル姫は決心して、踵を返す。
王家の紋章の描かれた壁に駆け寄り、左右に一本ずつある柱の右側に回り込み、その裏側に手を伸ばす。
ギイと重苦しい音がして、壁に隠された扉が僅かに口を開けた。
「エイハブ、マリナ、すぐに投降なさい。 私のことよりも、自分の身を大切にするのよ!」
そう言い残すと、メル姫は扉の裏側へと姿を消した。
駆け寄る黒い鎧の騎士たちに、エイハブとマリナが尚もしがみつく。
「姫様、お逃げ下さい! そして必ず、必ずこの仇を討って下さいまし!」
「姫様、どうかご無事で!」
二人の眼前で、扉はガチャリと閉まった。
暗い隠し階段を、照明用の魔道具を持ちながら下って行くメル姫の背後で、断末魔の悲鳴が二つ聞こえる。
思わず耳を塞いで、メルはよろめく足取りで階段を下っていった。
僅か十三歳になったばかりの彼女の脳裏に、家族の苦しむ姿が次々と浮かんでは消えた。
必ず味方を見つけて、この仇は討つとメルは心に誓っていた。
その為にも自分は死ねない、決して死んではならないと考える。
まずはどうするべきなのか、何処へ逃げれば良いのか、誰が味方なのか敵なのか、それすら判らなかったが、今はまず逃げることを優先した。
この王家専用の脱出用通路は、城外にある王家専用の神殿へと繋がっている。
まずは、そこへ逃げ込むことが先決だった。
メル姫は、よろめく足取りで一歩ずつ先へと進む。
王城では、バルガスが苦虫を噛み潰したような顔でメル姫が消えたエスタシオ王家の紋章が描かれた壁を睨みつけていた。
そのバルガスに向けて、壁を調べていた騎士の一人が言う。
「これは裏側から閉じられていて、こちら側の開閉装置では作動しません」
「ちっ! どうせにげられはせんが、小娘め!小賢しい真似をしよる。 すぐに王都内に潜伏させている手の者に探索をさせよ。 決して逃がすでないぞ。 まずは王家ゆかりの建物を優先的に探すのだ!」
すぐに伝令が飛び、冒険者や旅の商人に化けて王都内に潜伏していたダイトクア教国の手の者が、特徴のある紋章の描かれた革鎧を身に着けて夜の街に飛び出して行く。
黒鎧の騎士たちも、三分の一を城に残して王都制圧に飛び出していった。
すでに、増援の部隊が国境を越えて迫っているはずであり、エスタシオ王国の王都陥落は時間の問題だった。
バルガスは、床に倒れ伏して苦しんでいるアンジェリカの前に立ち、おもむろにその苦しむ横顔を右脚で踏みつけた。
毒で意識が朦朧としているアンジェリカは、声も出せない。
その横顔をぐりぐりと踏みにじり、憎々しげにバルガスは吐き捨てる。
「振られた男の願いで素直に晩餐会を開くなんて、どこまで間抜けなんだお前ら家族は。 危機意識がなさ過ぎだろうが、あぁ? 調子に乗ってんじゃねーぞ! ご自慢の美しいお顔を、グズグズにしてやるよ」
バルガスが傍若無人の行為を繰り返している頃、メル姫はようやく出口へと辿り着いた。
白き神の神像の裏側に隠された扉が開き、よろめきながらもメル姫は祭壇の中央部へと歩み出てくる。
すでに、意識は朦朧としてきたが、彼女が幸いだったのはスープを二口しか口に入れていなかった事だ。
それは致死量には足りず、十三歳の小さな体には軽い麻痺と一時的な軽い意識障害を与えただけで済んでいた。
だが気分が悪く、足がふらつく事に変わりは無い。
このままでは、逃げる事も覚束無いだろう。
ここは、毎日のように彼女が姉たちと祈りを捧げて、年に一度の儀式の際に魔力を注ぎ込んでいた蒼き宝珠の安置されている部屋だ。
床には大きな魔法陣が描かれているが、宝珠と共に古代の遺跡から発掘されたと言われているそれが、いったい何の魔法陣だったのかは、誰も知らなかった。
魔法陣から離れた場所に安置された宝珠に近寄り、それに触れながら家族が存命だった頃の幸せな時を思い出す。
ここで姉たちと、世界の平和を願い真剣に祈りを捧げたのは、つい昨日の事なのだ。
動くことも億劫になって、力尽きた彼女はそこで意識を失う。
やがて朝日が天窓から差し込み、彼女の顔に朝日の眩い光が差した。
「いたぞ! メル姫を見つけたとバルガス様に連絡してこい! 俺たちが引導を渡してやる」
そんな叫び声に、覚醒しかけていた彼女の意識が完全に戻った。
ハッと顔を上げて周囲を見回してみれば、入り口から革鎧を着た五人ほどの男達が、こちらに向かって駆けて来る処だった。
思わず、手元に安置してあった宝玉を手にしたまま立ち上がる。
後ずさりする彼女は、いつの間にか魔法陣の中心部に居た。
既に彼女は、床に描かれた魔法陣を中心にして革鎧の男達に囲まれて居た。
革鎧の胴の部分には、ダイトクアの紋章が一様に刻まれている。
それを見て、メル姫は悟った。
もはや、これまでかと……
「どうした。 逃げるのはもう諦めたか? 俺は黒き神に使える身だ、最後にお前の無能な白き神に祈る時間をやろう。 お前は白き神の前で、我が黒き神の僕たる俺たちに殺されるのだからな」
そう言って、眼前の革鎧を身に着けた男の一人が剣を振り上げた。
メル姫は、最後の祈りを何にしようかと考え、ここで毎日白き神に捧げていた文言を思い出す。
それは遺跡と一緒に発掘された石版に刻まれた古代語の、意味不明な言葉だった。
もはや白き神の御前で、今さら恨み言を言っても白き神は自分を認めてくれないだろう。
この場で死ぬのなら、それを白き神の前で唱えるのには相応しい気がした。
何度も唱えて暗記している一節を、メル姫は宝玉を胸に抱きながら、呟くように詠唱した。
それに呼応して、魔法陣が白く輝き始める。
「貴様、何をした! 今さら何にもならんぞ。 大人しく死ねっ!」
目の前で剣が振り下ろされるのを目の当たりにして、反射的に宝玉を抱え込むように男に背中を向けた。
その瞬間、白い光に包まれたのと同時に、背中に熱い物が触れた気がした。
ふと気が付くと、見知らぬ場所に居た。
何が起きたのか判らないけれど、男達はこの場に居ない。
とにかく逃げようと、立ち上がった処で激痛が背中に走る。
それでも、よろけながら走り出す。
左は切り立った崖になっていて、右には木造の見た事も無いような高床式の小さな建物があった。
前は開けているけれど、木々の先に地面は無いようにみえる。
メル姫はとりあえず拓けている前へと走り、建物に沿って右へと続いている地面のある方向へと行こうとした。
木造の建物の角の手前に差しかかった時に、後ろから叫び声が聞こえた。
「居たぞ! 捕まえて殺せ!」
「まて、此処は何処だ?」
「何処であろうと構わぬ! 姫を取り逃がしたとあれば、我らも罰せられるのだ」
「おう、ここが何処なのか考えるのは後だ、姫を追え」
「どうせ手負いだ、逃げ切れるものでは無いぞ」
必死で、激しく痛む背中を無視して駆ける。
木造の建物の角を右に曲がった時に、前方に人影が見えた。
それは神々しいまでに眩しい日の光を背にして立つ、肩に金色の小動物を乗せた、若く背の高い男性のシルエットだった。