34:ゴリラ獣人に気をつけろ
ヴォルコフが酒を呑むのを見たのは、これで二回目だ。
それにしても、まさかここまで酒に弱いとは思ってもいなかった。
レイナにちょっかいを出してきた酔っ払い男は、ヴォルコフの立てた物音に一瞬怯んだ様子を見せる。
しかし、ヴォルコフの痩せた体と180センチに満たない身長を見て、身長でも体重でも上回っている自分の優位さを認識したようで、今度はヴォルコフに因縁を付けてきた。
ちなみにヴォルコフとティグレノフは、俺に格闘術を教えてくれた師匠でもある。
だから、酔っ払い冒険者の矛先がレイナとイオナからヴォルコフに向いたことで、俺はちょっと安心をした。
魔法を使わず、そして刃物も持ち出さなければ、酒場の喧嘩ぐらいなら目立つことも無いだろうと考えたのだ。
俺が近くに居る限り、例え殴り合いでアクシデントが発生しても、死人を出さない自信はあった。
そうは言っても、挑発をしている男の体積だけでもヴォルコフの二倍以上は楽にある。
お互いに酔っているとは言え、これはヴォルコフに分が悪いだろう。
俺はチラリとティグレノフの巨体を見る。
彼なら間違い無く互角以上の勝負になるだろうに、トラブルには興味なさそうな素振りで木製ジョッキの酒を飲み干していた。
「酒は絡むもンじゃなくテ、楽しク呑むもノだゼ」
ヴォルコフが、とろんとした目つきで酔った男に言った。
だけど酔っ払い同士じゃ、説得力は皆無だ。
因縁を付けてきた男が、フフンと鼻で嗤った。
ヴォルコフの痩せた体躯を見て、自分より遙かに格下だと評価したんだろう。
「俺様に喧嘩を売るとは、ずいぶんと腕っ節に自信があるみたいだな。 なあ、貧弱な兄さんよ」
どうみても喧嘩を売っているようには見えないんだけど、因縁を付けてきた男にとっては、自分の行為を批判されることが喧嘩を売るという事になるらしい。
酒を呑まない俺からすると、酔っ払いのこういう理屈は理解ができない。
「ふん、体脂肪率ガ低いと言っテくれ。 おまエさん、ソんな体じゃ成人病にナっちまうゾ」
「はあ?、訳の判らない事言いやがって、腕っ節に自信があるなら、俺様と腕相撲で勝負でもするか? もちろん俺様が勝ったら、そこの女は俺たちの席に移ってもらうけどな」
「残念だっタな、ソの人は勝手に他人ガ遣り取り出来ル物じゃない。 しカし、腕相撲だけナラ受けてモ良いぞ」
そんな遣り取りが行われていると言うのに、店の中は先ほど迄と変わらず喧噪に包まれ始めていた。
つまり酒場での喧嘩なんてものは、別段珍しくも無いんだろう。
〈和也よ。 あの森での特訓を経験したヴォルコフたちならば、万一にも負けは無いじゃろう。 皆も心配するな〉
突然、イオナから念話が飛んで来た。
それでも、心配をするなと言われたって、二人の体格差は半端じゃない。
階級制のスポーツなら、まず戦う事は無いだろう。
イメージだけで言うならば、ミドル級とスーパーヘビー級が戦うような物だ。
そして、急遽用意された小型テーブルの上で行われた勝負は、あっけなく終わった。
結果は、ヴォルコフの圧倒的な勝利だ。
犬歯が伸びていたりして、多少獣人化していたような気はするけれど、まあインチキ無しのパワー勝負だった。
考えて見れば、半獣人化した本気のヴォルコフが、あっちの世界でパワードスーツの金属で出来た足首をへし折った姿も、俺は見ていた。
それに加えて、あの森での特訓と称したパワーレベリングで、イオナに騙されて全員が相当に危ない橋を渡っているのだから、強くなっていない訳が無い。
一歩イオナがさじ加減を間違えていたら、俺たちは魔人にならないまでも、体にトカゲのような鱗が生じたり鬼のような角が伸びたりしていたかもしれないのだ。
ヴォルコフに負けて茫然とする男に代わって、後ろのテーブルから別の男が挑戦してきたけど、結果は同じだ。
挑戦してくる腕自慢の酔っ払い共を、ヴォルコフは一蹴し続けた。
しかし、さすがに酔ったままで力勝負を続けたからなのか、最後の方は顔が真っ赤になって、ヨロヨロとふらついてさえいる。
そこへ現れたのは、二メートルを軽く超えるような巨体の獣人だ。
〈ちょっと、ゴリラよ! こっちの世界のゴリラはずいぶん大きいのね〉
〈ゴリラって何ですか?〉
突然、アーニャが念話で騒ぎ出した。
釣られてメルも変なことを聞いてくるし、ろくなもんじゃない。
それにしても、俺の前でゴリラゴリラ言うのは、わざとじゃないだろうか?
〈同じゴリラでも、カズヤより野生の血が濃そうじゃない?〉
〈つか、アーニャ! 俺を、引き合いに出すなって〉
その男、俺の口からは言いづらいけど、ゴリラ獣人とでも言いたい風貌をしていた。
いや、獣人って言うよりも、お父さんは魔獣ですかって思うくらいに、大きくて人間離れした体を持っていた。
いや、まあ、獣人って段階で、人間離れしているのは確定なんだけどね。
奇形かと思う程に太い腕と短めな足は、本当に動物園で見たゴリラのようだ。
さすがに、パワーレベリングで常人の能力を超えているとは言え、腕だけでヴォルコフの胴くらいはある相手では、ヤバイだろう。
アルコールの酔いは状態異常だから、『キュア』が効くだろう。
俺が、ヴォルコフの酔いだけでも醒ましてやろうと思ったところで、ティグレノフが立ち上がった。
「俺がヤろウ」
のそりと立ち上がったティグレノフは、そう言うと太い犬歯を剥き出して笑う。
ティグレノフが巨体だと言っても、せいぜいが二メートルくらいの身長だ。
ゴリラ男とは、頭一つ分は楽に違う。
ティグレノフは、酔いが回ってフラついているヴォルコフの襟首を掴んで、ヒョイと元の席に座らせた。
なんとヴォルコフは、そのまま机に突っ伏して眠り始めてしまった。
ゴリラ男は、ティグレノフの体を上から下まで観察した後、勝ちを確信したのかニヤリと嗤いを見せた。
ティグレノフは、そんな事は気にならないとばかりに、小型テーブルの上に右腕を乗せた。
腕相撲の場合、肘の角度が狭い方が一般的に有利だって言うけど、二の腕の長さで比べればゴリラ男の方が長い分、肘を突いて組み合えば長い方の二の腕は角度が広くなるしかない。
それは、直角三角形の一番長い辺を下にして置いた形を思い浮かべれば判る。
しかし、肝心の手首の返しは、筋力と瞬発力に勝る方が有利だ。
筋力と言う点では、ティグレノフは不利だろう。
それは見かけだけで言っているのじゃあない。
何故ならば、俺はゴリラ男の頬に爬虫類の鱗のような物を見つけたからだ。
こいつも相当に危ない橋を渡って、自分の体を鍛えているんだろう。
良く見れば、額にある小さな小さな突起も、見方を変えれば皮膚の下に隠れた角の痕跡に見えなくも無い。
〈ティグレノフ! こいつ、たぶん無理なパワーレベリングをしてるぜ。 油断するなよ〉
俺は、念話で警告を発する。
ティグレノフは腰を深く落とした体勢で、こちらを見ずに小さく頷いた。
ざわめいていた室内は、たちまち静かになる。
あちこちで、ヒソヒソと話し声が聞こえるのみだ。
時折シルバーという声が聞こえて来るから、ゴリラ男の名前は、もしかするとシルバーなのかもしれない。
勝負が行われている場所は、俺の後ろ側にある四つのテーブルが作る通路が交差する場所だ。
〈カズヤ。 魔法ハ、無しダ〉
ティグレノフから、そんな念話が飛んで来る。
もとより、特別な事情が無い限り、男同士のパワー勝負に魔法を使うような真似をする気もなかった。
もしティグレノフが負けて無茶な要求をされたときには、俺の魔法の出番もあるだろう。
だけど、まだまだそんな状況じゃあない。
縁もゆかりも無い、たまたま居酒屋に居合わせただけの男が掛ける号令で、二人の勝負が始まる。
二人ほぼ同時にグッと力が入り、上半身が膨れあがったような錯覚に囚われる。
そしてテーブルの分厚い板が、ミシリと悲鳴を上げた。
ゴリラ男もティグレノフも、どちらもポーカーフェイスを装っていて、限界で堪えているのか、それとも余力をまだまだ残しているのかすら判らない。
それでも、体を支えるためにテーブルの端を掴んだ左腕が、プルプルと細かく震えている事から、かなりの力を双方が出していることが判った。
俺は、テーブルが壊れて勝負が付かなかったなんてオチにならないように、二人のパワーに耐えきれず悲鳴を上げているテーブルの耐性を上げる事にした。
あらゆる物質を五分間だけ最強の盾へと変化させる防御魔法の一つ、『究極絶対防御』をテーブルに向けて発動させる。
これでどんなに過大な応力を受けても、テーブルは絶対に壊れない。
恐らく、魔人に変化する一歩手前まで一気に経験値を得る何かをやったゴリラ男と、イオナに騙されたとは言え、計画的にパワーレベリングをやってきた俺たちのどちらが正解なのか、ある程度の結論は出るだろう。
それにしても勝負は一進一退で、一向に優劣が決まらない。
どちらも平気そうな顔をしているけど、額の汗は互いの全力ぶりを現しているように見えた。
「がああぁぁあ!」
突然、ゴリラ男が決まらない勝負に業を煮やしたかのように、体を支えていた左手をテーブルから離してティグレノフに殴りかかった。
当然、体を支えていた左腕が離れたのだから、右手はティグレノフに押し負ける。
でも、しっかりと俺は見ていた。
ゴリラ男が殴りかかる前に、ティグレノフの手首が自分の方へと引き寄せられたのを……
つまり、黙って居てもティグレノフの勝ちだった可能性は高い。
それを誤魔化すために、傍目には勝負を捨てて殴りかかったように見せたんだろう。
俺は咄嗟に『加速』を発動させて立ち上がり、移動中に『ブレス』を自分に掛ける。
ティグレノフの側頭部を狙ったと思われるゴリラ男の左フックは、咄嗟に持ち上げたティグレノフの分厚い肩の筋肉でブロックされた。
それでも右手を握って離さないティグレノフに対して、不自然な体勢のまま再び左の拳を振り上げたところで、ゴリラ男は動きを止めた。
そして左後ろを振り返る。
ゴリラ男のぶっとい左手首を、後ろに立っている俺の右手が掴んでいた。
そのままだと体重差で軽々と持ち上げられるから、俺の足の裏は重力魔法を使って床に張り付けてある。
ティグレノフによって右腕をテーブルに固定され、左腕を大きく振り上げた体勢で俺に押さえつけられて、ゴリラ男は身動きが取れない。
どちらかと言えば巨躯のティグレノフよりも、ひょろ長い俺に片手だけで押さえつけられている事が信じられないようだ。
「もう勝負はついた。 それはお前も判ってるんだろ」
俺は、ゴリラ男にそう言い放つ。
これ以上は、ごねても見苦しいってもんだ。
「兄ちゃん、凄いな。 あの豪腕シルバーバックを、片手で押さえつけるなんてさ」
振り向けば、サイガという少年が尊敬の眼差しで俺を見ていた。
周囲を見回せば、全てのテーブルから人々視線が俺に集まっている事が判る。
「спасибо(スパシーバ)、カズヤ。 もう手を離しテも良いヨ」
ティグレノフの言葉で、俺はこのままでは目立ちすぎると気付いた。
咄嗟のことで体が動いてしまったけど、ちょっと衆人環視の中でやるには色々疑念を抱かせる行動だったかもしれない。
俺は強引に、シルバーバックとか言うゴリラ男の左手をテーブルの上に降ろさせた。
そして、手首を握っていた手を離してから、念のために一歩下がる。
それと当時に、ティグレノフもテーブルに押さえつけていたゴリラ男の右手を離して、一歩下がった。
ゴリラ男は、自分があしらわれた事が気に入らないのだろう、ともて激高しているように見える。
痛そうに俺に押さえられた方の左手首をさすっていたけど、すぐに両腕を真上に振り上げた。
そして、思い切り両腕をテーブルの上に叩きつける。
たぶん、木製のテーブルを粉々に粉砕でもして、鬱憤を晴らすのと同時に、俺たちを威嚇しようとしたんだろうけど、テーブルはビクともしない。
逆に、ゴリラ男は両腕を愛おしく抱きしめるような前屈みの格好になって、その場に座り込む。
そりゃあそうだ! たぶんゴリラ男の両腕は折れているだろう。
なにしろ、そのテーブルには究極絶対防御の魔法が掛けてあるのだから。
あと一分ぐらいは、このテーブルを壊す事は術者の俺を除いて、誰にもできない。
シルバーバックとか言うゴリラ男は、仲間たちに引き摺られるようにして、隅の方のテーブルへと連れて行かれた。
恨みがましい目をして俺とティグレノフを見ていたけれど、知るもんか。
俺は、酔いつぶれている幸せなヴォルコフに『キュア』を掛けて酔いを醒まさせた。
「さあ、これから野宿よね。 本当に残念だけど、仕方ないわね」
「いや、アーニャ。 お前、全然そういう顔してないから」
すっかり冷めてしまった食事を済ませて、俺たちは店を出た。
これから、野宿が出来る場所を探すのだ。
それにしても、そもそも町の中に野宿をするような場所があるのかどうか、俺には判らない。
イオナにも、それは判らないようだ。
話し合った結果、とりあえず、人通りの少なそうな場所を探してみようと言う事になった。
もう入ってきた門は夜になって閉まっているから、町の外へ出る事も面倒だ。
路地の突き当たりになりそうな場所を探して、薄暗い裏路地へと俺たちは入り込む。
二つほど角を曲がって、俺はイオナに念話を送った。
〈俺たち、狙われてるぜ〉
俺の危険感知スキルに、ピリピリと不快な敵意が反応していた。
ずっと、酒場から俺たちを追ってきているようだ。
〈ふむ。 その角を曲がってからは、露骨に殺意を向けてきておるようじゃのお〉
〈面白イ。 あのゴリラ男の仲間かナ? それとモ最初の酔っ払いカ?〉
〈他に恨みを買いそうな相手も、思いつかぬな〉
〈でも、あのゴリラ男は両腕を怪我してるから、除外しても良いんじゃね?〉
〈あの様子じゃ骨折してそうだし、カズヤは治癒魔法を使ってあげないし、剣を振るうのは当分無理でしょ〉
「待て! お前ら、そのまま帰れると思うなよ」
呼び止められて振り向くと、大通りの方から漏れてくる薄ら灯りをバックにして、七人ほどの人影が立っていた。
幸いにも、まだ剣を抜いている者はいないみたいだった。
何故に幸いかと言えば、剣を抜いていたりすると、たぶんそいつは無事では済まない。
そういう意味で、奴等は幸いだって事だ。
「すまぬが、わしらは宿を探しておるでな、もめ事なら後にしてくれぬか?」
とぼけているように聞こえるけど、これは明らかな挑発だ。
やっぱり、さっきのことを根に持っているんだなと、俺は思った。
俺たちは八人パーティだけど、チビロリな三人を除けば大人は俺を数に入れても五人だ。
そのなかで、誰が見ても戦力になりそうに見えるのは、ヴォルコフとティグレノフくらいだろう。
俺はたぶん十五歳くらいにしか見えないし、イオナとレイナだってヤワな美男美女にしか見えない。
あくまで、それは外見上のイメージの話で、本人たちの実力のことでは無い。
そんな意味でも、俺たちパーティは数を頼めば倒すのも容易いと思われているのだろう。
「烏合の衆じゃの」
「そうですね」
イオナとレイナが言うように、俺たちをつけてきた奴等からは、それほどヤバイ感じはしない。
そうは言っても、とんでもない手練れが隠れている可能性は否定出来ないから、対応に手抜きをするつもりは無い。
「カズヤ、竹刀を出してくれるかしら?」
レイナが、俺にそう声を掛けた。
俺は、その意図を察してアイテムボックスから竹刀を取り出すと、レイナに渡した。
もちろんただの竹刀じゃなくて、俺が魔法防御を付与すれば剣でも切り落とせない頑丈な竹刀に化ける。
ヴォルコフたちも腰の後ろに手を回して、軍用ナイフの柄を握っていた。
そんなみんなを制して、イオナが前に出る。
やっぱりレイナにちょっかいを出された事を、根に持ってるみたいだ。
って言うか長い事一緒に居るのに、男ってのは自分の女に良いところを見せたいものなんだろうか?
少し考えて、――そうなんだろうなあ、と俺は一人呟く。
「この程度の雑魚など、わし一人で充分じゃ。 わしが相手をしよう」
そう言って、イオナは左手のロッドを手前に突き出す。
たちまち、俺たちをつけてきた奴等の殺気というか、生温かい風のようなものが押し寄せてくるのを僅かに俺は感じた。
危険感知は、ビンビンと反応を返してくる。
こりゃあやるしかないな、と俺は全員に『コンポジット・アーマー』を掛けた。
『ブレス』と『加速』も掛けて、準備万端という処で、俺たちを付け狙った男達の後ろから声がした。
それも、聞き覚えのある子供っぽさの抜けない声だ。
「お前ら、卑怯だぞ! 相手には子供も居るんだ、いい大人が何やってんだよ!」
その声は、さっき居酒屋で相席をさせてもらった、サイガと言う少年に似ていた。
たしかに子供って言われればチビロリが三人居るんだけど、そのチビロリ三人は見かけ通りの超絶美少女なだけじゃなくて実はしたたかで強いんですよと、俺はマジで言いたかった。




