2:戦闘訓練
それは、普通なら回避不可能な距離……
俺の眼前に、元ロシアの特殊部隊員であるティグレノフが思い切り振り回した、幅広で大きな剣の切っ先が迫っていた。
「くっそおっ、動けえぇぇっ! 間に合え、俺の体あぁぁぁ!」
歯を食いしばり、千切れそうな筋肉の悲鳴を無視して強引に体を捻る。
次の瞬間「ブン!」と低い唸りを上げて、俺の鼻先を銀色に光る鋭い剣先が掠めた。
ギリギリの回避は、なんとか間に合った。
視界の隅に俺のこめかみから流れた冷や汗が、急速な回避の反動で飛沫になって飛んでゆくのが見える。
いま俺の目の前には、猫科特有の形状をしたトパーズ色の瞳を見開いて半ば虎獣人に変身しかけている、遺伝子改造部隊出身のティグレノフがいて、俺に剣を向けていた。
その冷徹な瞳は、渾身の力を込めた彼の攻撃を間一髪躱したばかりの、俺の必死の動きを冷静に追っている。
VRゲームの影響で偶然取得した『見切り』スキルの発動によって、相手の動きがスローモーションのようにゆっくりと見えると言っても、回避する俺の身体能力にも肉体性能の限度がある。
これ以上は生身のままでは避けられないと悟って、身体能力向上と身体加速スキルのレベルを、無詠唱で瞬時に二つ上げた。
無詠唱でタイムラグ無しにスキルを発動させる事が出来るのは、俺が半年もの長い間取り込まれていたVRオンラインゲームへのシンクロ率が異常に高かった故の、おまけのようなものだ。
そのお陰で現実世界でも魔法が使えるようになった俺は、俺の力を狙う奴らの陰謀で大事な家族を殺され、出来たばかりの恋人すらも友人に奪われて、21世紀半ばの日本に居ることが出来なくなった。
二度と思い出したくないような事が色々とあって、ようやく復讐を成し遂げた俺は、こっちの世界出身だった曾祖父イオナと曾祖母レイナに頼んで、飛び入りの仲間と共に望んで異世界へと転移してきたのだ。
だから本当に魔法が使えるようになったとは言っても、永遠に失う事になった父や妹や恋人だった女性の事を考えれば、これは一概に喜んで良い話では無い。
一瞬の溜めを感じさせる間も無く、ティグレノフが瞬時に前に詰めて来た。
さすがはロシアの研究施設で虎の遺伝子を組み込まれた半獣人、動きがとんでもなく速い!
「来たっ!」
俺も、それに合わせて前に出る。
状況に応じてではあるけれど、下がらずに前に出る事は訓練の度に何度も教え込まれた、俺の『見切り』と言うスキルを生かせる戦い方らしい。
危機を自動的に感知してパッシブに発動する『見切り』の恩恵で、相手の動きがスローモーションのようにゆっくりと見える。
しかし相手をする俺の動きも同様で、ゆっくりとしか動けない。
体に纏わり付く空気が、粘性の高い液体のように俺の動きを阻害する。
しかし、それを身体強化系のスキルでブーストした肉体のパワーとスピードで強引に引き裂いて、俺は動く!
もう一人の特殊部隊員であるヴォルコフに教わった通りの歩法を思い出しながら、振り下ろされるティグレノフの剣筋を、ぎこちない俺の動きが僅かな間隔で躱した。
それを眼前で確認した俺は、そこから動きを止めずに、重く粘りつく空気を掻き分けるように更に前に、もっと前に出る。
彼の剣技の師匠であるレイナ直伝の必殺剣を躱されて、ティグレノフの顔が初めて焦りの色を見せた。
「行けるっ!」
そのまま俺は加速を緩めず、ティグレノフにスローモーションのまま、ゆっくりと確実に接近した。
これを普通の人が見ていたならば、剣先を紙一重で躱した俺が、一瞬でティグレノフへの間合いを詰めたように見えている事だろう。
俺は、剣を振り下ろしてがら空きになったティグレノフの左脇腹へと、右の拳を思い切り突き出した。
軽く曲げた左の前足を思い切り踏ん張って、体の前進運動に急ブレーキを掛ける。
その前足を基点に、移動速度を一気に体の捻りと前足への重心移動へと転化させた。
ダッシュするように後ろ足で地面を蹴り出しながら、親指の付け根を支点に右膝を内側へと捩り込み、膝から腰へと回転運動を加速して行く。
腰の動きに連動してやや遅れてスタートした上体の捻りが、俺の右手に僅かな溜めを生む。
上体の捻りによって腰の支点よりも回転の外側にある肩が、角速度によって更に加速して前に出た。
同時に軽く曲げていた右手の肘がスムーズに伸びて行き、俺の体重と移動速度を上乗せした右拳が更に加速する。
右拳の掌側を左斜め上にした状態から肩を被せるように振り切ると、最高速度に乗った俺の右拳が抉り込むように約180度程左に回転してぶち当たる。
しかし、その寸前! 僅か手前で、下から突き上げられたティグレノフの大きな膝に防がれた。
俺の、渾身の一撃は完璧に膝でブロックされていた。
ティグレノフの固い膝下の筋肉に激突する、俺の右拳。
そのまま力を緩めずに、体ごと拳を押し込む。
後ろ足の膝を伸ばす反動で腰を回し切り、ほんの僅かだけ残っていた肩の回転角を使い切った。
腰が捻れ、更に拳は余分に捻り込まれて、右の拳は更に前へと押し込まれてゆく。
俺の拳に乗せた身体強化系スキル込みの単純な物理パワーが、相手を防御ごと吹っ飛ばした。
後方へと吹っ飛ばされたティグレノフは、そのまま10m程綺麗に飛んで地面を転がって止まる。
「オッケー、オ見事!」
その一部始終を注視していたヴォルコフが、手を叩いて拍手していた。
吹っ飛ばされたティグレノフが、何事も無かったかのようにヒョイと起き上がる。
「常識外れのパワーとスピードで技術の優劣をひっくり返しちゃうなんて、真面目に修練してる人が見たら泣くわよ」
金髪と言ってもプラチナブロンドで、その上ふわふわ巻き毛のロリっ子アーニャが、半ば呆れたように俺を見ていた。
11~12歳くらいにしか見えない幼い顔と姿に似合わず、なかなか的確な分析だ。
「反射神経に頼ラないで良い分、フェイントに騙されル事も無いだろうネ」
ヴォルコフは、満足そうな顔をしている。
俺のやっている、『見切り』スキルの上に格闘技の基本的な歩き方や動き方をプラスする戦い方は、ヴォルコフの発案だ。
俺の内心は、ドヤァ!なんだけど、周囲の評価はアッサリしたものだった。
どうやら俺クラスの能力が有るのなら、出来て当たり前らしい。
正直に言うと、俺は褒められて育つタイプだと思う。
だから、上手く出来た時はもっと褒めて欲しい。
「なにしろ相手の動キをじっくり見極めてから動イても、先に当てられる驚異的なスピードと、一撃で倒せる反則パワーがあるからね」
何事も無かったように起き上がっていたティグレノフが、そう言いながら笑顔で戻って来た。
あれだけ派手に吹っ飛んだと言うのに、体にも衣類にも傷一つ付いていない。
しかし、それは当然だ。
真剣勝負をしなければ上達は遅くなるし、かと言って大怪我をする訳にも行かない。
だから俺が事前に、物理防御結界をお互いの体に張っていたという訳だ。
だからこそ手加減抜きの真剣勝負が何度でも出来るし、それだけに短期間で俺たちはかなり上達しているはずだ。
「次はレイナ、お願いデキますか?」
ヴォルコフは俺たちの戦いが終わるのを待っていたように、レイナに稽古を付けてくれと声を掛けた。
「その次は、オレもオネガイします」
ティグレノフも、同じ気持ちらしい。
異世界と言うか、主観的には「こちらの世界」と言うべきなのだろう。
俺の彼女だった紫織の居た「元の世界」から、皆で「こちらの世界」に転移してきて、かれこれ三週間になる。
俺は魔法力制御の訓練と同時に、ヴォルコフとティグレノフという二人のプロから格闘技を習い、その二人に加えてアーニャを加えた三人でレイナから剣技を習っている。
メルは、もっぱらイオナから魔法を習い、弓の練習も欠かさずやっている。
アーニャも魔素を扱えるようにイオナが指導をしているが、今のところスキルが使えるようになったとは聞いていない。
だからなのか、彼女は剣と平行してメルに弓の扱いも習っていた。
そんな華奢な姿でありながらも流石は特殊部隊出身だけあって、アーニャもナイフを扱わせればプロ級だけど、異世界でヴォルコフとティグレノフの足手まといにならないようにと、剣の修練も頑張っている。
そんな彼女を見ていると、前の世界での、あのツンデレでクールな姿が嘘のように思えてしまう。
「こっちに来てから、元からあったサイキックのパワーは確実に上がっている気はするのよ」
そう言ったのはアーニャ自身なのだけれど、まだその力を目の当たりにした事は無い。
例えそんな物が無くたって俺がチビアーニャを守ってやるさ! とか、実は密かに思ってたりもする。
彼女の事を、亡くした俺の妹の代わりと考えている訳じゃ無いけど、ロシア出身の三人を俺のトラブルに巻き込んでしまったという、そんな想いも無い訳じゃない。
まあ、保護者みたいなヴォルコフとティグレノフの二人が居れば、それは余計なお世話なのかもしれないけどね。
そんな事を考えていると、金属と金属のぶつかり合う激しい音が耳に入ってくる。
振り向いてみれば、ヴォルコフがレイナに剣技の指導を受けていた。
「くっ!」
「腋が甘いわよ!」
「ちぃっ!」
「まともに正面から攻撃を受けないっ!」
「くぅっ!!」
虎の遺伝子を組み込まれたティグレノフに対して、狼の遺伝子を組み込まれたのがヴォルコフだ。
そんな獣人の有り余る力に任せて高速で叩きつけられるヴォルコフの剣は、とてつもなく力強くて速い。
こちらの世界に来て、まだ三週間程度だと言うのに、この上達ぶりには目を見張らざるを得ないだろう。
そして、それを物ともせず華麗に受け流す華奢なレイナは、もっと凄い。
向こうの世界に居るときには、こんなに凄い人だとは思ってもいなかったのが、正直なところだ。
「あなたの得意なナイフを使うときのように、受け流して隙を作らせるのよ!」
レイナの厳しい指摘が飛ぶ。
そんな特訓の様子を、俺の横で真剣に追っているティグレノフが呟いた。
「レイナの攻撃ハ、俺でも受けるのが精一杯だヨ…… 」
前の世界に居たときは、優しくて控えめで料理も上手で、でも不正な事には厳しい顔を見せる事もある、そんな素敵な曾祖母のレイナ。
今この世界で長い銀髪をなびかせている美女のレイナは、ひとたび剣を握れば性格が一変する。
魔素が特別に濃いらしい異世界に来てから、曾祖父のイオナと共に一気に若返ったのには驚かされた。
元から年齢の割には若くて綺麗な人だったけれど、異世界に来て本当に若返った今は、神々しいくらいの美人だ。
見かけだって、どう見ても20代後半くらいにしか見えない。
ヴォルコフよりも、もっとパワフルなティグレノフを相手にしても、涼しい顔をして受け流してしまう事の出来るレイナ。
そんな彼女に攻撃を軽々といなされてしまえば、流石に狼獣人のヴォルコフだって疲労の色は隠せない。
元は現役の軍人で、尚且つ遺伝子改造部隊の隊員でもあった二人は、素手の格闘術や軍用の大型ナイフを使った戦い方が本来は得意だ。
でも、二人とも剣を使った戦いと言う物が性に合うのか、剣技の習得に対して非常に熱心に取り組んでいる。
異世界に来てから、魔素の影響なのかレイナの教えが上手いのか、剣技スキルと言う技も使えるようになってきているらしい。
「ぐはっ!!」
剣と剣がぶつかり合う激しい音と共に、ヴォルコフが吹っ飛んだ。
「ヴォルコフ! 前から言っているように、あなたは大型剣に拘らないで、もっと細身の剣にしなさい。 あなたの持ち味であるスピードを生かすのよ」
、あれだけ激しい打ち合いの後だというのに、涼しい顔でレイナがヴォルコフに語りかけた。
ヴォルコフは、大きなクレイモアを地面に突き刺して立ち上がった。
しかし黙ったままで、レイナのその意見には答えない。
見た目通りに素の筋力なら、狼獣人のヴォルコフの方が華奢で細身なレイナより遙かに上のはずだ。
ヴォルコフでなくても、レイナが使いこなせているのなら自分だって大型の両手剣が使えるはずと、そう思うだろう。
さっきから、黙って練習を見ていたイオナがヴォルコフに声を掛けた。
「レイナを真似ても無駄じゃよ。 レイナはの、魔力を効率よく筋力に変換する武技を持っておるのじゃ」
俺はそれを聞いて、レイナの華奢な姿に似つかわしくないパワーの理由に納得した。
魔素の濃いこちらでは、そのスキルの効果時間は無制限に近いかもしれないのだ」
「そうよヴォルコフ。 大きく重い剣は、あなたの持ち味を殺してしまうわ」
レイナは、イオナの言葉を否定しなかった。
「あいツ、日本のアニメとかゲームが好きでね、剣と魔法の世界で大型剣を扱う細身の主人公に憧れがあるんだヨ」
ティグレノフが、俺の横でボソりと呟く。
俺は少しだけ、ヴォルコフの拘りが判った気がした。