三話
「ルナティナ、そなたはどう思う?」
きりりと痛みを訴える胃に思考が持っていかれていた所為で、一瞬お父様の言葉をきちんと理解するのに時間がかかった。
今、なんと言った? お父様が、公の場で私に意思を確認した?
「まあ、クルシュもまだ幼いからな。ルナティナ、やっと帰って来たのだ。まずはゆっくり過ごすが良い。リオンよ。そなたも大義であったな。今後もルナティナの良き剣であることを期待する。さて……シフィージェよ、頼んだぞ」
「承りました。ルナティナ姫、さあ」
シフィ先生に促されて、お父様に礼をしてから後に続く。
王妃様の方は意図して視線は向けない。
というか、だ。あれ? え? なにこれ? 一体何が起きてるの?
たったの一言。されどそれは、王の言葉だ。
鬱陶しいくらいに感じる視線の数々がざわざわと体を這って来て気持ちが悪い。私を品定めする目だ。久しぶりに感じるその不快感に、ああ、本当に私はアザゼルに守られていたのだと唐突に自覚する。
ヘブンバル国では国民からの物珍しげな視線は感じても、自国で今受けているような、こんな視線は全くなかった。全て、アザゼルが手を回してくれていたんだろう。私が過ごしやすいように、心を砕いてくれて……アザゼルはずっと、それこそ真綿で包むみたいに優しく私を守ってくれていたんだ。
「背筋を伸ばしなさい」
シフィ先生の声が思考の海に沈み込んでいた私を引き上げる。
慌てて、それでも、見た目はそんな風には見えないように取り繕いつつも……私は、しゃんと背筋を伸ばしてシフィ先生の背を追う事にのみ集中する。
私に向けられる数々の視線を振り払って、王の間を後にした。
「ああ、そうでした。リオン・エイタット・ダクルートス」
「はい」
しばらく歩いて、薔薇園の手前で立ち止まったシフィ先生がゆっくりと振り返る。
お仕事モードなのかその表情は無表情で、声音ですら平坦でなんの感情も窺い取れない。
「貴方はこのまま一度家に戻るように。時間は有限でしょう?」
「お気遣いありがとうございます。ですが」
「今の貴方に出来る事の最善を尽くしなさい」
シフィ先生の放つ言葉に、リオンがピシリと固まる。
数瞬迷って、リオンはゆっくりと頭を下げた。
「ルナティナ様、暫くの間お側を離れる事をお許しください」
「許します……待ってるわね」
少し考えて、言葉を付け足す。
それにリオンは少しだけ目を見開いて、嬉しそうに笑って頭を下げた。
たったの一言。それだけでこんなにも喜んでくれるのだから、私は随分とリオンに対して不誠実だったんだなって改めて実感して、じわじわと罪悪感が滲んでくる。
それを振り払うように私も笑顔を浮かべて、リオンを見送った。
「では、行きましょうか」
シフィ先生に微笑まれて、そっと薔薇園の奥へと促される。
数年ぶりに訪れたそこはやっぱりとても綺麗で、そして懐かしくて。ああ、帰ってきたんだなあっていろんな感情がごちゃまぜになる。
迷路になっている薔薇園を進んで、休憩所になっている開かれた部分に出ると、思わず心の声が漏れてしまった。
「わあ! 可愛い!」
薔薇の刺繍が施されたパラソルの下に用意されたそれは、とても可愛らしいものばかりで固められた二人だけの小さなお茶会の場だった。
日本と中華が混ざったようなヘブンバル国と違ってラグーン国は完全に中世の時代だ。ドレスだし、イギリスとかがイメージに近いかもしれない。
真っ白な陶器のティーカップセットは真っ赤な薔薇のイラストで統一されていて、三段のケーキスタンドには食べやすいよう一口サイズにされたサンドイッチやケーキ、クッキーがあった。そのどれもが、幼いころ好きだった物ばかりがチョイスされている。
「シフィ先生! ありがとうございます!」
「喜んで貰えたようで何よりです。ルナティナ姫の好みが変わっていないと良いのですが。九年も離れていたのです。貴方のお話を沢山聞かせて下さい」
ふわりと微笑んだシフィ先生は、そのまま側に控えていたメイドについっと目線を一つ送る。礼をしたメイドは、心得たとばかりに紅茶を入れてくれて、そっと離れた位置まで移動してくれた。そうして席につけば、ふんわりと森のそよ風に全身を撫でられるような、そんな感覚に包まれて、ああ、これも本当に久しぶりだなあと自分の中で張り詰めていた空気が抜けて、ほっと息を吐く。
心おきなくおしゃべりが出来るように、認識阻害というか、防音の膜を貼ってくれたんだろう。
「シフィ先生、ありがとうございます」
「これからまた、苦労するでしょうからね。今ぐらいしかゆっくり出来ないでしょう」
「あ、やっぱりそうなりますよね」
あははと乾いた笑みで返せば、王にはあとできちんと申しておきますからと微笑まれた。
お説教ですか。お説教ですよね。うん。
シフィ先生は私達人間と違ってエルフだ。三百歳を優に超えるシフィ先生は、それこそ今の王としての貫禄ありまくりなお父様の生まれる前からこの国に仕えてくれているわけで。
公的な場では臣下の立場を取っているけれども、プライベートな場ではお父様の良き隣人だ。
全ての積を抱え込まなければならない王という孤独な椅子に座るお父様が、唯一頼りになる存在。双剣の一人でもあるナルキもまた頼りにしているんだろうけれど、やっぱりよちよち歩き以前から知られているとあって……心境的には第二の保護者みたいな部分があるんだろう。
「お父様があんな風に言って下さるとは思ってもみなかったので……とてもびっくりしました」
「それだけ、ルナティナ姫に期待しているんですよ。クルシュ姫は貴方のようにはなれませんから」
シフィ先生の言葉を曖昧に笑ってその場を流す。
あれー? あれー? なんかさらっと重大事実というか爆弾落としてるけど、なんかやっぱり私期待されてます?
「王が王位継承権を持つ姫に、意見を求めた。発言こそさせませんでしたが、ルナティナ姫ならきちんとこの意図を読み取れますね?」
「傀儡や国の駒としてでなく、お父様は私に王位継承者としての在り方を求めた、でしょうか」
最後の方は、自分の解釈が間違っていて欲しくてちょっと尻すぼみになっていく。けれどやっぱり、私の解答は正解だったようで、シフィ先生は良く出来ましたとばかりに微笑みで返してくれた。
うん。間違っても良かったんだよ? というか、王位継承権二位の私に、お父様はスペアを求めるってこと? 本来であれば、王位継承権一位に何かあった時の為の保険として扱われるのは正しい扱いなんだろう。でも、私は王妃様の血を引いていない。なのに。
「それだけルナティナ姫が優秀ということでしょう。ダクルートス家の継嗣を騎士として手元に置き、誰も膝を折らなかった死神すら跪かせた。そしてヘブンバル国の王子を心酔させる……姫自身もその身に滅多に宿せない色を宿しているのです。少々、いえ、かなり……目立ちすぎましたね」
「う、はい……ごめんなさい」
「国としては良い事ですよ。ここは実力が全ての国なのです。ルナティナ姫はこの国の王族です。この国に仕える身としては、能力のある王に国を導いて欲しいですから」
「それは」
シフィ先生の言った言葉の意味が上手く頭の中で処理出来なくて、というか、だ。今言われた事を正確に理解することすら恐ろしくて、はっと息を飲む。それなのに、シフィ先生はとても恐ろしい事を口にしているっていうのに、穏やかに微笑んで我関せずにティーカップに口を付ける。
「誰にも聞こえはしませんよ。聞かせるはずがないでしょう?」
「そう……でした。つい」
シフィ先生の自信満々の発言に、ひくりと頬を引き攣らせる。た、確かに。王の双剣の名は伊達じゃない。エルフっていう種族的にも魔術の素養の高いシフィ先生は、この国随一の魔術師だ。
今はもうこの国はどこの国とも戦争はしていないけれど、私やお父様が生まれる前からこの国の宰相職にあるシフィ先生は戦争経験者でもある。鉱石が発掘されるわけでも、生産性の物が多い国でもないけれど、それでもラグーン国は豊かな国だ。実力主義の国だけあって、人材や知識を求められて……なんて時代もあったらしい。
「それはそうと、ルナティナ姫は今後、どうしたいですか?」
「え?」
シフィ先生の問いかけの中身が予想外で、一瞬頭の中が真っ白になる。
「なんて顔をしているんですか。考える事を放棄する、つまりそれは思考の停滞であり死です。まさか」
「あ! 考えてます考えてます! 出来れば王位継承権を成人と同時に返上して国の役に立つ貴族か他国に嫁いでまったりライフしたいです! あ」
すうっと細められたシフィ先生の眼差しに、長年生徒としていろいろと躾けられていた身としてはなんとか否定せねばと、ぽろっと私の将来設計を馬鹿正直に話してしまう。慌てて口を両手で押さえるけれど、吐きだしてしまった言葉は戻ってはこない。
「ルナティナ姫」
「は、はい」
重苦しい溜息と共に呼ばれて、背中を流れる冷や汗が止まらない。あれ? あれ? お茶会どこいった。なんかもう、これって説教? 説教だよね?
「その考えを私以外の誰かに告げたりは」
「あ! してない! してないです! 今! 今初めてぽろりと!」
なんとも可哀想な子を見るような目で見られて、微妙な空気が流れる。
そんな、可哀そうな子を見る目でじいっと見つめないでほしい。罵倒でも説教でもなんでも良いから何か言って欲しい。それなのにシフィ先生はもう一度溜息をついて、紅茶に口をつける。
あれ? スル―? スル―された? 聞かなかったことにしてくれたんだろうか。もしくは、呆れてしまった?
「ルナティナ姫」
「は、はい!」
暫くの間、お互い無言で紅茶を飲む時間が続いて……丁度、紅茶がなくなった所でシフィ先生が口を開く。
「なんというか、昔から残念だ残念だと思っていましたが……ここまでとは」
「あ、はい。えっと……ごめんなさい」
「ルナティナ姫……まったく、貴方という方は。王族なのに自己顕示欲はないし持てる力も使わず宝の持ち腐れ。かといって中身は残念でも頭まではそうではありませんし」
う? うん? 淡々と無表情で述べられていくと、こう、かなり心にぐさぐさと刺さってくるのですが。シフィ先生?
私を貶しているのか貶めているのかわけがわからないけれど、それでもつらつらと耳を塞ぎたくなるような事を言った後にしかし、と言葉を続けてシフィ先生は微笑んだ。
「アザゼル殿からの婚約話は、ルナティナ姫からすれば丁度良かったということでしょうか。まあ、こちらの国の事情からあちらに嫁ぐ場合はクルシュ姫の成人を待ってになりますが……婿であればルナティナ姫の成人と同時に婚姻も可能です。なにはともあれ、貴方の厭う王位争いからは身を引けるでしょう。ですが」
「ですが?」
ふいに言葉を切って、そうして真っすぐに私を見つめてくる先生の目は、私にとっての普段の先生という姿よりも、これからの国の未来を見つめる宰相の……とても厳しい眼差しで。けれどそれが、ふんわりと私のよく知る柔らかい、いつものなんだかんだで甘くて優しい先生の目に戻る。
「私は、ルナティナ姫には玉座がとてもよくお似合いだよ思いますよ」
そうしてまるで天気でも語るかのようにあっさりと、簡単に紡がれた内容はあまりにも重苦しくて。思わず私は鳩が豆鉄砲食らったみたいにポカンと口を開けて固まってしまった。




