九話
「えっと、あれ? タナトスってば騎士になるのは嫌なんじゃなかったっけ? 聞き間違い?」
ざわざわとなんとも言えない感覚が背中を駆け巡る。
恐怖、とはまた違ったその感覚がなんなのか突きとめたいけれど、それはつまり厄介事に首を突っ込むと言う事で。出来る事ならスルーして全力でなかったことにしたい。
そんな私の思いをタナトスはお見通しなんだろう。
視線が私から外れたかと思ったら、勝手に枕元にある灯りをつけて、これまた勝手にベッドに腰掛けて寛ぎ始める。
えっと……自由だなあ。突っ込みたいけれど、墓穴を掘りたくなくて眺めるだけにしていたら、にいっと笑うタナトスと目が合ってなんでかすっごく泣きたくなった。
「そんな顔すんなよ。難しい事をお願いしたわけじゃないと思うんだけど? ほら、あのワンコだって側に置くかどうか決めたのはお姫様だろ? あのワンコより遥かに俺の方が役に立つし身の安全は今以上に保障されるしで良い提案かと思うんだけど」
細められた目は捕食者のそれで、ああ、これは絶対逃げられないんだろうなって心の中で諦めの声が生まれる。それでも、なんでこんな展開になっているんだと混乱する私もまだいるわけで、とりあえず雇用するにも私自身が自由に出来るお金はないし、持っている宝石類も王家の物であって嫁いだりしたら返却されるものであり、タナトスの給料になる物がないと告げてみるけれど、生きてく分はもう稼いだからいらないって返されて、その返答に実際には出来ないけれどちょっと殴りたくなった。
「えっと、稼ぐ必要がないなら私に雇われる必要もないんじゃ?」
「稼ぐ必要はないけど、お姫様に仕えたら面白そうじゃね?」
「それってつまり、それだけ私の人生綱渡りってことだよね」
言い返して、本気で涙目になった私をタナトスがにやにや笑いながら目元を優しく拭ってくれる。うん、血まみれの手で。
私自身感覚がマヒしてるのか、触って来たのがタナトスだったからかで嫌悪感とかは浮かばなかったけれど、それでも血がつくのは嫌なので、拭われた後に自分でも拭っておく。あ。袖が赤黒くなっちゃったけど、これどうしよう……あとでスティにどう言おうかなって投げやりに思考を逸らしてたら、ベッドに腰掛けてたタナトスに引き寄せられて、目が合うようにタナトスの膝の上に引き上げられた。
「はは。うだうだすんの面倒臭いだろって思うんだけど、うだうだ悩むのがお姫様なんだよな。しょうがないから、譲歩してやろうか? 選択肢で提示した方が選びやすいだろ?」
選択肢で出されても暗殺者なんて欲しくない。
殺す覚悟のない私にタナトスとかって、すっごい宝の持ち腐れじゃないだろうか。
私の考えを正確に理解しているであろうタナトスは、ムカつくぐらいに人の悪い笑みを浮かべながらぴっと指を立てた。
「その一、俺と雇用契約を結んでとりあえず有効活用してみる。その二、すっぱり諦めて俺に殺される。その三、契約とか面倒ならとりあえず飼われてみる。その四、」
「え!? いえあの? なんかその二からすっごい不思議な……っていうか、なんか私の生死とか人生がかかってる!?」
「んなこといったって、しょうがないだろう? 俺、なんだかんだでお姫様の依頼とか結構受けてたし。お姫様の身分だったら、そのうち絶対俺に暗殺依頼来るぜ?」
暗殺依頼、の辺りで絶対わざとなんだろう。
両脇から手をどけて、すとんとタナトスの膝の上に降ろされる。
そして、がっちり両手で首に手を這わされる……もちろん、ぎゅっとはされないけれど、微妙に力を入れられていてぞわぞわとした何かが背中を走る。
「まあ仕事は仕事だし。もし依頼が来たら、他の誰かに殺される前に俺がしっかり殺してあげるけど? 勿論、その時は痛みを感じる前に上手に殺してやるよ」
熱に浮かされた睦言みたいに、甘ったるい感じでそら恐ろしい事を言わないでほしい。
脅されているはずなのに、いまいち危機感を感じられなくて困ってしまう。
「タナトスって、ロリコ」
「ああ?」
「いえ、ごめんなさい」
うっかり失言しかけて、慌てて口を閉じる。
このままなあなあに流せないかなってちらりと考えたりもするけれど、逃げられそうにないからしっかりと考える。
気配でそれが分かったのか、それとも早く決めろと急かしているのか、左手は相変わらず首に添えられたままだけれど、右手は解放されてそっと腰に手を回される。
首を絞められるかもしれないってのさえ目をつむれば、キスされるみたいな体勢だなって気付いて、ちょっとだけ心臓が跳ねた。
いやいやいや! 落ちつけ私! 私まだ子どもだし! タナトスだって十も下の子どもなんて……てかてか、タナトスってこんなキャラだったっけ!?
「えっと……殺されるのは嫌だけど、だからってやられるかもしれないから殺しとくってのも嫌なの。タナトスを雇って、タナトスを使っちゃうと、そういうのからもう逃げられなくなっちゃうと思うのです。だから出来れば現状維持……って何やってるの?」
腰に回されていた方の腕が、せかせかと腕やら脇やら背中をせわしなく行ったり来たり。
所々くすぐったくて体をひねるけど、なんとなくタナトスのしている事が分かってそのまま抵抗せずに受け入れる。
「えっと、綺麗に治ったよ?」
「みたいだな」
わしゃり、と遠慮のない手で頭を撫でられて、一体この状況はなんなんだろうと一人悶々と頭を胸中で抱える。
首には相変わらず手を添えられたままだけれど……これはあれか?
もともとゲームでのタナトスはルナティナに雇われてクルシュを殺そうとしてた。共通バッドエンドには攻略キャラの好感度が初期段階での設定ラインに到達しなかった場合にタナトスにさくっと殺されるってのもあったし、私はヘブンバルに遊学してしまったけれど、やっぱりゲームの強制力みたいなのがあって、ゲームとは違うけど大まかなつじつま合わせみたいな感じで、こんなことに?
タナトスを雇うのはすでに決められた事だから、この現実世界でもそうなってるの?
それにしても、まだ私の年齢が幼すぎる気もするんだけれど。
「そんなに悩むものか? これから先、お姫様の暗殺計画が立ち上がったら準備段階で潰すし、お姫様自身殺しが嫌だっていうなら、お姫様の敵は失脚くらいで留めておいてやるからさ、もっと人生気楽に考えてみれば? ん? ああ、今さらだけど悪い。汚してたな」
「へ? あ、はい」
タナトスはいつの間にか猫みたいな笑顔を引っ込めて、ちょっとだけ焦ったようにごしごしと私の手や目元を拭ってくれた……んだけれども、えーっと?
「あの……拭いてくれてもあんまり意味ない、かも?」
「あー、だなあ。悪い」
あまり触れる事のないごわごわとした肌触りの服で拭われたけれど……なんとなく、ちょっとだけだったはずの被害が広範囲になった気がする。
出来れば錆びた鉄の匂いなんかとお友だちにはなりたくないし、タナトスが拭う度に範囲は広がっていってるんだけど……ここは突っ込んでは駄目なんだろう。
なんだかめまぐるしく怒涛の展開を迎えに迎えまくって、トドメがタナトスの訪問……私の驚きゲージはとっくの昔に振りきってしまっていたようで、なんかもうあとは一週回って変に頭の中は冷静になった。
うう、平和だった前世がすごく懐かしい。
「悪い。汚すつもりはなかったんだがうっかりしてた」
「ああ、はい、大丈夫」
「なんだよ……うっかりしてた俺も俺だが、やっぱりお姫様もたいがいだな?」
や、そんな反応にケチつけられても……ねえ?
それでも、なんとなくきゃあとか可愛らしい反応が返せなかった事が申し訳なくて、ごめんと謝れば……うん、すごく可哀想な子を見る目で頭をわしわしと撫でられた。
わーい、そういえば髪にも血がべっとりでした……これはさすがに泣きたいかもしれない。
「お姫様って、お姫様らしくないよなあ。なに? これが正妻と愛人の子の違いなわけ? いや、同じ正妻の子でも跡取りの争いってドロドロしてるからなあ……こうなれなかったら脱落、ってことか?」
あんたもそれなりに大変なんだなってもう一度頭を撫でられて、それからタナトスはどこから取り出したのか、ビー玉サイズの透明なガラス玉を取り出して、パキンと指で握りつぶす。
砕けた欠片はさらさらとさらに細かい粒子になって私達を包みこんでまとわりつき、そして消えていく。
浄化の玉。
野営をしなくてはいけない時とかに重宝される魔法具。
使い捨てで、お風呂のかわり。
初めて経験したけど……うん、血なまぐさい匂いは消えてる。
待って。これ使ってくれてたら、私、タナトスに裸見られずにすんだんじゃ?
そう思ったのが顔に出たのか、タナトスに呆れ顔でこれは怪我までは治らないからなって言われた。うん、ですよねー。
「えっと、ほんとに辞めちゃったの?」
「嘘ついてどうする。優秀な部下がいるからね。そいつに全部譲ってきた」
「それは……その部下さんお疲れ様です」
タナトスはギルドのまとめ役だし、タナトスがいるからこその依頼は沢山あったはず。会った事のないその部下さん、胃は大丈夫だろうか。
やっぱり現実と向き合いたくなくて、タナトスを見ながらつらつらと思考の海に沈む。
えーっと。
やっぱりタナトスを雇うのは宜しくないよね。いらないフラグとか立てそうだし。でも、逆に断って殺されてしまうのも嫌だ。
うーんと頭を抱えて唸る私に飽きたのか、ふにっと軽く頬を右手で抓られる。
なんというか、首に添えてる左手はいつ外してもらえるんだろうか。
「お姫様のその髪みたいに、神様の祝福というか……俺には認識阻害って能力があるんだけどさ、それって俺がきちんと意識して存在感出してないと、だあれも俺の事を見ることが出来なくなるんだよな。まあ、お姫様は違うみたいだけど。ちなみに、生まれてこのかたこの力が効かなかったのはお姫様だけ。賢いお姫様はこの意味、分かるよなあ?」
頬を抓っていた手が離れて、両手で首を覆ってくるタナトス。絶体絶命って言葉が警鐘音と一緒にぐるぐる頭の中を回り出す。
あれ? ちょっと待って? これって私、タナトス攻略しちゃってた?
タナトスは稀代の暗殺者だけれども、自身の認識阻害の能力を持て余し気味で、誰にも認識して貰えないし認識されてもすぐに忘れられてしまうっていう幼少期を過ごしたせいで孤独っていう心の闇を抱えていたはず。ありきたりだけれど、主人公はそんなささくれ立ったタナトスの心を癒して、人の温もりとかを伝えていってっていう恋愛ストーリーだったわけで。えっと、つまりつまり?
「お。理解出来た? 俺を見つけた時点でもう逃げられないんだよ。馬鹿だよなあ。見えないフリしてりゃ見逃してやったのに。追いかけるを選択したのはお姫様だぜ? さあ、どうする? 生きる? 死ぬ?」
認識阻害を売りにしているタナトスにとって、唯一見つけることが出来る私の存在は脅威でしかなく……そんなことは全くないんだけど、説明してもタナトスは面白そうに笑うだけだろう。
むしろ、私がタナトスに殺しの依頼なんて出来るわけないって分かって言ってる。私を困らせて楽しんでるんだ。
それでも……タナトスは選らんだ。何も選ばずには逃げられない。
「さて、お姫様に優しい俺は選択肢を掲示してみたわけだが……どれにする」
「その」
「その?」
雇うのも殺されるのも全部嫌だ。
でも、タナトスを退ける力なんてものも私は持っていない。だったら、お互いの妥協案を出すべきだ。
心の中でよし、と自分を叱咤してタナトスを真っすぐに見返す。首輪のように添えられた両手をがしっと掴んで、私は勢いに任せて口を開いた。
「その四! お友だちになるでお願いします!」
「は?」
タナトスにとっては突飛な提案だったんだろう。
あっさりとタナトスの両手を引き離す事に成功して安堵の息を吐きつつも、私は意識して子どもらしい無邪気な笑みを浮かべて一気に畳みかける。
「お友だちなら報酬のやりとりなんてしないよね! 持ちつ持たれつな平等な関係! お友だちならお互いを嵌めようとかしないし! 仲良く一緒にお茶とかお買い物とか! お友だちなら仲良くずっといれるし! ね!」
咄嗟に浮かんだ案にしてはなんて素敵な提案ではなかろうか!
そうだ! 友だちだ! タナトスと友人関係を築けば良いのだ! 友だちに殺しの依頼なんてしないし、お互いに困ったことがあれば助け合えば良いわけで、関わるか関わらないかっていう極論にならなくて済む! おお! 私冴えてるぞ!
私の提案はタナトスにとって予想外だったんだろう。
目をまんまると見開いて固まるタナトスに、押し通すなら今だとばかりに私は笑顔の大盤振る舞いをする。
「ね! そうしよう! そうしましょう! そしたらタナトスも寂しくないもんね! タナトス、私とお友だちになりましょう!」
首から外したタナトスの両手をぎゅと握って、友好の握手とばかりにぶんぶん振る。
タナトスはちょっとだけ呆けて、それでも私の提案がきちんと飲み込めたらしい。一拍間が空いて、ふんっと失礼にも鼻で笑って……それから、その笑みをちょっとだけ柔らかくして私の手を握り返してくれた。