五話
「きちんと温まった? 着替え用意して来たけど……何固まってんの。ほら、体拭いてやるから上がって上がって」
どれだけの時間が過ぎたのか分からないけれども、冷えた体が温まる頃にはタナトスは戻って来た。
気配消して背後から声かけるのやめてくれないかな。
そろそろ上がろうかなって立ち上がりかけた所だったから、慌ててざぶりともう一度薬湯に浸かれば、きちんと浸かったはずなのに突然訪れる浮遊感に背筋が凍る。
「へ? てかえ? え? いやいやいや! できる! 一人で出来る!」
振り向けば、端に新しく用意してくれたらしいドレスを置いてざばりと私の両脇に手を入れて持ち上げられていて……じたばたと暴れるものの、抵抗空しく綺麗に拭きあげられた。
その手はどこまでも丁寧で、普段侍女達がしてくれるのと同じ手順。なすすべもなく、されるがままに尽くされて……泣いても良いかな。というか、全私が泣いた。
「あー悪いな。流石に王城並みのもんは用意に時間かかるから。肌やら髪やらのケアは帰ってからやってもらって。で、とりあえず傷口は塞がったし、あとは痣が残ったくらいか?」
まごつくことなく手際良くドレスを着せて貰ったら、今度は抱き上げられてベッドの上に座らされる。
私、タナトスの隠れ家に来てから一歩も自分で歩いていない気がするんだけど、気の所為じゃないよね。
そのままタナトスは後ろに回って、壁にもたれかかるようにベッドに胡坐をかいて、その上に私を再び乗せる。ええ、ええ、されるがままな私。
なんかもうお風呂でいろいろと諦めがついたのか、抵抗なんかせず大人しくされるがままだ。
ごつごつとした手からは想像出来ないくらいに優しく髪の水滴を拭きとられて、気持良くってついうっとりと目を閉じてしまう。
しかしあれですか。用意するのに時間がかかる……つまり用意出来る財力はあると? それとも、これは盗んで来たものなんだろうか?
「何?」
「いや……助けてもらっておきながらあれだけど、盗品だと嫌だなーと」
ぐるぐる考えてた私はお気に召さなかったらしく、後ろで髪を拭いていてくれた手に顎を掴まれてがっつりと上を向かせられる。
「ねえ、俺の職業って何か分かって言ってる?」
「あー、えと、はい。ごめんなさい」
素直に謝れば、ぞくりとするような笑みで手を離される。
あれ、オカシイな。タナトスはイケメンではなくフツメンだ。だから普通にすごまれても、イケメン程怖くはないはず。それでも、猫みたいに細めて笑いかけられると捕食される側の気持ちになってしまうのはなんでだろう。
ヘビに睨まれた蛙。むしろ、猫みたいに笑うタナトスだからこの場合私はネズミ、になるんだろうか。
「普段赤ばっか着てたからどうかな、と思ったけど、白も似合うもんだな」
「ありがとう……これってタナトスの趣味?」
普段って言葉がちょっとひっかかったけど、藪蛇をつついても良いことはないと思いなおしてスル―しておく。
ひらひら、ふりふり。
自国にいた時はそれなりにひらひらふりふりした物を着てたけど、スティが私の侍女になってからはシンプルな物ばかり着てた。
少しつり目な、いかにも悪役令嬢ですって顔立ちの私は、やっぱりひらひらふりふりした物よりも肩や背中をがっつり出したシンプルなドレスの方が似合う。
エンパイアラインとかAラインのとか。
でも、タナトスが持ってきたものは普段私が着てる物とは対照的だ。真っ白なレースのティアードスカートドレス。
スカートの部分はフリルを何重にも重ねていて、小さな花嫁みたいなドレスだ。
ぬいぐるみ好きだし、ひらひらふりふり好きな私としては嬉しいけれど、大きくなればなるほど似合わなくなっていくんだろうなあ。
少しだけしんみりしていたら、よそ見するなとばかりに掴まれていた手に力を加えられる。痛いです。お願いだから顎を砕かないでくださいよ?
しかも、そう繰り返されると首を痛めそうなんですが。
首まで痛めるのは嫌だなと、そのままタナトスにもたれかかって背中を預ければ、少しだけ目を丸くして、次には盛大に溜息を吐かれた。おう、何故だ。
「なんていうかお姫様さあ、警戒心とかないわけ? 俺なんかにあっさり触らせて。いっつもそんなに無防備だとあっさり死んじゃうよ?」
「だってタナトスだし。タナトスは、依頼がないと殺さないでしょう?」
「ふうん?」
なんだなんだ。
私を殺す依頼でも入ってたわけ? 一瞬だけそんな考えがちらりと巡って、それでもタナトスに狙われれば命は百パーセントないのだと思いだして、強張ってしまった肩の力を抜く。
稀代の暗殺者、タナトス。
ルナティナの魔力を持ってしても敵わない相手。
ゲームで追い詰められたルナティナは、力いっぱい抵抗する。でもタナトスにとって、そんなの抵抗でも何でもない。
スチル集めの為に何度も見たルナティナとの対決シーンは、あっという間の一瞬だ。
ルナティナはチート能力こそないものの、素晴らしい魔術師でもあった。
無詠唱でだいたいの魔術は使えた。それでも、発動までに数秒かかる。その数秒で、タナトスはルナティナの足の腱を斬って無力化してしまうのだ。
処刑の為に殺さなかっただけで、そんな必要がなければもっと早く殺せただろう。
願わくば、主人公であるクルシュがタナトスにときめかないでいて欲しい。タナトスを攻略された日には……むしろ、クルシュがタナトスに惚れた時点で私の死は確定なんじゃなかろうか。
すうっと血の気が引いて行く。
顔が青ざめていたのかもしれない。それを見たタナトスが、なんだか不快そうに眉を顰める。
「何? 流石に読心術までは心得てないから、言葉にしてくれると手間がかからなくて助かるんだけど」
「手間ってなに、手間って。や、言わなくて良い。えっと、タナトスがクルシュのになったら困るなあって」
「困るって、俺のご主人様はお姫様だろう?」
「ん?」
「あ?」
「へ?」
「なに、その間抜け顔」
素直に心の内を吐露すれば、なんだか聞き逃せない事を言われたような。
そう言えば、ここに連れて来て貰う前にも俺のだとかいろいろ言われていたような?
「え? へ? え? えええええええええええええええええええええ? ちょ、どういう事!?」
顎を掴まれていた手を振り払って、がばりとタナトスへと向き直る。
ベッドに座って壁にもたれかかっていたタナトスの服を掴んで見上げれば、タナトスはにやにやと人の悪い笑みで私を見降ろした。
「何? ゲームの内容忘れたわけ?」
「ゲーム……私がタナトスを見つけて捕まえるのが、前に助けてくれたお礼ってやつ?」
捕まえるまでがセット。
無事完了出来ればもれなく私の命もセットでついてくるスリリングなゲームだ。
「やっぱり忘れてる。それもだけど、その約束をする前のやりとり」
人畜無害そうに、どこにでも溶け込んでしまいそうな笑顔を浮かべてそう言ったタナトスは、胸に手をつかれて迫られるような体勢がお気に召さなかったのか、片手で私の両手首を掴んで押し倒し、ベッドに私を囲う。
そんなに高くないベッドはスプリングがきくわけでもなく、どすん、と言った鈍い音を立てて軋んだ。
えーっと、あの? どうしてこうなった。
「俺の事、覚えてたらよろしくしてあげても良いし、しばらくの間飼われてあげても良い……三年前だしね。お姫様は忘れちゃった?」
人畜無害そうな笑顔で、明日の天気でも話すみたいにさらりと落とされた言葉。
でも、私の中に落とされたそれは急速に巨大な重みとなってずっしりと心にのしかかってくる。
「お、覚えてる……本気?」
ごくり、と自分の喉が鳴る音が普段よりも大きく聞こえた。
着替え終わった後にタナトスから水を貰って飲んだはずなのに、喉がカラカラだ。
普通に声を出したはずなのに……私の口から出たんじゃないみたいに、掠れた声しか出ない。
「俺って結構優秀な奴だからお買い得だよ? まだまだ順番は回ってきそうにないしね。なあ……俺を雇って、いらない奴を消したら平和な生活が送れるんじゃないの? 例えば、王妃とか第二王女とか……お姫様にとっては、いらない奴だろ? 消えたら、ここ、すっごいすっきりするんじゃないの?」
とん、と。
手首を掴んでいた手はいつの間にか私の心臓の位置に移動して、軽く手を置かれる。
何度も言うがタナトスはフツメンだ。
イケメンじゃないから、その顔に見惚れる事もないし、アザゼルみたいな美声でもないから、その声にときめく事もない。
でも。
それでも。
どこにでもいそうな、すぐに忘れそうな顔立ちなのに。
それなのに、すうっと細められた目に見つめられると目が離せない。
雑踏にまぎれてしまいそうな声なのに、胸に落ちたらそれは、甘美な麻薬のように私の心の中をかけめぐる。
支配、される。
「なあ、考えてみてよ。後ろ指さされない生活。かなり気をつかって生活してきたんだろう? 嫌な者、ぜーんぶ消しちゃえば、誰もお姫様をいらないなんて言わないよ? 殺しちゃえば、すごくすっきりする。どうせこのまま成長していけば、殺し合いになるんだろう? 毒に夜の闇に人の心に怯える生活って楽しい? なあ、継承者がお姫様一人だけなら……それも随分と軽減されるんじゃないの?」
もしも王妃様がいなければ。
クルシュがいなければ。
それは確かに、私の身の安全は今以上にぐんとあがるだろう。
でも、それって本当にそれで良いの?
「タナトス」
「んー? 良い提案でしょ?」
解放されていた手でそっとタナトスの両頬を包む。
稀代の暗殺者であるタナトス。
確かに、タナトスを私の騎士に出来るなら私の安全は保障されるだろう。
簡単だ。
殺られる前に殺れば良いんだから。
ぐるぐる。ぐるぐる。
頭の中で、前世でプレイした攻略キャラ達とのルナティナの対決場面がぐるぐる回る。
今は私の側にいてくれているリオンも、アザゼルも……クルシュの事が好きになってしまう可能性は捨てきれない。
私を疎んでしまう可能性も、だ。
「タナトス、あのね」
喉がからからする。
酷く、乾いて掠れた声しか出ない。
それでもタナトスにはしっかりと聞こえていて、仮面を取ってつけたみたいな、そんな優しい笑顔で促される。
その笑顔が嫌で、すとんと心の中に落ちて来て、決心がついた。
「いらない。暗殺者のタナトスは、いらない」
猫みたいに細められていたタナトスの目が、まんまるになる。
猫だましされたみたいな、固まった顔。
そんな顔も出来るんだって思ったらタナトスを身近に感じられて、私はくしゃりとした笑顔を浮かべた。
「私、みんなに守ってもらってばかりで何も持ってないの。だから雇われてくれるって言われても、タナトスに返せる物が何もない。そうだ。ドレスありがとう。洗って返すね。で、帰り道わからないから送ってくれるとすごく助かるんだけど。だから、タナトスを見つけて捕まえたご褒美くれるならそっちの方が良いかな」
「なんていうか……お姫様って本当に頭弱いんだね。大丈夫? よくそれでここまで生きてたね。ああ、だからアザゼル様が庇護下に置いたのか。これは酷過ぎる。鳥籠の鳥にしても、もうちょっと中身あるもんだよ?」
なんかぼろくそに言われてるような気がするけど気にしない。
むっと眉を寄せてしまったけど、何も言い返さずにタナトスの腕の囲いから抜け出そうと頬に当てた手を胸に当てて試みるも……びくともしない。
「お姫様ってさあ、自分がおかれてる状況理解してる? 馬鹿なの? 死にたいの?」
「な、そこまで言わなくても良いじゃない! 死ぬのも殺すのも嫌なの! それにタナトスだって暗殺者としての誇り? 矜持? とかあるんじゃないの? 仕事以外殺さないとか。タダ働きなんてしたくないでしょう? タナトスはそんな安っぽい暗殺者じゃないでしょう?」
「ふ……はは、あははははは! 何それ? やっぱお姫様って馬鹿でしょ?」
無事にタナトスの囲いから脱出するも、床に足をつけるまえに再びタナトスに捕まって、わしわしと頭をなでくりまわされる。
うん。爆笑してるタナトスとか初めてみたわ。
「俺ってさあ、仕事選べる立場なわけ。お偉いさん方は俺を雇いたくてしょうがないの。仕事を失敗した事がないから、こうしてお姫様の前にいるわけだしね。ねえ、もっかい聞くよ? 暗殺者の俺はいらないの? すっげえお買い得だよ?」
「しつこい! いらないったらいらないの! ただでさえリオンやアザゼル様にだって何も返せていないのに、これ以上何も返せない相手増やしてどうしたら良いのさ! なに? そんなに私に構ってほしいの? だったら暗殺者やめて私の騎士になる? 私だけの騎士。出来ないでしょ? 私だけのにならない相手なんていらない」
「ふうん? お姫様だけの騎士、ねえ?」
しまった、言い過ぎた。
ゆらりとタナトスの雰囲気が柔らかい物から冷たい物に変わったのを肌で感じ取って、慌てて口を閉じる。
それでも、なんだかそのまま口を閉じるのも負けた気がして面白くなくて、じとっと睨みつけてやる。
タナトスが纏う冷たい雰囲気は変わらないまま、それでも面白そうに歪められた目は怖いとは感じられなくて、だから私はタナトスの目を真っすぐと見返す事が出来た。
「とりあえず送るよ。ここじゃあ怪我の完治はしてあげられないしね」
軽く溜息を吐いて、もう一度くしゃりと頭を撫でられる。
腕の囲いから解放されたと思ったら、今度はそのままよくアザゼルが私にしてくれるみたいに、片腕に私を乗せるようにして抱き上げられていた。
「あの、私歩け」
「急いでたから靴の用意はしてないんだ。お姫様も早く戻りたいでしょ? 完全回復するまで泊めても良いけど、俺もこのあと雑務があってね」
にっこりと笑って反論を封じられる。
タナトスってこんな強引なキャラだったっけ?
もっとあっさりした感じだと思ったんだけど。
やっぱり、ゲームでと実際に触れあうんじゃ全然違う。
「よろしく、お願いします」
「はい、承りました」
抵抗をやめてぺこりと頭を下げたら、今までで見た中で一番楽しそうにタナトスは笑って、またくしゃりと私の頭を撫でた。




