三話
手足を一生懸命動かしてなり振り構わずに走る。
後ろは振り向かない。
慌てたように追いかけてくる気配がスティなのかリオンなのか分からなくて、分からない事すらもう恐怖でしかなくて。
本当だったらすぐに元の場所に帰らないと駄目なのに、そんな正常な判断が今の私には出来なかった。
走って走って走って、口の中に鉄の味が広がって頭がガンガンしてきた頃、足がもつれてドンっといくばくか柔らかい地面に転ぶ。迷路とも呼べる庭園を滅茶苦茶に走り回って、もう自分が今どこにいるのかも分からない。ああ、迷子だ。王城とはいえ、自分の家の庭で迷うってどんだけだ。しかもこれ、遭難レベル。また迷惑をかけてしまう。
「私、何やってんだろ」
じわっと視界が歪んで、慌てて起きあがって目をこすれば、手についていた土が目に入って痛い。あ、もう無理だ。そう思ったらぽろぽろと涙がこぼれた。
「リオン、元気そうだった」
会ったら、無事をしっかりと自分の目で確認をしてお礼を言いたかった。助けてくれてありがとうって言いたかった。
でも実際はどうだろう。怖いと思った。あの綺麗な目に自分の事を嫌う色が映ってるんじゃないかって。
助けてくれたのに大怪我をさせたんだもん。嫌われて敬遠されても仕方ない。頭では分かる。なのに子どもの体に心がひっぱられる。感情を大人だった時みたいに上手にコントロール出来ない。
「ふ、ふえ」
もうどうしたら良いか分からなくて、恥も外聞もかなぐり捨てて泣き喚いてしまおうか。
声を抑える事すら今の私では困難で、口を開いたその時、ぽんっと大きな手が背後から私の頭を撫でた。
「こんにちは。何? 君、迷子? 親か乳母とでも離れたのかな」
腰にずんっとくる重低音の美声。
前世で聞き慣れたその声に思わず涙が止まった。
ぎぎ、と。油の切れたロボットみたいに、ゆっくりと見上げる。
腰よりちょっと短めの、チョコレートみたいな濃い茶色の髪を三つ編みで一つにまとめたその人は私の……前世の私がよく知る人だ。
「ん、こすったのかい? 目の周りが汚れているよ。ほら、取ってあげるから目を瞑って?」
困ったように髪と同じ色の目を細めながら、朱色の着物の袖でごしごしと目元を拭われる。
展開の早さについて行けなくて目を瞬かせれば、ぽろりと残ってた涙がこぼれおちた。
「痛かったんだね。怪我は? おっと。流石に私が足を見るわけにはいかないか……おいで」
「ひゃわ!?」
ぐんっと目線が高くなって、あっという間に私を抱き上げたイケメンと同じ目線になる。顔! 顔が近い! 心臓に悪い!
「あ、あの、あのあのあの」
「さて小さな姫君はどこへ行きたかったのかな。ああ、場所の名前は分かるかい? とりあえず、この薔薇園を出た方が良いのかな」
ゲームで聞いていた声よりも、少しだけ高い声。
当然だ。私が今五歳っていうことは、彼もそれだけ若いってことなんだから。
えーっと。ゲームでの彼はいくつだった? ルナティナと十五歳差。ということは今二十歳?
ん? そもそもこんな大物の彼がどうしてここに……ああはい、いやいやいや。いるよ。いて当たり前だよ。だってもうすぐ主人公のお披露目誕生パーティだもの。この国の正式な王位継承権第一位。他国からもお客さんが来ないわけはない。
うん。でも眼福だ。睫毛長いなあ。染みやそばかす一つない肌。や、今世の私もまだないけれど、なんだろう。男の人のクセに肌綺麗だし、髭とかないし……流石攻略対象者。文句なしに格好良い。
私くらいの身分になると、面倒なことにお友だちっていうのは周囲が用意するものらしい。
側室の子だけれど、それなりに私は利用価値があるから、野心のある者ならお近づきになりたいんだろう。この国の国風からすると、自分の力で成り上がるものだからそういうのは少ないけれど。でも、従者も主も自分で探せってところがある。周りの大人達に用意された私のお友だちは確かに将来有望な子達ばかり。臣下に嫁ぐっていうのも将来的には良いんだけど、精神年齢があれなせいで同い年か少し上な子達をそういう風に見る事は出来なかった。だから物語の王子様に恋するおませな女の子ってのを演じてたけど……うん。格好良いなあ。この人のバッドエンド的には、絶対敵に回したくないけど。出来る限り近寄らない方向で行きたい。
「あの、歩けます」
抱っこされるとか貴重だ。しかもお姫様抱っこ! 恥ずかしいけど嬉しい! でも、ずっとこのままも流石に駄目だよね。だからそう言ったんだけど、にっこりと微笑まれてスル―されてしまった。
「さて、もうすぐ庭園の出口だよ。出口についたらどうしようか? 近くにいる者を捕まえてくれば良いのかな?」
おお! 素敵です。衛兵さんかメイドさんを捕まえて、そのまま退場してくれるんですね!
私は一方的に彼の事を知っているけれど、向こうは知らないはず。私の髪の色はそれなりに有名だから検討はついているかもしれないけど……出会いが出会いだったからなあ。
知らないフリしてそのまま忘れてくれるつもりなんだね。うん。流石大人。格好良い。お互い身分ある立場で非公式の出会いとか面倒以外の何物でもないもの。
「さてと……ここで良いかな」
庭園の出入口についた所で、足は痛くないのかもう一度確認されてそっと降ろされる。
うん。お姫様抱っことか貴重な体験をありがとう。
お陰でいろいろ涙も引っ込み……あ、やばい。どうしよう。さらっと頭から追い出してたけれど、逃げ出してきちゃったよ。
うん。分かる。自分の所為で大怪我させてしまったんだもん。何言われるか怖いのは分かるけど……逃げるの良くない。覚悟、決めなきゃ!
「大丈夫だよ。すぐに人を呼んでくるから、そんなに不安そうな顔をしては駄目だよ」
不安っていうか、どっちかっていうと決死の覚悟の顔です。でもここまで連れてきてくれてありがとう。本当に助かったよ。ここからだったら自分の部屋に一人で戻れるけど、流石にスティを置いて行くわけにはいかない。人を誰か呼んできて貰ったら、スティを探してもらおう。中でスティは私を探しているはずだし、私がまた戻るよりは良いはず。ああ、呼んでもらうならメイドさんが良いな。通信道具持ってるはずだし、それで私がここにいるって知らせてもらえば良い。よし、そうしよう。
「あの」
「ルナティナ様!」
メイドさんをってお願いしようと口を開けば、名を呼ばれて遮られる。ひくりとお互い微妙な空気になってしまった気がするのはきっと私だけではないはず。困ったように笑う彼の目には、すごい形相で追いかけて来てくれたリオンが映っていた。