十話 スティ・ダクルートス
戦姫。
武の申し子。
烈火の令嬢。
わたくしにはスティと言うきちんとした名前があるのに、誰もわたくしの名前を呼ばない。
それでも、まだそれは良い方かしら。
何故なら、それはわたくし自身を指し示すものであり、わたくし以外に該当者はいないのですから。
今思えば、そう呼ばれていた時期が人生で一番輝いていた時なのでしょうね。
スティ・ダクルートス。
武の申し子と呼ばれもてはやされた、数少ないわたくしの輝かしい思い出。
弟が生まれてしばらくしてからは『リオンの姉君』としか呼ばれなくなった。
わたくしの価値は姉というものしかないのかと、随分と荒れた時期もありました。
流石のわたくしでも、完全に吹っ切れるまで枕を何日も涙で濡らしてしまいましたし、気持ちの切り替えに随分と自棄になってしまって、血の雨を降らせたのは今となっては良い思い出でしょう。
それまでわたくしは何不自由なく過ごしてきた。
わたくし自身に誇れる力はない。けれど生まれた家が良かったのですわね。
昔は随分と憎みましたが、今では感謝の念が溢れて家名を汚す事が恐ろしいくらい。
ちょっとしたおふざけでそこら辺のゴロツキを血祭りにしたり、ちょっと鬱憤晴らしに盗賊狩りなんてものを控えようかなと遠慮するくらいには、ですが。
ああ本当にわたくしも丸くなったものね。
だって折角の獲物……ではなく、憂さ晴らし……でもなく、一人で遊ぼうとせずに、わざわざ弟の社会勉強の為にと無理やり連れて実地での勉強を見てやるようになったのですから。
わたくしには十三と年の離れた弟がいる。
いつもわたくしの心を黒く染め上げ、それでいて愛さずにはいられない可愛い弟。
わたくしなどが弟と同じ土俵に立つことなどありえない。それほどに、優秀な弟。
この国は成り上がりの国。
実力こそが全て。
奴隷でも優秀であれば貴族の地位まで成り上がる事が可能。
だからこの国の貴族は、怠惰とは無縁の者が多い。
当然ですわね。貴族という地位に油断して胡坐をかいていれば、あっという間に下から這い上がってくる者たちに喰われてしまうのですから。
それは、この国の建国時から続く四公と呼ばれる名門貴族、ダクルートス家であってもかわらない。
武によって王の側仕えにまでのし上がった王の剣。ずっと武に秀でた者を輩出させて来た事でその位置を盤石な物にしてきた。
けれどもそれは、わたくしが生まれるまでの話。
ダクルートス家直系の戦姫。
ええ、そう呼ばれ持てはやされていた時が確かにありましたわ。
もはや過去の栄光。
女である事はこの国では欠点でもなんでもありません。
身体的能力なんて、自身に力があればどうとでもひっくり返せる。それがこの国の見解。それについては異論はない。ええ、全く持ってありませんわ。ただ、わたくしには力がなかった。力もなければ、魔力値も一般的なラインより下だった。これが意味することが理解出来るでしょうか。
この国では、三歳になると魔力検査が行われる。
これは国民の義務です。この国に生まれた者は、まずこの検査で振るいにかけられる。ここで強い魔力を持っていれば、例え最下層の民であったとしても無償で学ぶ場を与えられる。
宝の持ち腐れを許すな。子どもでも知っているこの国特有の名言の一つ。
そしてわたくしの弟、リオン・ダクルートス。
三歳での魔力検査では、氷と水の適正を出しましたわ。そしてその魔力値は一族で一番強い母に劣るものの、母に次ぐ魔力量。
わたくしはと言えば、日常生活で使うのにぎりぎり困らない程度の魔力値。下から数えた方が早い。
そしてリオンは物覚えが良く大変頭の回転が早い子でした。だから後ろ指を差されたのでしょう。武にしか秀でていない姉と全てにおいて優秀な弟。そう影で言われ続けましたわ。
「こんの、馬鹿者が! いくら教育を施されているとはいえ、リオンはまだ七歳だぞ! 庇護すべき小さき者を置いて自分のみ助かるなど何を考えているのだ! お前はそれでもダクルートスの生まれか! リオンの姉か!」
「その場における最善の手でした。わたくしでは敵わない敵だったのです。でしたら、少しでも早く情報を持ちかえる方がリオンの救命率も上がるはず! 人攫いの開く違法な人身売買の場はすでに押さえましたし、数名わざと泳がせてあります。ですから早くて今夜にでもリオンを取り戻せるかと」
ああ。
そう言えば実の父にも最後にきちんと名前を呼ばれたのはいつだったでしょうか。
そんなどうでも良い事を考えながらも、五十を過ぎても老いを感じさせない自身の父から目を逸らさず、淡々と告げる。
憂さ晴らしにこの国の悪を潰す事を覚えたのは、リオンの魔力測定が終わってしばらくしてからのこと。リオンの教育が五歳でスタートしたのをきっかけに、リオンに実地の戦闘訓練という大義名分を掲げて城下町に繰り出すようになったのでしたっけ。それなりにいろいろと後ろ暗いことだらけの組織を一年かけて手当たり次第潰してまわったせいか、組織と裏で繋がっている貴族達からは随分な恨みを買ってしまったのでしょう。結構暗殺などがこの一年で増えた気がします。
まあ、リオンの良い教育……もとい嫌がらせと鬱憤晴らしに大いに活用させてもらっている、というのは内緒の話ですわね。
「ええい、今回の件は儂の政敵が絡んでおる。儂の後継者である二人を潰すことで儂の代で終わらせようと目論んだのだろう。まあ、お前が退避を選択しなければならんかった相手……つまりあちらもそれだけ本気だということじゃ。リオンが一手しくじれば……死ぬぞ」
「リオンが……死ぬ?」
あのリオンが?
天使のように可愛らしいリオン。
でもそれは見た目だけで、中身は残念な子だとわたくしは知っている。
リオンの才能は憎い。わたくしにないものを沢山持っているリオン。それは、わたくしがどんなに努力をしたとしても手に入らないものばかり。けれど、同時に可愛い弟だから仕方ない、と思えるわたくしもいる。そう思ってしまう程に中身が残念なのです。あれは苦労する。リオンがではなく、リオンと共に歩むと決めた周りの者が、です。
わたくしにないものを沢山持っているリオン。
でも、リオンがどんなに頑張ってもこれから先リオンの選ぶ道によってはリオンは苦労する。
それが分かるからわたくしはリオンに優しく出来るし、姉として可愛がってやるか、と思えるのです。
リオンは良いおもちゃ……でなく、わたくしの可愛い弟。
その可愛い弟が……死ぬ?
「ありえません」
「残念だが、ありえたようだぞ」
ずっと睨み合うようにお互い目を逸らさなかったのに、あっさりと逸らす父。
そのまま、苛立たしげに書斎の窓を開け放つ。それと同時に感じる冷気。
「やめなさい」
父に制されて、反射的にスカートに仕込んだ剣に手が伸びていたのを慌てて引っ込める。
目の前には、額に血の結晶を宿す氷の鷲。リオンの魔力で作られた人造物。
「もう。脅かさないでくださいな。やはりあのリオンが一手しくじるなんてありえませんわ。馬を用意して参ります」
「待て。儂も行こう。魔術が得意な側近と私兵も動かせるだけだ」
「整えるのに少し時間がかかりますわね。では、わたくしは先に向かっておきます。この鳥の魔力の残滓を辿れば良いのです。わたくしには無理でも他の者なら出来るでしょうから」
お父様の返事を待たずに部屋から飛び出す。
ただただ悔しかった。
家が抱える私兵を動かす、その事実が憎らしい。
いや、本当ならば我が子が攫われたのです。
持てる手全てを打って救出に向かうのが普通なのでしょう。
ですがそれはあくまで一般論であり、ダクルートスには当てはまらない!
わたくしが同じ状況だったとして、リオンと同じ扱いをしてもらえるでしょうか?
考えるまでもない。答えは否。
ああ、でもリオンが死んでしまうなんてありえないわ! そんなの、許されることではない!
ドレスを着替える事すらせずに馬屋まで走り、放牧から戻ったばかりの一番最初に目についた葦毛の馬に跨る。
しまった。これではまたドレスを汚してしまいますわねとチラリと考えましたが、どうせわたくしには似合いませんわ。母に似たリオンと違い、わたくしは目も髪の色も父と同じ赤い色。血の色です。ふんわり波打つような、貴族の令嬢に相応しい髪質ではなく、腰まで伸ばした髪はどこまでも真っすぐで、色合い的にも戦場に良く栄えるでしょう。
苛烈な正確をそのまま映したかのような容姿には、可愛らしいドレスよりも血濡れた武器等の方がお似合いね。
「全く手の掛かる弟だこと。応援を求めなければ切り抜けられないだなんて。わたくしもですが……これは鍛え直さなくてはね」
誘拐犯を懲らしめた後、訓練と称してどうやって城下町に繰り出そうか。
背後から追いかけて来ている仲間の馬の蹄の音を聞きながらそんなとりとめのないことを考える。
勿論、体は馬が動きやすいよう、より良いスピードで走れる態勢を維持し、目の前を飛んで案内する鳥を追う。
馬が出せるぎりぎりの速度で飛ぶ鳥の気遣いに、普段の弟を彷彿とさせて若干の苛立ちを感じながらも目線は外さず、感覚だけで手綱を操る。
「この調子なら、スピードを上げてお父様達が来る前に……な!?」
城下町を出て、それなりに森を駆け抜けた頃。進行方向の大分先の方で爆発が起きた。大きな音に冷静さを失って暴れる馬を慌てて沈め、目線をリオンの作った鳥に戻す。
「消えた? そんなまさか!」
まだ与えられた命をなしえていないのに、途中で消失する。
それはつまり、術者が魔力を供給出来なくなったということ。あのリオンが? そんじょそこらの者では敵わない程の魔力量を誇るわたくしの弟が?
「何をしておる! 急がぬか!」
「は、はい!」
追いついてきたお父様に急かされて馬に鞭を入れ、爆発のした方へと駆ける。
早く、早く早く!
進むごとに何かが焦げる不快な臭いが強くなる。
赤々と燃え広がる木々の数々。
敵に炎系の魔術師がいたということ? でも、相性で言えばリオンの方が有利のはず。それに、確実ではない勝負はするなと口を酸っぱくして教え込んでいる。それこそ条件反射で逃げ腰になってしまう程度にはリオンにではなく、リオンの体に教え込んだ。
なのに、これはどういうことですの? 分からない。分からないから怖い。リオンに限ってもしもということはないはず。だって優秀な弟ですもの。そこらの悪党に負ける可能性すらありえない。それなのに。
「あ、あ、あ、ああああああああああああああああああああああああああ!」
急に開けたその場は、いろんな者が赤々と燃えていた。
真っ赤だったり、黒焦げだったりする木々に、黒ずんだ塊。
多分、かつては誘拐犯であった者達。
体の一部が欠けている者もいる。
みんなみんな無様に地面に転がって燃えている。
わたくしのリオンまで!
「リオ、リオン! リオン!」
馬から飛び降りて転がるように駆けよる!
リオンの服は燃え焦げて原形を留めておらず、真っ白だったリオンの肌は焼け焦げてドス黒く変色し、辛うじて軽度の火傷で済んでいるのは顔だけ。
焼けて黒ずみ、癒着してしまってもう動かせない腕に抱き抱えているのは一人の女の子。この子を庇ってリオンはこんな怪我をしたの?
かあっと頭に血が上って、引き剥がそうと女の子に手を伸ばす。それを小さな氷の礫がはじいた。
僕のだよ、触らないで。
一瞬だけ目を開けたリオンと目が合う。そう、言われた気がした。
その子は、リオンの特別?
リオンは昔から、あまり特別を作らない子だった。
四公と呼ばれる大貴族に生まれたのです。そうそう対等な立場での友人が作れるものではないのでしょう。利害関係の一致で成り立つ者の方が圧倒的に多いのですから。
昔から、リオンは好きなモノには恐ろしいまでの執着を見せた。愚直というか、盲目というか……どういう神経をしているのか疑う事は数知れず。
リオンは強いモノに心惹かれる子だった。
だからわたくしも、魔力では勝てなくとも、その他ではリオンの上にいようと努力した。
リオンに魔術の扱いを教えた師達はどうなった? リオンが彼らを越えてしまった時のリオンの顔。ふと、そんなことを思い出す。
「何をしている! 早く治療を!」
お父様の声に回復魔術の得意な者がリオンに近づく。
リオンの意識はもうない。
わたくしは場所を譲りながら、口が笑みの形を作っていた事を自覚して、慌てて手で覆って隠す。さすがにこんな場で笑うなどありえないでしょう。
わたくしにないモノを沢山持っているリオン。
憎くて憎くて、それでも可愛くて仕方のない大切な弟。そんな弟が特別を見つけた。ええ、きっとこの子はリオンの特別となるでしょう。この子はリオンが持っていないモノを示したのね。リオンが執着してしまう程の何かを。
それはつまり、そういうことで。
この子はその事に、耐えられるでしょうか?
わたくしが欲しいモノを全て持っているリオン。それらは、どんなに努力しても手に入れられない才能ばかり。
それでも、わたくしがリオンを完璧に嫌う事が出来ないのは、リオンが完全ではないから。
むしろ、力があるがゆえに人として欠けている。そんなリオンが特別な人を見つけた。これが笑わずにいられるでしょうか。
可愛い弟が大怪我をした原因になったであろう女の子。本来ならば報復の一つでもしているところだけれど、わたくしはこれからこの子に降りかかるであろう厄介事を思って、少しだけ。
そう、ほんの少しだけこの子に同情した。




