一話 熱走、逃走
熱をはらんだ両脚が前へ前へと跳ねていく。破裂しそうな心臓によって、頭からつま先に至るまで、燃えるように熱い血流が筋肉に供給され、皮膚の産毛一本一本に至るまでが逆立ち、蒸気を放出している。持ちえる限りの知見を活用し、俺は学校近くの路地裏を縦横無尽に駆け抜けていた。
「待てやガキィ!」
後方から、男の方向が狭い路地に響き渡る。緑色のフードを深く被るこの男から、少しでも距離をはなそうと、俺の足は止められずにいた。今は逃げ切ることが専決事項だ。必死がゆえに暴走する思考回路を自制しながら、細い路地の障害物を回避していく。
「裂衣のガキ! おとなしく止まれぇえ!」
れつい? なんのことだ? 知らない単語に、ますます追われる理由がわからなくなる。フード下の表情は伺い知れないが、男の醸し出す危険な様相から、足を止めるべきでないことだけは確かだ。目に付いた道のゴミ箱を蹴り倒し、妨害して男を振り切ろうとする。
「いい加減にしろや!」
なおも浴びせられる怒号。男との距離を確認しようと振り向いた、まさにその瞬間だった。何かがこちたに向かって飛来してくる。風を切って音を立てるそれらはなんと、手のひら大のカッター、三角定規、シャーペン。鋭利な文房具だった。スローモーションで捉えたそれらは俺の右頬すれすれを通り抜けていき、眼前のサビの露呈したパイプに突き刺さった。瞬間、菅を破裂し、大量の冷水が吹き上がる。
(一体、どこから出したんだ?)
素手で隠せるような服装でもないはずモノが男から飛来したことに、俺は本能的な恐怖を感じずにはいられなかった。緊張によって筋肉は更に硬直し、足に力が入る。
しかし、体力の限界が近づきつつあった。長距離走で用いる持久力を駆使しているとはいえ、もう五分以上走っているのだ。徐々にスピードが落ちているのは明らかだ。そもそも、運動部でもない俺がここまで走り続けていることが、奇跡といっていい。それほど恐怖が人間に与える力はすさまじいのだと実感する。しかし、下半身の筋肉に腫れを感じ始めている。もう持ちそうもない。
確か、次の角を曲がった先には鍵を掛けることの出来るフェンスあったはずだ。そこで逃げ切れなければ捕まってしまう。最後のチャンスだ。俺は最後の気力を振り絞り、歩幅を広げ、息を止め、渾身の力を振り絞り、ダッシュした。
――視線に気付いたのは、つい十分前のことだった。俺は、今日から高校生活二年目を迎え、同じ高校に入学した妹、彩水〈あやみ〉とともに登校していた。
「今日から高校生かぁ。何か不安」
彩水はため息をついた。
「華の高校生活じゃないか。女子高生。普通は喜ぶもんじゃないのか?」
はぁ、と再び彩水はため息を漏らす。
「どうしてそんなに不安なんだよ。全く同じ中学からの友達も少なからずいるだろうし、兄ちゃんもいるじゃないか」
「はぁ…」
三回目は、少し長い溜息をつき、彩水は口を開いた。
「ホント分かってないね、お兄ちゃんは」
彩水は半ば蔑んだように俺を見る。
「何が?」
「女子高生に抱く期待が大きいからこそ、もしそうじゃなかったらって思ったら不安じゃない? 高校生活がいいものになる人間なんて一部だってあたしは思うけどなぁ。お兄ちゃんみてる限り」
その目はまるで、自分の未来の姿を見て憂いでいるようだった。確かに、高校デビュー成功者がいるということは、一方では失敗者や思い描いた高校生活を送れずじまいになった人間も居るということになる。彩水には俺が失敗者として映っているといるのだろう。自分はそこまで思っていなかったこともあり、ちょっとショックだった。
「まぁ、確かにそう言われると充実しているように見えないかもね。でも、兄ちゃんの場合は成績上位をキープしたいから、どうしても勉強中心の生活になっちゃうんだよ。特殊。彩水は普通クラスだから、そう重く考える必要もないって」
「ホントかなぁ…」
「うちの高校は部活も多いし、彩水の肌に合う部活だってきっと見つかるさ。もし、バレー続けたいって言うなら、バレー部もあるし、問題ないって」
「…そうだね。あたしの考えすぎかな。お兄ちゃん、ありがと」
「大丈夫だって、彩水なら」
そんな時だった。急に右肩に鋭い痛みを感じた。例えるなら、細長い杭を肩にジワリジワリと押し込まれるような痛み。しかし、肩に触ると痛いというわけでもなく、『この辺が痒いけど、いざ痒いところを手で探っても所在が判らない』というような気持ち悪さがあった。なにげなく、痛みのやってくる直線上に顔を向けると、その痛みが視線だとに気づいた瞬間、背筋に冷たい汗が流れた。
正確には、視線のようなもの、といったほうが正しいだろう。フードを目一杯被り、目が見えないからだ。緑色のパーカーを着込み、対岸の歩道を歩くその男は、その顔の隠したフードの暗闇の中から、確かに視線を送っているのだ。そして男は、明らかに俺達と一定の距離を保っており、同じ速度でついてきていた。
大きな交差点にさしかかり、彩水に一言告げる。
「ゴメン、ちょっと買い忘れたものがあった。悪いけど、先に学校行ってくれ」
「それなら、あたしもついてこうか?」
気を使ってか、彩水も立ち止まる。
「いや、大丈夫。それに、高校初日に妹を遅刻させるのも申し訳ないし」
「はーい。もー、お兄ちゃんったら。初日からしっかりしてよ」
「ゴメン。すっかり忘れてたんだ。じゃあ。友達たくさんできるといいな」
「うん。またね」
俺は手を振って横断歩道を渡り、学校と逆方向へ歩み出す。背後の視線を確認すると、緑フードの男が踵を返し、こちらに向かってくることを確認した。やはり、俺をつけているようだ。
なぜ男は俺をつけているのだろうか。俺は理由の無い尾行に違和感を覚える。不良と一悶着起こした覚えもないし、そもそもこの辺りには不良の溜まり場も無かったはず。昨今、無差別に人を襲う凶悪犯が増えているとはいえ、今朝の登校中に彼を逆立てるような行動をしたようには思われない。
再び振り返ると、男はじりじりと距離を狭めてきていた。
この尾行が無差別て突発的なものなのか、それとも俺を狙った計画的なものなのかはわからない。ただ言えることは、接触は、危険だということ。幸いにも学校は市街地にあり、路地が迷路のように入り組んでいる。尾行してくる男が土地勘のある人間は判らないが、トラブルは起こしたくないし、ここは巻いたほうがよさそうだ。
対岸の彩水を見る。かけてきた女子生徒と談笑していた。よかった。彩水のようすを確認した俺は行動を起こす。商店の立ち並んだ表通りに差し掛かると、即座に狭い路地に入って駆け出した。男も気づいたようで、走り出してきた――。
角を曲がると、巨大な緑のフェンスと中央に配置された金網のドアがどっしりと構えていた。あそこの鍵は、奥側からなら閉めることが出来たはずだ。有刺鉄線はないが、三メートル近い高さのフェンスのため、鍵をかければ、大きく時間を稼げるだろう。僕は急いでフェンスを抜けると内側から鍵を掛け、汗をぬぐった。
「はぁ、はぁ、はぁ…」
足を止めるや否や、どっと疲れが溢れ、僕は膝に手を付いた状態で動けなくなってしまった。足が、炉から上げたばかりの銑鉄のように熱く硬直し、意識も朦朧としてきた。間髪いれずに、フェンスの向かい側に男が現れた。
男は息を切らしているが、なおも怒声は止まない。
「いい加減おとなしくせんかい! もうお終いにしてやる」
男は頭を覆っていたフードを取り、両腕を捲り上げた。かろうじて目を見開き、男の特徴、凶器の有無を確認する。髪は金髪、顎には無精ひげが生えており、目つきは鋭い。パーカーのジッパーが下がり、露出した首元には、もち手の部分にチェーンを通した、紫ハサミのネックレス。右腕には、複雑に絡み合ったチェーンような黒い刺繍を施している。武器は握られておらず、素手のようだが、ポケットに何か忍ばせている可能性もまだ否定しきれない。しかし、先ほど投げつけてきたような、巨大な狂気を隠せるような場所は確認できない。
改めて、この男と出会ったことがないかを思い出してみたが、全く見覚えがない。眉間にしわを作り、睨みを利かしながら、男はフェンス越しに歩み寄ってきた。
「一体誰なんですか。あなたは…」
僕は、かろうじて声を発する。息は重く、弱々しくかすれた声しかでなかった。
「お前を迎えに来たんや、ガキ。はよ大人しく捕まらんかい」
男は顎を上げ、見下すような目線で手招きをした。
「意味が…わかりませんよ」
乾いた喉が咳を誘発し、うまく喋れない。
「あぁ? めんどくせぇガキなぁ!」
男は後頭部を激しく掻き回った。
「傷付けんように言われたけど、しゃーない。使うしかないか」
男はそう言うと、胸元のジッパーをさらに下げ、胸部を露出させる。俺の視線は即座に吸い寄せられた。胸元には、「心臓を掴む手」のような刺繍が施されて、その強烈な印象は、俺の眼に恐怖として彫り込まれた。
男は胸元に下がるハサミを握りしめ、叫ぶ。
「くたばっても後悔するなよ。…ステーショナリー・バーストッ!」
二話に続く。