流れ落ちる赤をとめて
「お前日本人か」そうですよ。
夫がそう答えたのを私は覚えている。
そして私が覚えているのは赤いモノだ。
それまで夫と私は普通に遊んでいたはずだ。
子供を両親に預け、久しぶりのデートを楽しんでいた。
不思議なものだと思う。結婚したら恋人と言うより戦友みたいな関係になっていた。
子育ては戦場みたいなものだ。朝だろうが夜だろうが食事中だろうが風呂に入っていようが排便中であろうが(※失礼)関係がない。
あの憎たらしい泣き顔とあの愛らしい笑顔と言ったらない。
私の身体のなかに彼の血を引く別の命が宿っていることを知った感慨は男の人には解らないだろう。
思わず検査薬を二本使ってしまった。
何の為に二本入っているのかその時初めて知った。
彼が胎教とほざいて流す悪趣味なラップに苦言を放つ。
私の好きなポップスに一緒じゃないかと悪態をついて早く買いすぎたとガラガラを鳴らす彼。
子供が胎にいると臭いとか味が気になる。
好きなものが吐きだしたくなるほど嫌になったりその逆だったり。
私の場合はお酒の臭いと煙草の臭いだった。
結婚する前は彼のその臭いを嗅いだ時呆れながらも安心していたのに。
私の乳房が張ってきたのを見て妙に興奮する彼を軽蔑の眼で睨んだ記憶。
鼻を引くつかせてびびってやんの。へへん。
おっぱいが出たら吸わせてと言う。
アンタは赤ちゃんかと頭をはたいてやる。
早く出てきてねとにんまりと笑う彼。微笑む私。
産んだのは私だ。アンタは当日仕事で帰ってこれなかっただろう。なにその憔悴した顔。笑ってあげるわ。
……。
……。
赤いもの。
塩っぽい匂い。しょっぱい味。顔にびっちゃりかかったなにか。
泣き叫ぶ声に男の人の怒声。なにがおきたんだったんだっけ。
「抑えて! 誰か。誰か救急車を! 男の人が首を刺された!」だれ。
こうちゃん。あれ。なにそれ。おかしいし。
「しっかりして。首をしっかり押さえるの。救急車が来るまで九分はかかるわ」
え。ここって日本だよね。
だってここって普通の日曜日で今って商店街で私たちは遊んでいて今日は遊ぶ。
私の前に割り込んできた女の人は高そうなバックをこうちゃんの首に押し付けた。
「ビニールが無いからこれで。本当は衛生的にビニールとかが良いんだけど」
「澄香! もっと押せ! 言っておくが間違っても血が止まったか確認しようとバックを外すなよ!! 圧迫がなくなると死ぬ」「解っているわよ!」あれ? 誰の声?
「澄香ぁ。ビニールみつかったけど」「心臓が動くたびに血が噴き出る。それより縛れ。そのバックは中身が入ってたりしないだろうな。血は一滴も出さないように布でもなんでもいいが極力負傷部位を完全に覆え。そして縛れ。人間は血液の三割を失うと出血死する。頸動脈は分厚い筋肉に守られていて表皮から二、三センチ離れている。殺意があってもそうそう貫通はしない」「もうっ? 二人とも黙っててよ!? こういう時に雑学も要らないから?!」
え? なに? 誰と話しているの? この声は?
くらくらする頭で周りを見回すと華奢な男の子たちが包丁を振り回していた男の人を抑え込んでいる。こうちゃん。こうちゃん。
「放して! 殺す気!?」こうちゃんをかえしてよ。後ろからだれかが私を抱きしめた。
「ボクは医者だ。内科医だけど救急救命の経験はあるから」
「はい。はい。みんなどいたどいた! 警察と救急車来ます」
「あなた。ちょっと悪いけど一緒に来て証人になってあげてください」
え。うそ。こうちゃん助かるの? え。ほんとう。
私は震える指先をそっと彼に添えて呟く。
「死なないで。こうちゃん。救急車がすぐ来るから」
九分って長いよね。歌でも歌ってあげようか。何も思い出せないけど。
「血管が破れた時は血液中に存在する血小板が集まって血の塊を作ろうとする。止血の方法は簡潔に言えば傷口をガーゼ、三角巾、ハンカチなどで完全にふさいで強く圧迫するだけだ。言うは易し行うは難しだがな。
これを直接圧迫止血法という。出血の95%がコレで対処できる」
「新も澄香も寝かせるより座らせてあげて。新は落ち着かないと。澄香のほうが落ち着いているじゃない。もう」
もうなにがなんだか。何のお話なの?
「しっかり押さえるのを手伝って。傷口は心臓より上の位置に。
首なら座らせる。圧迫も心臓より上に傷口があるのも血栓を作るを早めるから」
お医者さんのお兄さんが言うことを信じて押さえる。しんじゃだめ。こうちゃん。
適切な処置のお蔭でこうちゃんは助かった。
私は助けてくれたお医者さん夫婦にお礼を言うと彼女たちの娘を紹介された。
「光。このお姉さんがお礼を」「光ちゃんは『ひとみしり』するから私がケイサツにヒャクトーバンして知らせたんだよ」「香は偉いね。光。頑張ったね」「私も褒めて欲しい」「おしおし。香はよくやった。ちゃんと電話が使えたね」「へへん!」
私たちの子供もこんな風に元気に育ってほしいな。私はその時初めて笑えた気がする。
「というか澄香。ビニールは傷口に当てるんじゃなくて衛生手袋代わりに使うんだよ。助かったからいいけど」「そうなの?! ああああ?! 新からもらった大事なバックがぁ?!」
そう言って笑い合う彼女たちに私は最大限のお礼とバック代の弁償を申し出た。
「いいのいいの。お母さんの『そこつ』なんていつものことだから」「香~!? 後でおぼえてろ~?!」「お母さん香ちゃんを怒っちゃだめ」
涙目の小さなお姉ちゃんにバツの悪そうな顔を見せる女の人にほほ笑んでしまう。お姉ちゃん。泣き虫でも妹思いなのね。えらいね。
こうして笑い合える素敵な家族になりたいな。
そう思いながら私はすやすやと安らかな吐息を続けるこうちゃんの髪を撫でた。
~流れ落ちる赤をとめて~ おしまい
本編とあまりにも雰囲気が違いすぎるので別作扱いでしたが今回を機に統一しました。




