虎サポーター……修理のほうがお金がかかるもの
少しさかのぼる。
ただいま。今日不思議な事があったの。あのね。
ブーツを脱ぎ、除菌消臭と軽く汚れをシューズシューで取って部屋の中に。
静かだけどしっかりとしたロボット掃除機の動作音が聴こえる。少し気持ちが緩む。
パン屋のお兄さんが安くしてくれたベーグルを軽くレンジで四十秒暖め、その間にオーブントースターを暖める。
肉屋さんで頂いたラードでベーコンをカリッとさせて、アボガドや甘酢漬けや塩漬を二つに切ったベーグルに。
冷たいミルクを冷蔵庫から取り出し、箱のまま飲む。
お湯を沸かす。夜遅いからインスタントでいいか。
ねぇねぇ。
今日不思議な事があったの。アンタの同類に会ったの。壊れちゃったけど……。
ロボット掃除機さんはふわふわの尻尾を振りながら私の足元を通り過ぎていく。
……? あれ? ビニールを食べさせたの、怒ってる?
私は彼を抱きかかえると、おどけてキスしてみせる。
ねぇったら。機嫌直してよ。キミは機嫌が悪くなることは無いとか言うだろうけどさ。
ねえ? 無視? 怒るわよ。
彼の返事は。無い。小さな動作音と排気音だけが無駄に広いマンションの部屋にむなしく聴こえる。
いい加減にしなさいよっ 怒るわよッ 私がきつめの言葉を放つが、彼は何も言わない。
ぶんぶん彼を両手で振り、勢いあまって足元に落としてしまう。
きゃ…… しまった……。 よかった。動いている。……危うく足の爪を割るところだった。
ごめん。落としちゃった。許して。
ねぇ? あれ? 私はキッチンに走った。
インスタント珈琲を一気飲みする。舌が焼け、口の中をやけどし、喉に入った珈琲を噴出してむせてしまう。
ねぇ。どうして? ちょっと。私が何かしたの?
水道水をあふれるほどマグカップにいれ、どぼどぼとからになるほどインスタント珈琲の粉を入れて、飲む。
壮絶な粉っぽさと鼻をつく苦味に吐き出し、涙を流して胃の中身を吐き出す。
お湯を沸かし、深夜なのに淹れれるだけの珈琲豆をフライパンに投げ込み、煎る。
朝だと気がついたのは、珈琲の飲みすぎによる胃の激痛で目が覚めてからだった。
壊れた。直して。会社も忘れて電気屋に駆け込んだ私に店員さんは問うた。
『何をして壊したのですか』踏んだり。蹴ったり。マグを投げたり、ビニールを吸わせたり、水を吸わせたり。ちょっと落としたり。
『バカですか? 壊れて当然です』店員さんは本気で私を叱った。
『買い換えたほうが安くつきますよ』とも言われた。
いくらかかってもいいの。このひとを直して。
私が泣きつくと彼は何とか直してみせますと告げたが。
数日後。点検を終えた彼は告げた。
『壊れていませんよ』と。
壊れているよ。だって私の声が聞こえていないみたいだもん。
私にいつもお話してくれたもん。悲しいときは励ましてくれたし、だらけていたら叱ってくれたもん。
店員さんは苦笑いして告げた。
『そういうこともあります。ロボット掃除機はユーザーさんに可愛がられていることが多いですから。
でも次からは丁寧に扱ってくださいね。一応緩みやたわみを直して、ヒビはパテしておきましたが』
彼は戻ってきた。
でも、声が聞こえない。あのやかましい声が聞こえない。
汚部屋を叱る声も、嬉しいときに呆れたように淡々とつぶやく言葉も。
私は新のいない部屋の『KEEP OUT! 』と描かれたテープをはがし、その部屋に入り。
ホコリに塗れたプラレールの列車を動かして呆然としていた。
言葉を放たない彼が。私の横でプラレールに引っかかって悶えていた。
私の名前は紺野澄香。珈琲を飲めばロボット掃除機の言葉がわかる。そう思っていた女。




